まだ、悩んでいる

朝令暮改、前言撤回は当たり前。それは恥ずかしいことではない。と自分に言い聞かせる。

先日の記事『帰納法と演繹法を一度に味わう?』に書いたとおり、今月末に刊行予定の『奇想短編集 そののちの世界』は、ふたとおりの読み方が出来る本として構成している。完結編を冒頭と巻末の二箇所に置いて、読者さんがどちらの楽しみ方も選べるようにという趣向だ。

さて、本当にそれで良かったのか?
実は最初から僕の頭の中にはもう一つの選択肢があった。

短編集と見せておいて、実は一冊の長編だったというやり方だ。昨今、プロの作品にはそういう作りのものが多いようで、無関係だと思って読み進めていたものがあるきっかけでグイグイと収束していくのがとても面白い。それを行うためには完結編をバラバラに分解し、各話の中にまぶしていく必要がある。まあ、言ってしまえば伏線を後から埋め直すような作業だ。技術的には難しいことではないし、ものすごく時間のかかる加工にもならないだろう。上手くやれば、僕の敬愛するブライアン・オールディスの書くような作品に仕立て上げることも可能かもしれない。
でも刊行予定日は確実にずれるだろうし、下手をすると月刊群雛用に書き下ろそうとしている短編にも影響が出てしまうだろう。
作品としても、種明かしを間に挟むことでつまらないものになってしまう恐れもある。いやいや、それを上手くはぐらかして面白く書くのが作家でしょ?
そんな声も既に脳内で渦巻いている。

ここらで一旦、とっくに出来上がっていた表紙を再録しておこうかな。以前の記事で初公開してから、なんと3週間も経っている。随分昔に作ったような気がしていたわけだ……。

これが誰なのか、知りたくなりますね〜、完結編を先に読まずに我慢できますか!?
彼女は一応、お話の中では美人ということになっているのですよ

こういう時、プロの作家は編集さんと相談するのだろうなあと空想してみる。セルフ作家は孤独なのだ。自分の中にバーチャル編集さんを産み出してみる。だがその新人物は、読まれるためのノウハウを何も持っていないわけで、悩みを増幅する人物が増えるだけなのだ。そうして悩みはグルグルと無限軌道を描き続ける。

個人が出す電子書籍なのだから、コストの問題はない。まずは予定通り刊行し、後日長編版を再構成する手もなくはない。内容にガッツリ手を入れて、納得できるまで練り込むのも面白そうだ。
そうやって、悩みは膨張してグルグル、グルグル、グルグル、グルグルと、留まることなく回り続けるのだろう。

でも、いつまで?

久々に、自分に締め切りを与えてみる

月刊群雛にとうとう参加申し込みをしました。4月に日本独立作家同盟一般会員になり、先月、参加のお誘いがありましたが、どうしても『そののちの世界』のブックトレイラーで頭がいっぱいで、新作を書ける気がしなかったのです。一昨日ようやっとブックトレイラーをアップし、気持ちが少しさっぱりしたちょうど良いタイミングで8月号参加のお誘いがありました。

日本独立作家同盟の会員には必ずお誘いが来るのですね。早い者勝ちということなので、前回のようにうずうずぐだぐだしていると枠が埋まってしまうと思い、即、申し込みました。電車の中で小さい画面がよく見えないままに参加ボタンを押してしまったので、レギュレーションや申し込み方法もきちんと読めないままでかっちょ悪いコメント書き込みになってしまいました。

それは、まあ、いいとして、今回は大人っぽい小説を書こうと思っています。実はもう半分までは書けていて、その長さで一旦お終いにしようと思っていた掌編の続きを、書き終わった途端に思い付いてしまい、そのため発表せずにいた作品なのです。
牛野小雪さんのブログをお読みになっている方は、『クレイジー・シスター』という掌編をご存知でしょうか?
(そこにリンクを貼ろうと思ったのですが、該当の記事を見つけられませんでした……)
《6/24追記:僕の記憶違いで、これはKDPで活躍する個人作家さんを応援するサイトである「電書猫」に別筆名で掲載されたものでした。まあ、ご本人からリンクを教えて頂いたので、本人バレは問題なさそう。その小説はこちらですよ!》

 

