Category Archives: つれづれなるままに

え、みんな2018年の総括してんの?

まあそういったことで、ぼくも真似してみましたよ。
(いやあ、過去のことは全然覚えていないタイプなので、苦労しましたわ)

 

《1月》
『Blender99』の電子書籍化作業を開始しました。当初7冊くらいに収まる予定でスタートしたのが懐かしいですね。WEB連載をまとめるだけだと思っていましたし、まさかほとんど書き下ろし状態になるとは夢にも思わなかった頃です。
歌の練習なんかもまじめにしてました。


《2月》
ひたすら『Blender99』の電子書籍化作業をしてましたね。そろそろ現実が見えてきた頃です。
案外大変だぞ、って。
それから、ラッパーの竹中越前守樫家さんとコラボした『音楽革命』の発売も2月でした。ぱぶにゃんの曲(夏100のテーマ曲)でおふざけ程度に使ったオペラ声を所望してくださったので、相当まじめに練習して取り組んだ曲ですね。ゲストシンガーとして頑張りました。
(その後しばらくは普通の歌声が出なくなりました……)
誰でも知っているクラシックの名曲『アルルの女』をヒップホップ仕立にしてラップ曲にし、歌とセリフを盛り込んだ竹中氏の意欲作。
すげえカッコいい曲です。折羽ル子さんの描いて下さったカバーアートもすごいですし。
知らなかったひとは聴いてみてね?(各種聴き放題サービスで聴けますよ!→Spotifyなら無料ですし)


《3月》
ノベルジャムの作品をいろいろと読んでいたら突然同じようなことをやりたくなって、発作的に「ノベルボッチ」という一人イベントを行なったのが3月でした。会社の通常業務をこなしながら2日間(ほぼ通勤時間のみ)で1作を書き上げ、表紙をフルCGでデザインし、出版するという離れ業をやらかしたわけなんですが、まあ、全然注目はされませんでした。「ボッチ」なんで当然ですが。さらにPVも作ることで「ノベルジャムよりすげえ」と言われることを期待したんですが、、それもなかった記憶(笑。
PVについては2週間ほど(正味+3日くらい?)掛かってしまいました。さすがにCGショートムービーを執筆と同時に3日間で作るのは無理でしたので。

『Blender99』の1,2巻を同時発売したのも3月でした。最初はまったく売れず、意気消沈していました。必ず売れるはずだと確信していましたから、この頃のがっかり感はひどいものでした、ほんと。


《4月》
作家米田淳一さんの作家生活20周年を祝う記念誌『ヨネタニア』に参加、短編作品『プリンドーム・プライマル』(米田氏の『プリプラ』=プリンセス・プラスティックへのオマージュ)を寄稿、氏の代表作の1つである『鉄研でいず』の主題歌(もしも鉄研がアニメ化されたら!と想定)を勝手に作ってリリースしたのもこの頃だったかと思います。歌の中で山田佳江さんにセリフを言ってもらったり、楽しかったです。
なかなか豪華なメンバーが多数寄稿していますし、BCCKSさんで無料配布していますから、ご興味のある方は下の画像からリンクをどうぞー。
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『鉄研でいずのテーマ』はこちらからどうぞ。


《5月》
文フリに初参加で、『ケプラーズ5213』『とっても小さな九つの国シリーズ』の紙本を出品しました。『コンピューテッド・ブレインズ』の豆本もなかなかの売れ行きでした。
それからぱぶにゃんのVRを楽しみながら作って、「これ、何のために作ったんすか?」と訊かれて答えに詰まったのもここです。
楽しけりゃいいですよねえ?

(VRゴーグルなどお持ちの方はVRモードでどうぞ!)