牛野さんのこのtweetがきっかけとなって、ちょっと会話が弾んでいました。

この後にも二人の会話は延々と続いたのですが、その夜、牛野さんは『クレイジー・シスター』を一晩で書き、ちょうど同じ夜に僕も『光を纏う女』という掌編を書きました。で、ちょこっと見せ合って、何日か後に牛野さんはブログで公開したのです。で、僕の方もこのブログに載せる積りだったのですが、前述のように続きを思いついてしまい、書き終わったものがとんでもなく《途中》に思えてしまったんです。
それで、続きを書くために一旦、お蔵入りと相成りました。いつ書いて、いつ発表するかはその時点で僕の頭から消えてしまったのですが、群雛からのお誘いを機に、「よし、これをちゃんと書こう!」と思ったわけです。

『そののちの世界』を書いたとき、10日に1作という締切りを設けて100日間それを続けたのですが、その後、ブックトレイラーのこともあり、結局それと同じくらいの期間、ほとんどまともに小説を書いていませんでした。
ここで一念発起、群雛の締切りまではまだ日がありますが、『そののちの世界』の合冊版を仕上げてから書き始めるので、きっと正味10日くらいなのだろうなあと思いながら、来週辺りからギヤを上げていこうと考えている今夜の淡波です。

(以上。つまらない記事で、済まん!)

『そののちの世界』の予告編映像を公開

ようやく完成しました。
本日音楽の制作と編集の仕上げを一気に行なって、ブック・トレイラーが完成。小説作品のトレイラーとしては『さよらなら、ロボット』『孤独の王』『ケプラーズ5213』に引き続き、四本目になります。

早速こちらにYoutubeのリンクを貼りますね。

この中に含まれる『段ボール箱の人形』で使っているフレーズのみ、もとからあった楽曲のものです。というより、この小説はもともと『段ボール箱の人形』というインスト曲のイメージを発展させて書いたもの。その曲のデータがどこにも見つからなかったため、今回は記憶を頼りに新たに録音しました。
よく考えると、この曲はデータなんてなかったのかもしれません……。たしかまだMacintoshも持っていない頃、4チャンネルのカセットデッキを使って手弾きで録音したものだったのです。その後、シーケンサーに入力したような気がしていたのですが、それはなかったようです。本当は3分くらいの曲ですが、今回はメインテーマの一部分のみを使っています。
いかがでしょうか? 小説の雰囲気と合っていますでしょうか?

他の音楽は、全て本日作って録音したもの。まあ短いですし、音楽というほどのものでもないのですがね……。

あれ?
今日は言葉遣いが違う。
まあ、そんな男です。淡波亮作って。今日は口語体で書く雰囲気ではなかったので……。

予告編も出来たし、あとはePubですねぇ。
(さて、本当に間に合うのか?)

せっかくなので、ここに今までのブック・トレイラーも貼っておきましょうか。
『ケプラーズ5213』

『孤独の王』

『さよらなら、ロボット』

では、宜しくお願いしますねっ!

近々無料化する予定の淡波本、5作

果たしてどちらのタイミングが読者さんのためになるのだろうと迷いつつ、予定の6月末がジワジワと近づいて来ている。

短編連作『そののちの世界』をまとめた短編集を出すにあたり、この中の3冊を無料化しようと思っているんだ。(もちろん価格の決定権はAmazonさんにあるので、これはあくまでも自分としての予定だけど)
無料化する予定の3作は、もうKDPセレクトが終了し、いつでもその手続きに入ることが出来る。
まずは楽天koboさんで無料化し、その価格をもとにAmazonさんにプライスマッチ申請をすることになるだろう。

10作の短編は今までそれぞれ99円で、合計では990円もの金額になってしまうから、まとめてお求めやすくしようという計画だ。今のところの予定価格は350円。強気価格の部類に入ってしまうかもしれないけど、ボリューム感はたっぷりだし、淡波本の価格基準(?)で言えば標準的なところかと思う。
この連作の今までの売上推移を見ると、有料版を数冊以上ご購入くださった方はほとんどいないのではないかと思われる。そりゃそうだ。月1冊の刊行程度であればお小遣いへの負担も大きくないけれど、月に3冊ずつ出ていたこの連作をコンスタントに買うとKDP本としては高額商品と感じる部類に入ってしまうのだから。

さて、短編集のうち、無料化対象がどの作品かというと、下の画像にあるように第1話の『夜啼く鳥』、第5話の『プロテイン・パック』、第6話の『段ボール箱の中の人形』だ。