『Blender99』の3巻を出すと同時に、それまでのBCCKS配本を中止、Amazon専売に切り替えました。主だった電子書籍プラットフォームすべてに配信していたものを止めてAmazonのみに切り替えるのは少し勇気が必要でしたが、結果は大成功。
発売時に行なったセールの数日だけで150冊以上を売り上げることになりました。

それから5月は『オルタニア』のVol.5もありましたね。創刊号からずっと掲載してきた連作短編『痛みの見せる夢』が完結した思い出深い号です。Vol.5のテーマは『○』でしたので、短編の各話が最後にすべてリンクしてループするというぼくの作品ともぴったりでした。

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《6月》

『Blender99』4、5巻を同時リリース。内容的にはすべてマテリアルの話なので、分冊になっても一緒に出したかったんですよね。この頃はまじで辛かったです。そしてここから最終巻まで、地獄の(ほぼ)毎月リリースが続くことになるわけです。さらに辛い日々の始まりですね。


《7月》
『Blender99』6巻をリリース。小説は、『オルタニア』Vol.6用の作品、『鉄くらげ工場の少女』を執筆していました。Blender界の有名人、藤堂++さんにCGアーティスト役でゲスト出演していただいた作品です。


《8月》
順調に『Blender99』7巻をリリース。夏休みに執筆を一気に終わらせるくらいの気持ちだったんですが、もっとたくさんいろんなことを盛り込みたい欲が勝り、内容は膨らむばかりに。この8月に執筆していた8巻は結局9月いっぱいかかり、しかもWEB連載とはまったく無関係な完全書き下ろしとなりました。
BCCKSのプレミアム会員になったのもこのちょっと前あたりで、ページ数の上限をほぼ気にしなくて良い状況になったため、Blender99のページ数はどんどん膨らむことになりました。


《9月》
『Blender99』8巻を月末にぎりぎりリリース。それまでで最長の448ページになりました。しかも、内容はほぼ2つのオブジェクト(魚とモンキーレンチ)を作ることに集中したもの。ここまで微に入り細に入ったチュートリアルは、他にはなかなか見当たらないのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

これをしっかりこなせば、まじでモデリングに相当慣れますので、オススメです。


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最近の代表作ですし、自信作なんですが、ちっとも売れてないんですよ……。面白いので、読んでみて下さいってば!

《10月》
連作短編『痛みの見せる夢』の電子書籍をオルタニア文庫から発売。BlenderによるCGでも手書きイラストでもなく、Affinity Designerを使ってベクターイラストを描きました。自分としては珍しい手法ですね。それにしても女の子を描くのは難しい──。
ハードっぽいSFに寄せるか、ロマンスに寄せるか、かなり悩みながらデザインし、何度も表紙を差し替えた記憶があります。結果としてはかなり評判の良い表紙になりました(ですよね?)。

雑誌『オルタニア』のvol.6、『欲しがりません勝つまでは』もこの月のリリース。編集長折羽ル子氏の才気がほとばしる表紙に、あわや発禁かと思われましたが、どうやらどこからも邪魔は入らなかったようです。
前述の『鉄くらげ工場の少女』の他に、『欲しがりませんカツまでは』という冗談掌編も寄稿。1号に2作書くという快挙を成し遂げました(笑。

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『Blender99』の9巻についてはとうとう間に合わず、翌月にリリースをずらさざるを得ませんでした。本業のCG制作も超ハードで、大型案件の締切りを同時に抱えていたんですよねえ……。


《11月》
『Blender99』9巻をようやくリリース。それから、『オルタニア』7号にて就任した鬼編集長片倉青一氏に尻を叩かれ、短編『碧き新世界のうた』を執筆してました。これ、ぼくの作品にしては“ちょっといい話”なんですよ、いわゆる涙腺を刺激するようなやつ。編集長が書いて下さった紹介文をどうぞ。

かつて、人類の空には歌が、希望が満ちていた。
宇宙飛行士がとある「もの」を持ち帰ってしまうまでは。
あんなにも美しかった空は彩色を失った。人類は活力を喪った。
これは、宇宙飛行士ユン・ジィシャンの帰還からわずか四〇年の間に起こった奇蹟の記録である。

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《12月》
『Blender99』、シーズン1の完結編である10巻をリリース、『オルタニア』Vol.7『後継種』をリリース、そして『Blender99』全冊がまとめ買いに対応、さらに、途中挫折者をもっと減らすために1巻〜3巻までの合冊版をリリースしました。