やはり導入として、第1話は欠かせない。どれを最初に読んでもいいようにはなっているけれど、やっぱり1話目から読みたいという需要はきっと大きいだろう。一番人気の第6話も外せない要素。もう1作をどれにしようかは、結構悩んだ。段ボール箱〜に引き続き五つ星レビューをいただいた『五感の嘘』も考えたけど、無料で五つ星2作を読むとそれより《評価が低いように見える》作品には手が伸びない可能性は否めない。そこで、自信作だけどあまり読まれていない『プロテイン・パック』にスポットを当てようかと考えた。
これで気に入れってくれれば、短編集にはもっと評判のいいものも入っているじゃん、と思って触手を伸ばしてくださる可能性があるのではないかと。
よし、そこまではいい。そこで文頭の悩みに立ち返ると、大事なのは無料化のタイミング。勿体ぶらないでとっとと無料にしなよ、という声が聞こえてくるけど、ちょっと考えさせて欲しいんだ。
無料の3作を読んだ読者さんが、有料の本に興味を持ってくださる。1冊が99円だから、まあ、そう高い買い物ではない。でも、面白いからどんどん読んじゃおう、って思ったとき、残りを全部読みたかったら693円もの買い物になってしまう。これからおトクな350円の合冊版が出るというのに!
だから、やっぱり合冊版の刊行と同時に無料化するのがフェアじゃないかと思うんだ。合冊版の宣伝のために無料化するという側面に目をやると、それはせっかくのタイミングを逸するようにも思われる。宣伝開始と刊行開始が同時なんて、普通に考えると意味がないわけで。

だから、まあ少なくとも前述の無料化3冊については、「今はポチらないでくださいな」というのが僕からのお願い。

短編集以外でも、無料化するためにKDPセレクトの期限が切れるのを待っていたのがもう2冊。『壁色のパステル』『さよなら、ロボット』だ。
壁パスについては処女作だし、生まれて初めて書いたまともな小説だから、無理にお金にしようとすることもないんじゃないか、と思った。これまでお金を出してくださった読者さんには申し訳ないけど。でも壁パスは僕の作品の中で、これだけ全く違うカラーの作品。《家族小説》とうたっているとおり、SF要素もファンタジー要素も、殺人も何にもない。ほんのちょっと恋愛の要素とミステリー仕立(?)の要素が入っているくらいで、ほんわかした平和で暖かい物語だ。自省的で内面的なもの。これはこれで気に入った作品だし、読者さんからの評価もいただいている。断じて投げ売りなんかではないのだ。
でも、この作品が初めて触れる淡波亮作だった場合、そのイメージが別の作品を有料で読むことへの抵抗になるかもしれない。ほんわかしたライト文芸が好きな人が、例えば『ケプラーズ5213』みたいなSFに手を伸ばしてくださるとは思えないもの。
そうでなくても全く違うイメージの有料作品を手に取ろうとするかは微妙だし、壁パスの想定読者とその他の作品の想定読者はかなり異なるものだから。

そこで、もう一つの入り口として『さよなら、ロボット』の出番が来るわけだ。エンタメ系で、読者さんからの評価もいい。エンタメ《系》ではあるけど、ゴリゴリのノンストップ・エンタメではなく、何も考えずに楽しめるストレートなものでもない。そこには重さや暗さが潜んでいるし、ひねくれた視点や耽美的な愉しみも盛り込んでいるつもり。ここで淡波小説の世界観を堪能していただければ、次へ進むのも楽しみになるかな、との期待を持っているのだ。

この五冊が無料化予定!
この五冊が無料化予定!

 

もう一つ、この無料化を決めた重要な要素があることを忘れてはいけない。僕がKDPで初めて著作を刊行してから、もうすぐ2年半になる。なんとかして読者さんの数を増やそうと自分なりに工夫して頑張っているつもりだ。だけど僕の知名度と言ったら、《悲しいほど》を通り越して《あわれを誘うほど》低い。マネタイズを急ぎ過ぎたと言われても言い返す言葉はない。全然ない。当時はフリーミアムなんてイカした考え方も知らなかったし。

知られる努力が足りないんじゃないのかと言われればその通りだろうし、努力の方向がずれてるんじゃないのかと問われれば、それもその通りだろう。でももし、一度僕の本を手にとってもらえたら、きっと好きになってくれる人はいるんじゃないか。少しだけ、その自信はあるのだ。僕の作品は決して万人受けするようなものではないし、メガヒットを狙えるような部類ではない。でも一定数の読者をガッチリつかむことができる面白さは備えているんじゃないかと、信じているのだ。
だったら、子供のお小遣い程度をチマチマ稼いでああだこうだ言ってるんじゃなく、手に取ってもらう機会を少しでも増やすことこそが、今、僕の取るべき道なんだ。そう思うようになった。(全てを無料化して、時々美味しいワインを飲む愉しみをなくすようなところまでは割り切れないけれど……)

この5冊を無料化すれば、これまで出してきた全シリーズのエッセンスに無料で触れることができる(『ケプラーズ5213』は『そののちの世界』と姉妹作だと言っておこう)。
そうやって僕の作品世界を少しでも気に入ってくださる読者さんの数を増やすことができれば、この先もっともっと面白い本を出版した時に、有料でも手に取ってもらいやすくなるはず。ね、あなたもそう思うでしょう?

さあ、無料化までもう少し!

どうか、この記事を読んだ方の何人かでも、無料化を楽しみにして待っていてくださるといいんだけど(≧∇≦)//

思わぬところで見つけた《懐かしいお伽話》

それは、平沢沙里さんの『青き国の物語』。(ひとむかし前を思わせる)少女マンガ風の表紙、ラノベ調ファンタジーとも取れる作品紹介。だがその正体は、《ヨーロッパで口承されてきた昔々のお伽話》を収集した童話集で読めるようなテイストの、《懐かしいお伽話》なのだった。
今回、タイトルに作者名も作品名も入れなかったのは、表紙から受ける印象と中身のお伽話に、けっこう大きなギャップを感じてしまったからなんだ。もちろん、そう感じない読者もたくさんいるのだろうけど、この本は《童話》とか《お伽話》として紹介した方が、届けたい読者に届くのではないのかな、と、そう思ったのだ。

粗筋を言ってしまえばすこぶるシンプル。
ある呪いで醜い妖精との結婚を運命付けられた少女騎士が旅に出て成長し、呪いを解く鍵と恋を見つける、というもの。
このシンプルさ加減がいい。今時っぽいテイストが微塵もなく、それは即ち作者が書きたいものだけにフォーカスしている姿勢の表れなんだと思ったのだ。
売れたいとか、受けたいとか、気に入られたいとか、そういうズレた色気をすっきりと排除しきっていて、清々しい割り切りを感じる。文章は決して美文ではないし、人物描写が深いわけでもない。あくまでもすっきりとさらりとしていて、湿ったものが何もない。そうそう、その感じも欧風だ。
でも、そこに流れる落ち着いた気分は、冒頭で書いたようなお伽話全集に収められた小品を味わうような愉しみを与えてくれたんだ。
不思議と上品で、古風な雰囲気、そしてネーミングのセンスが秀逸だなぁと嬉しくなった。
ちょっと油断して現代語が漏れ出てきてしまうようなところもあったけど、全体は上手に抑制された翻訳調。

たまにはこんな長閑なお伽話をのんびり味わうのも、なかなか良いものですよ!

Amazon Kindle Storeで販売中

本末転倒でも継続は力になりうるか?

相変わらずの本末転倒ぶりを発揮するサイファイCGこと淡波亮作です。
今は次作のトレイラー制作にほとんどの時間を費やしている。おかげで書きかけの短編の数々がとんでもなく中途半端な状態で散らかりまくっているのだ。

ちょっと思い出すだけでも書きかけの短編は3本、童話が1本、本当は次作になるはずだった長編のプロットは忘れ去られたままになっているし……。
いつかも書いたように、無料キャンペーンで得られる効果に比べると、小説の予告編映像で得られる効果は本当にわずかだ。いや、効果がほんの僅かでもあるのかどうか、それすら疑わしい。百数十回しか再生されないような動画から、いったい誰が小説を買うためにリンクを踏んだりサーチしたりしてくれるのか? 考えれば考えるほど、僕はとてつもなく無駄な時間を過ごしているのではないかと疑いでいっぱいになってしまう。いやいや、疑いなんて言うレベルじゃない。実際に効果がないんだから。

それでも僕がこれを続けるのは、バカの一つ覚えなのか? そうは思いたくない。このブログ、更新していないときや誰かがシェアしてくれない日などは、検索で訪れてくれる方が多い。その検索キーワードの何割かはCGや映像関連の用語だったりする。僕の小説はそういった世界が好きなひとと親和性が高いのではないかと思っているので、もしも僕の映像を気に入ってくれた人が、もっと世界観を味わいたいと思ったとき、小説に手を伸ばしてくれるかも知れない。そんなふうに思っているんだ。もっと賢い方法はいくらでもあるのだろうけど、自らAmazonで読みたい本を探しているひとではない誰かの目に触れるためには、小説でない入り口があるべきなんじゃないかと、思っているわけで。《CGが好きな層=小説を読まない層》という等号は成り立たないし、特にSFが好きな層はCGを好む層と近いだろうとも思えるよね?