あ、そうそう、それから今月は、SUZURIさんにグッズのストアをつくりました。

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これとか、欲しくなりません?
これとかめっちゃ可愛くありません?(弊社費)
これとか、めっちゃ可愛くありません?(弊社比)

で、今。
もう2年越し、3年越し? で書いている長編小説『イン・ザ・フォグ』の執筆および編集作業をようやく再開しました。今日。
それからもう1冊、短編集『ライフ・ウィズアウト・ペイン』の編集も行なっています。当初はこれまで単行本未収録だったものを集めて出すだけの積もりだったんですが、またも書き下ろしを何作か加えたり書き直したりしています。
これは昨日表紙を作りましたし、たぶん1月中にはリリース出来そう。かな?

表紙だけ先に完成していますが……
表紙だけ先に完成していますが……

『イン・ザ・フォグ』に関しては、内容的にどうしても寒い季節にリリースしたいんですよね。イギリスとかスコットランドが舞台の話で雪景色が広がっていたりするので。だから2月中旬までにはなんとかしたいところ。ただ、まだ表紙が何も作れていない&時間を開け過ぎて内容を半ば忘れているんで、ちょっと厳しいかもです。


なんだかずいぶん長くなってしまいました。
(ここまで読んだ人はあまりいないのでは!)

今年はほんとうに良い年でした。創作しまくり、書きまくり、描き、歌い、数字も付いて来ましたしね。
来年は何十年か振りに確定申告もしなきゃならないですし、ヤマダさん、守下さん、いろいろ教えて下さい……。

働き過ぎですよねえ……今年は珍しく倒れなかったんで、良しとしましょう。

じゃ、来年もよろしくです!

読書ってやつぁ!


「読書って勉強だろ」
「勉強なら他にいろいろなのものがあるし、本を読んだからといって必ずしも教養が深まるわけでもなく、無理して読む必要はないじゃない」

「読書は趣味でしょ」
「スポーツや楽器と同じで、好きでない人・得意でない人に強要しても仕方がないって」

そんな意見を読んだ。

本当に、誇張でも何でもなく、年に一冊も本を読まないどころか、これまでに一冊もちゃんと本を読んだことのないひとすら、今ではいるらしい。

「必要ではない」
そんな悲しい言葉が、当たり前のように語られている。

いま、読書の置かれている立場はかつてないほど厳しそうだ。
(かつてないとはいっても、誰でも気軽に読書できるようになったのだってせいぜい200年かそこらだろうけど←調べてません。突っ込まないで)
(電子書籍は売れているという統計もあると聞くし、電子コミックの販売は伸びているし、ネガティブな材料だけじゃないことも分かっているけれど、ね)

ぼくは考える。

読書は窓。
読書は世界。
読書は友達。
読書は体験。

読書ってやつぁ!

インターネットの検索結果より
 ずっと広範で!
 あるいは狭義で!
 専門的で!
 あるいは曖昧で!
 偏向していなくて!
 あるいは偏向していて!
 掘り下げていて!
 あるいはあるときは信じられないくらい上っ面で!
 拡張された情報を!

与えてくれるものではないか!

インターネットで何かについて書かれたひとつの奥深いコンテンツをじっくりと読むのであれば、それは読書に近い、限りなくニアリーイコールな体験だろうけど。

読書は不要だと言い切るタイプの人は、きっとそれもしない。
検索して結果を得る。
──以上。
思索、熟考必要なし!

斜め読みイコール正義!
スピードイコール正義!

結果だけ得られればいいというインスタント思考では、脳が考えることを拒否してしまうように思うのは僕だけだろうか?

味わうこと。
咀嚼すること。
想像すること。
妄想をたくましくすること。
打ちのめされること。
猛烈に頭にくること。
とてつもなく羨ましいこと。
憧れてやまないこと。
優しい気持ちを取り戻せること。

小説は、世界そのものなのにな。
小説は、人間そのものなのにな。

本に恋する喜びを、
一人でも多く手に入れられる世界が、
ぼくらの望むいろいろな世界の中でも、
とても大事なもののように思うことは、
いけないことだろうか?

読書ってやつぁ、
読書ってやつぁ、
読書ってやつぁ!