さて、昨日でCG制作を終えて編集に移ったつもりだったんだけど、実は今もバックグラウンドでCGのレンダリングを走らせている。だからMacBookのパームレストが熱くてしかたがない。
バックで走っているBlenderの画面をちらりと覗くと、エアチューブの中をミニバスが疾走している絵が、ちょっとずつ出来てきている。ヘッドライトにかかったモーション・ブラーが心地いいスピード感を出してくれている。
こんな風に書けば、CGが好きなひとは出来上がりの絵を見たくなっちゃうんじゃないかと、密かに期待してる。レンダリングの生の絵をここで見せるわけにはいかないから、それ以外の進行状況をちょっとGIFにしてみたものを載せてみたい。

文章を読みながら同じページにGIFアニメがあるとチラチラして読みにくいので、ここでちょっと改行を入れておきたい。

 

 

 

 

 

 

『奇想短編集 そののちの世界』トレイラーWIP
『奇想短編集 そののちの世界』トレイラーWIP

さあ、どうだろう?

少しだけ、そののちの世界に興味が出て来ていませんか?
短編それぞれの表紙を知っている方には、このCGのほとんどが表紙用に作ったものの再利用だと分かってしまうだろうけど、表紙とはちょっと違う部分が気になったりするかもしれないでしょう?
ね?

さて、与太話はこの辺で終わりにしようかな。

いつか、こんな本末転倒なような宣伝が、効果を現すときが来るかもしれない。そう思って、今夜も僕は無駄とも思える作業をし続けるんだ。

もうすぐ、もうすぐさ、と思いながら!

さあ、みなさんご一緒にー、
《継続は、力なりっ!》

お勧めの画像編集ソフトは?

セルフ作家が表紙を自作するために向いているのはどんなソフトだろう……?
Open Office用のテンプレートを作って以来、自分のような半専門家ではなく普通の人が表紙を自作する場合に向いた環境はなんだろう? 使いやすくて高機能な画像編集ソフトは何だろう? と考えていた。
Open(&Libre) Officeの図形編集は文字を入れて全体のレイアウトを調整するには便利だし、高機能ではないから覚えるのも簡単だけど、果たして僕がお勧めするソフトとして最適のものだったのだろうか? そう考えていたんだ。

表紙ワークショップに参加してくださった楠樹暖さんはGimpをお使いだし、丸木戸サキさんはInkscapeを愛用していると、最近のブログ記事で知った。
さて、僕のお勧めは?

何といっても、まずはPixelmatorがお勧めだろう。Mac用のソフトだけど、iPhone用とiPad用もある。WinやLinuxオンリー環境の方、ごめんなさい。Photoshopと非常に近い使い勝手で、プロ用の高度な機能を求めない限り、Photoshopが持つ機能のかなりをカバーできる。機能が絞られている分、覚えるのも簡単だ。価格は3,600円で、他の類似ソフトと比較してもお安いのではないかと思う。
起動すると、まずインターフェースが美しい。Macのソフトが昔から持っていた独特の美しさを継承していて、コンピューターを使う悦びを感じさせてくれる。

インターフェース。フィルタをかけるにはアイコンを画面にドラッグするだけ
インターフェース。タイトル文字の加工も簡単。画像にフィルタをかけるにはアイコンを画面にドラッグするだけという手軽さ

 

フリーウエアの雄、Gimpはたしかに凄まじく高機能だけど、独特の使い勝手のせいで、今一つMacユーザーにはアピール出来ていない気がする。レイヤーや透明度の扱いなど、とてもじゃないが直感的とは言えないから、ちょっといじってみて敬遠している方も多いのではないかと思う。僕もいっとき愛用していたけど、どうしても手に馴染まなかった。だから、一昨年だったかBlender GuruのポッドキャストでPixelmatorが紹介されたとき、僕は真っ先に飛びついた。僕の小説の表紙では、『壁色のパステル』InkscapeGimpという王道オープンソース・フリーウエアの組み合わせで作った。『さよなら、ロボット』『孤独の王』の途中まではこのPixelmatorだ。ちなみに、『さよなら、ロボット』の表紙イラストは手描き(水彩)だけど、最新バージョンではこういったものまでも描けるようだ。ベクターの機能も使いやすいので、Inkscapeも不要になってしまったほど。

最新バージョンの水彩機能

 

Win環境の方を置いてきぼりにしてしまったので、ここでフォロー。僕は使ったことがないのだけれど、クラウドアルパカというコミック用無料ツールは凄そうだ。何しろ、《世界最高峰のイラスト・マンガ制作ツール》と謳ってるんだから。文字入れと調整、レイアウトも自在だし、画像編集もそこそこ出来そう。