あわれ

つくづく、因果なものだなあと思う。

コブシの植わった庭がある。クリーム色の美味しそうなつぼみが膨らんでいる。
美しい花を愛でるために、人は花木を植える。

クリーム色の美味しそうなつぼみは、ほんとうに美味しいらしい。小鳥たちにとって。
ぼくの家の近くにあるコブシの木も、膨らみかけた蕾のいくつかがかれらの食料になった。

この家の庭の主は、それを防ぎたかったのだろう。
それはそうでしょうよ。家の庭のたった一本のコブシ。丹精込めて育てた木。

だから庭の主は、コブシをすっぽりと覆う網を掛けた。
あわれ、コブシの花は網に絡まり隠され、その美しい花姿の光を半減させた。
美しさを壊されないために、自らそれを壊す。
そんなものさと割り切るしかないのだけれど。

一方で、このユキヤナギ。
春を迎えて、小枝からはどんどん花が咲いている。
柵を越えて。
自由に、四方八方に伸びて咲き誇ってこそのユキヤナギだけれど、近いうちに剪定されてしまうのだろう。
近くには既に、柵を越えないように刈り取られた株も目につく。
歩行者の邪魔にならないことも、それはまあ、大事なことなのだ。

僕だったら全然構わないのに、むしろどんどん伸びてほしいのに!
と思う人間は、少数派なのだろうか?

あわれ。

うるさいのは

電車の中で喋っている外国人に対してうるさいと感じてしまうのには、いくつかの理由がありそうだ。

まずは言葉が分からないからという理由がある。
たいして大きな声じゃなくても、何を言っているのかさっぱり理解できなければ、ついうるさく感じてしまうことがある。
あるある。

うるさいほどじゃなくても、それなりに声を大きく出していることもある。
旅行者のみなさんは日本のような電車に乗り慣れていない場合が多いだろうから、大声を出さないとコミュニケーションを取ることが難しい場合だってあるだろう。
日本語が充満している車両の中で、言葉が埋もれないように声を張り上げてしまうことも、あるかもしれない。ありがちだ。

そもそも体格が違うとかね、発声が違うから声が通るってのもあるかもしれない。欧米人の場合なんかは。

そういうことじゃなくても、やっぱりうるさいことがある。

携帯電話で喋ってる人がいることもあるけど、それもマナーの種類が違うのだろうなあ。
日本人が普通にやっていることで、海外ではとんでもなくマナー違反になってしまうことだっていっぱいあるしね。

そうそう、ここらで自分自身の過去の行いに思い当たって、恥ずかしい思いをするタイミングだ。

海外旅行をした時、別に〈旅の恥はかき捨て〉なんてバカなことを考えていなくとも、つい大声で話しをしてしまった経験がないだろうか?
常識的には静かに過ごすことが当たり前の空間で、特に。
日常とは違う異空間で、ちょっとした興奮状態になっていることもあるだろうし、〈自分がここにいる〉ことを必要以上にアピールしてしまってる自分に気がつくかもしれない。
周りの人は自分の言葉がさっぱり分からないのだし、ヒソヒソ声で話さなくとも聴き耳を立てられることもないって思うと、いつの間にか大きな声を出しているかもしれない。

人のふり見て我がふり直せって言いたいわけでもないんだけどね。

誰かの何かに対して迷惑だなぁと思ったら、とりあえず自分はどうだったかなって、考えるようにしたいものだな。と。

まあ、それだけ。
海外とか、国内とか、日本人とか外国人(←やな言葉だよね、外国人という響きは好きじゃないなあ……ほんとは)とか、実は関係ないかも知れないし。
(日本人のおばさんグループと来た日にゃ、世界制覇出来るくらいのうるささレベルだったりしてね)

あれ、創作と何にも関係ないや……

じゃ、またね!

(どうでもいい)お知らせ

えー、ども。淡波です。

この淡波ログですが、以前から時々書いているように検索流入の読者さんが最も多いブログです。ブログというよりむしろ、CGのチュートリアルサイトのように利用されていることが多くなっています。

それが、〈Blender-99〉の連載を開始してから更に顕著になっていて、ビュー数の八割がCG記事ということも少なくありません。

もちろん、『魔女と王様』などの小説連載を楽しみに来てくださる方もいらっしゃるのですが、どうもCG関連の記事と小説やエッセイ的な記事とのギャップが激しくなってしまっているのですよね。

それできっと、どんな方にとっても、「とりあえず見に行ってみようかな」というサイトではなくなっている。

そんな気がしています。

見たいものがあるときに、見に行く。

そんなサイトになっているのかな、と。

淡波ログの開始時のコンセプトは、【「まだ無名な淡波亮作」という作家が様々な活動を通して一人前になっていく姿を見ていただく】というものでした。

最近、自分自身、そのコンセプトとのズレ感がかなり激しくなっているわけです。

そうなってくると、

「どうしても毎日絶対更新してやる!」というモチベーションにも影響してきます。まあ、いろいろと多忙でブログ更新を維持するのがきついという状況も大きいのですが、何よりも「毎日更新」ということの意味が薄れてしまっているように思うのですよね。

CG関連の記事の特長として、読まれる記事はいつまでも読まれる。ということがあります。それはもう、季節や時期とは関係なく。これ、日々の思いを綴るブログとは全く違うものですよね。

そんなこともあり、淡波は決めました。

1年5ヶ月ほど頑張ってきた淡波ログの毎日更新ですが、意図的にストップします。

「毎日更新を2年間継続すれば必ず成果が出る」という言葉を信じての行動でしたが、きっと、現在のスタイルは「毎日更新」とは無関係のところに位置していると思うのです。

必要なときに必要な記事を。

そんなスタイルに、これからの淡波ログはチェンジします。

もちろん、小説の連載はきちんと終わりまでフォローしますし、好調のBlender-99も出来る限り週1回掲載をキープしたいと思っています。

でも、これからはもっと作品の創作に力を入れて、「どうしてもブログを更新しなければ!」という強迫観念からは卒業することにしました。

そんな淡波ログですが、今後ともどうぞ宜しくお願いしますねっ!

じゃ、また次回の記事で!

文字から、映像が見える?

とは言っても、必ずしも〈映像を見るような描写〉ということではないんです。
映像化されたいということでもないし……、
映像を、文字で描くという感じでしょうか。

僕は、あまり「文学」という言葉じたいにはこだわりがありません。
僕の小説を読んで、いい映画、面白い映画を一本見たような気持ちになって欲しいのかもしれません。

だからといって、
映像化を前提として書いているということではないのです。

むしろ、
映像化できないイメージを文字で表現することで、頭の中にあなたなりの映像を描いて欲しいのですね。
誰かが具体的に描いた画像、映像ではなくて、具体的にどんな絵とは説明できないのだけれど、頭の中にふわりと浮かんでくるもの。
そういったものを味わって欲しいのかな、と思うのです。

「映像化されるのを前提で書くなら、小説である必要はない」
そう断言するひともいますよね。
その気持ちも分かります。
僕の作品を映像で見たいと言ってくださる読者さんもいます。

でも、
映画化された小説作品はあまり好きではない、という自分もいます。
小説できめ細かく表現された様々なイメージ、または曖昧に表現されたイメージを、万人が納得する映像に再現するのは無理、とも思います。
既読の小説が映画化されたとき、ほぼ間違いなく映画館でがっかりする自分もいます。
長大な小説を2時間程度の枠に収めるのはとても難しいでしょうし、短めの小説を、脚色を加えながら映像にするくらいがちょうどいいのかもしれません。

昔読んだ小説で、こういうものがありました。
主人公は人間ではないけれど、描写としては人間のように読める。
それがオチのどんでん返しで人間ではなかったことが分かる、という。

僕がSF雑誌オルタニアのvol.2に書いた『繭子』という物語もそんな感じでした。

いわゆる〈映像化不可能〉的なストーリー構成です。
(映像にした途端に、行間に仕込んだ謎が見えてしまうという)

もちろん、抽象的に表現するとか、語り手の姿を一切出さないなどの工夫で映像化は出来るでしょうけれど、小説を読んでいる時はきっと、読者は人間の姿を思い浮かべているのですよね。
それを、大胆に裏切るのは文字で書かれた小説ならではの醍醐味なのかなあと思ったりします。

まあ、そんなことを考えながら、今日も作品を書いています。

SF雑誌オルタニアvol.3の発売は3月です。
まだまだ、時間はありますね。
(そう思っているのは今のうち!)