そうそう、忘れちゃいけない。画像編集が目的でなく絵を描くのが目的だったら、もっともっとたくさん素晴らしいソフトがある。フリーで言えば、例えばKritaファイアアルパカ(前述のクラウドアルパカの姉妹ソフトと思われる)などだ。Sketchbook(Pro版は有料)なんかもいい。低価格の有料ソフトだと、僕の愛用しているMischiefがあるし、Artrageもいい。これらはいずれもWin版とMac版の両方があったはずだし、ここに上げたものはごく一部で、それこそ、僕の知らない優秀なグラフィックソフトはいくらでもあるんじゃないかと思う。

僕は仕事でPhotoshopを愛用しているのだけれど、ちょうどPixelmatorが手に馴染んできた頃、Photoshopの《Photographer’s plan》という購入プランを知って、すぐにそちらへと乗り換えてしまった。当時、たった980円@月でPhotoshopが使えるなんて夢のようだったし、仕事で20年以上も使っているものがプライベートでも、しかも常に最新バージョンで使えるのだから。
そんなことでPixelmatorの使用歴は極めて短くなってしまったのだけれど、素晴らしいソフトであることに疑いはない。

この記事を書くために改めてPixelmatorをいじってみて、やっぱりとてもいいソフトだと感じている。手頃な価格帯の画像編集ソフトを探しているMacユーザー(特にセルフ作家諸氏)には、是非、手に取ってもらいたいと思っているんだ。

この記事が、いつか誰かの役に立ちますように!

タイムリー

先週、コーヒーの話をちらっと書きましたが、本日の朝刊に美味しいコーヒーの淹れ方が載っていました。タイムリーなので、ちょっとだけ学んだ内容を残しておこうかな。
(台東区のコーヒー店『カフェバッハ』のご指導だそうです)

・お湯の温度はちんちんに熱くしてはならない
丁度いいのは82〜83度くらい。それより低いと酸味が増し、高いと苦味が増すそう。
コーヒーは苦い方が好きですが、今までは淹れ方によって《より苦く》していたようです……。でもねえ、今沸かしているお湯の温度なんて分からないよなあと思っている。電気ポットで沸かしてれば分かるのかな? 我が家にそんな文明の利器はないので。

・フィルターはドリッパーに密着させる
これ、ちょっと難しいですね。ごわごわしたペーパーだとどうしても浮いてしまうし。

・粉の隅々まではお湯を注いではならない
粉に触れずにフィルターを抜けたお湯がそのまま落ちてしまうのを防ぐためだそうです。薄くなってしまうので。

・最初に粉を蒸らすためにお湯を注いだ後は20〜30秒待つ
蒸らし時間が長いとしっかり味、短いとさっぱり味だそう。
「一気に注ぐと粉が作る濾過層が荒れ、味が滑らかでなくなります」とのこと。僕も一気には注がず、ゆっくりと淹れていましたが、面倒なので最初に注いでから待つという動作は止めてました。これからはちゃんとやってみよう。

本日のコーヒー、これでやってみました。結果は、うーん、よく分からないです。より円やかになった気もしますが、プラシーボ効果にも思える。同じ豆で同時に2種類の淹れ方をしてみない限り、繊細な違いは分からないのだろうな。僕の怠惰な舌では。

そもそも豆から淹れるコーヒーは休日にしか飲まないので、豆の鮮度が落ちているのが一番の問題。ガラス容器にがっちり密閉しているけど、少しずつ香りが落ちていくのは防げない。割高だけど、これからは100グラムずつ買おうかと考えつつ、《いや、今ので充分美味しいのだからこれでいいじゃないか》、という自分が立ちはだかって出費を抑えようとしている。

そんな本日のコーヒー事情でした。

そうそう、味覚が鋭い主人公が出てくるのは、『五感の嘘』でしたね。昨日も書いたとおり、月末目指して刊行予定の短編集に入りますので、急いでポチることはありませんが……。

意識しないものは見えない(?)

最近、白杖をついたひとを頻繁に見る。気が付く。
一昨日のことだ、横断歩道を渡ろうとして待っている若い女性を見た。もう青になっているのに、気が付いていないようだった。僕は向かい側から歩いて渡り、彼女が歩きだすのを待っていた。そして、「どうしよう?」とグルグル悩んでいた。
もし彼女がずっと歩きださなかったら、声を掛けようか。渡りそびれてしまったらかわいそうだし、それを知っていて放っておくなんて申し訳ない。
その数分前に仕事で腸が煮えくり返る経験をしていたから、善い行ないをするという選択がとても正しいものに思えた。心の中が真っ黒だったし、まだ少し身体が震えていた。その時の怒りで。
でも僕は幸いにも彼女の姿に気が付いて、手を差し伸べようか悩むことができた。
悩みながら、彼女のいる側はどんどん近づいてきてしまう、まだ歩き出す素振りはない。
彼女がもし若い女性でなかったなら、きっと僕はためらうことなく声を掛けていたに違いない。
「信号、青になってますよ」
そう言えば良かっただけなのだ。
でもそこで僕はあらぬ妄想に流されながら悩んでしまった。声を掛けて白杖をそっと持つべきなのか、それとも、彼女が手を組めるようにすっと肘を出すべきなのか。考えていた時間は、ほんの三秒くらいだったろう。
そして僕は彼女とすれ違った。無言で。もう一人、そのとき僕とすれ違ったおばちゃんが、ちらりと彼女を見た。でも、おばちゃんも彼女に声を掛けなかった。次の瞬間、彼女は誰にも促されず、足を踏みだした。
きっと、僕やおばちゃんの足音が耳に入って、信号が青であることを悟ったのだ。

僕は自分の最低さに打ちのめされながら、地下鉄のエレベーターを下った。
精神状態が悪いときほど、ひとは一日一善に救われる。常々そう思っていた。一日一善をしそびれた僕の心には、先ほどまでの黒い感情が再び押し寄せてきていた。

苛々しながら電車に乗る。そして、Kindleを取りだした。そう、読みかけの『団地のナナコさん』の続きに逃避するためだ。ヤマダマコト氏のその小説は、ものの見事に僕の感情を180度展開させてくれた。僅か数十秒で僕は作品世界に没入し、現実世界の後悔やうずまくあれこれを忘れることができた。

小説っていいな。と改めて思った。

音楽を聴いていても、なかなかマイナスの感情は逃げていってくれない。集中しなくても、音楽は耳に飛び込んでくれるから、いつの間にか耳は音楽をシャットアウトしていたりする。でも小説は主体的にならないと読むことができないから、物語に突入した瞬間にそれまでの現実の感情はシャットアウトされる。
僕は日本語で歌われたポップスを聴かないから、そのせいもあるかもしれない。言葉が飛び込んでくれば、没入できるかもしれない。でも、きっと歌詞を知っている曲だったら、逆に聞き流してしまい、集中も削がれるだろう。

救われた。その後会社に戻って、フラットな気持ちで仕事に集中することができた。小説よ、ありがとう。

さて、タイトルの話に戻ろう。
こんな話を聞いたことがあるだろう。
《自分が妊娠したら、なぜか街に妊婦さんが増えていた》
《自分の子供がある病気になって以来、なぜか同じ病気のひとをたくさん見る》
《足の骨を折って初めて、そこにエレベーターがあったことに気付いた》

妊婦さんも、病気のひとも、松葉杖、白杖をつくひとも、変わらずずっと存在していた。急に妊婦さんが増えたわけじゃない。心のどこかが、それを無視していたんだ。見えているものを見えないことにしていたんだ。
見えないものを見せるのは、小説の大切な役割だ。音楽も、美術も、芸術といわれるものはみなそうだろう。僕ら表現者は、意識し続けなければならない。意識しなければ目に映らないものを目に映すことができるように、読者がそれを意識できるように行間に潜ませるんだ。

白杖の存在が気になるようになったのは、『五感の嘘』という小説を書いたからだろう。その作品のヒロインは白杖をついている。他にも白杖をついた人物が登場する。行き過ぎた文明の反動で、五感の全てが不自由になってしまった人類の悲しい未来を描いた物語だ。(希望もあるが)

しかも、今度出す短編集(『五感の嘘』を含む10話構成)のトレイラーには白杖のビジュアルも使っている。この記事のアイキャッチにあるやつだ。だから、ちょっと白杖のデザインを観察する気持ちもあって、目に付いたのだと思う。

今度白杖のひとを見掛けたら、ためらわずに声を掛けよう、そう思った矢先、白杖の男性を見かけた。昨日の朝のことだ。
その男性は身体が大きくて、やたらと暴力的な身のこなしをしていた。白杖の先をブンブン振り回し、人に当たってもまるで気にせず、駅のホームをずんずんと歩いていた。彼は、上りエスカレーターを目指して歩きながら、下ってくるエスカレーターの方向へと歩いていた。僕は少し離れた上り階段に向かっていた。
これは危ないな、と思ったが、彼の動きにびびっていた。またも、躊躇してしまった。
次の瞬間、乱暴に振り回していた杖の先が上りと下りエスカレーターを仕切る金属ポールに当たり、カンカンッと音が響いた。彼は身体をブンと翻し、エスカレーターを待って並んでいたひとたちの列に強引に割り込んだ。いや、見えないのだから、決して強引ではなかったのだろう。周囲の迷惑そうな視線が気になったけど、僕はそのまま直進して、階段を上った。その後のことは知らない。

彼にはそれがマイペースであり、きっと、街で暮らさなければならないことで身に付いた強さなのだろう。
《小さな親切、大きなお世話》
あのときの彼女も、誰かに助けてもらおうなんて気持ちは微塵もなかったのだろう。でも、それを当たり前のこととして冷たくなり切れる人間ではいたくないな。
世の中、0か1かで割り切れることなんてそうそうないんだから。

短編集『そののちの世界』は今月末の刊行を目指しているので、今は、『五感の嘘』を買わないでくださいね。(もちろん、一冊だけ読むなら、単体の方がお安いですが……)

(ストアからの直リンクだと、画像サイズを調整できないらしい。大きくて済みません!)

 

では、この記事がいつか誰かの役に立ちますように!

すぐにスカウトしないと手遅れになるかも! ヤマダマコト作『山彦』を読み終えて

「諸君、カネだ! 大金が目の前で野ざらしになっているぞ」ヘリベマルヲ氏が人格OverDriveでそう書いたのにも大きく頷ける大傑作。それがヤマダマコト氏の第2作目、『山彦』だ。

僕は上中下の3冊とも有料で入手したけれど、この内容、ボリューム感で考えると非常にお得な買い物だったと断言できる。書店で買えば、三千円は下らない商品価値があるだろう。

度肝を抜かれるようなどんでん返しや突如として足元を掬われる大仕掛けはあまり用意されていないけれど(いるよ、とも言える)、物語のうねりそれ自体が圧倒的な熱量で膨らみ、押し寄せてくるのだ。凡ゆる不可思議な出来事をごく自然に納得させられる筆力が、それを可能たらしめている。

物語が進行するに従い、超常現象の数々が、ごく自然なリアリティを持って眼の前に提示される。読者は主人公の須見と同化し、それらの現象を《現実のものとして》信じざるを得ない状況になる。そこには超常現象を単なる小道具として用いた小説に見られるチープさは微塵もない。須見のジャーナリストとしての“自分”はそれを否定したいが、それを実際に目撃してしまった以上、疑いを挟む余地はない。他の人間にしてもそれは同じだ。一般人も警察官も、そして読者も、眼の前の現実を淡々と受け入れるしかない。

だが、それでこの小説が荒唐無稽なSFやファンタジーに変質することはない。良質なファンタジック・ミステリーとしての軸がしっかりと保たれている。世界にパラダイムシフトを起こすことはなく、超常現象やそれによる事件は世の中に《よくあるゴシップ》として消化されていく。その流れの作り方が秀逸で、あ、これならたしかに現実世界が一変するようなことにはならないなと、安心させてくれる。だが、そのしっかりとしたリアリティを保ち続けたままで、物語は非日常へと逆に激しく突き進んでいくのだ。

そして最終章、消化されていった非日常に、物語の傍観者でしかなかった主人公の須見が戦いを挑むことになる。その結末は記されないが、不安の中にワクワクする期待感を潜ませながら、物語は終焉を迎える。奇しくも、別の軸で物語を支えた警察官の橿原は、『自分は傍観者でしかなかったのだ』と感慨を抱えながら事件の終息を客観視していた。
一方で須見は、山彦と同じ視点を持つことによって、最終的には傍観者でいることを許されないのだ。ただの巻き込まれの構図とは異なる、ポジティブな須見の行動が、不思議と爽やかな感動を呼んだ。

エダカであるフミの変化、色々な意味での開眼も効果的だ。ふくよかな余韻は、フミの変化によるところが大きいだろう。(何しろフミがたいへんに魅力的だ。あとがきによれば、最初、この人物は男の子だったそうだ。女の子に変更したのは大成功だったろうと思う)

改めて、ヤマダマコト氏、ただものではない。この1作で小説家としての存在を確固たるものにすることは間違いがないだろう。ただし、商業出版関係者の目に留まれば、だが。

淡波亮作の作り方