では、また明晩!

2016年の活動を総括!

えー、もうアレですよね。
大晦日ともなれば、セルパブ界隈ではみなさん総括のブログやらツイートを終わらせた頃、読むほうも、もう読み飽きた頃かもしれませんねえ。
でも、今日も淡波はめげません。
はりきって総括していきますよ!


まずは文芸方面から

【2016年に発売した単著】

2016/1/6
『ガラスたちの永遠』

2016/1/15
『太陽の子孫』

2016/7/7
『ルルルとリリリ 上』 〜とっても小さな九つの国〜
『ルルルとリリリ 下』 〜とっても小さな九つの国〜

2016/8/21
『乾いた四行のあいだ、湿った四行のあいだ、何でもない、何かが、』

2016/12/12
『希望の夜、絶望の朝』
(ティプトン・スティーブンス名義、淡波亮作訳)

短編1作、中編1作、長編童話1作、詩集2作。という結果です。
文字数はどんな感じでしょうか。
ガラス〜 18,254字
太陽〜 56,991字
ルル上〜 53,130字
ルル下〜 55,600字
乾いた〜 10,092字
希望の〜 14,100字
合計:208,167字

【2016年に参加した雑誌など】

2016/2/1
『別冊群雛 (GunSu) 2016年 02月発売号 ~ インディーズ作家と読者を繋げるマガジン ~』
ショートショート『声の主は?』を掲載。こちらはクェイル賞への応募作で、〈クェイル・ビックリ賞〉を受賞しました!!
さらにゲスト寄稿作品として短編『白く、白く、儚きモノよ』を掲載。フランケンシュタインの現代版大胆翻案という意欲作です。(フランケンシュタイン〜は後付けでしたが)

〈自分発〉ではなく、作家として誘っていただいた経験も初めてでした。この別冊群雛がなければ、オルタニアの創刊時にも自分の名前は出なかったのだろうなあと思うと、感慨深いです。

2016/2/29
『月刊群雛 (GunSu) 2016年 03月号 ~ インディーズ作家と読者を繋げるマガジン ~』
ショートショート『俺は宇宙人』を掲載

2016/10/27
『SF雑誌オルタニア vol.1 [現実以外]edited by Sukima-sha』
連作短編『痛みの見せる夢』を掲載

2016/12/15
『SF雑誌オルタニア vol.2 [Locked]edited by Yoshie Yamada』
痛みの見せる夢の第2幕、『繭子』を掲載

こちらの文字数は、
声の〜 2,740字
白き〜 10,709字
俺は〜 3,103字
痛み〜 10,642字
繭子〜 13,316字
合計:40,510字

総計で248,677字でした。
(数値は推計です)
でもね、実はそれだけじゃないのです。2016年は別のペンネームで全く異なる作品を書くようになった年でもありました。それぞれのブランド戦略があるので、これは完全機密ですが(笑)
別名儀で書いて発表したもの、しなかったものを合わせると、10万字強。総合計で約35万字。それなりの大長編がすっぽり入る文字数ですよね!
まあ、長編小説をリリース出来なかったのは残念ですが、執筆ペースとしては悪くないかなあと、思うことにします。

文字数にこだわるなんて全く意味はないのですがね。

『とっても小さな九つの国』シリーズの完結編である『魔女と王様』は現在も絶賛連載中ですし!

また、特に数えてはいないのですが、ちょこちょこAmazonでレビューを戴いたり、カクヨムでも★を戴いたりした年でもありました。こうして少しだけでも評価をいただけたりすると、本当に嬉しくて、次を行なう力になりますね。


次、音楽とか映像方面。

【2016年に発表した楽曲と映像】

サウンドクラウドに上げた曲は2曲だけでした。今年は少なかったですね。
王木亡一朗さんの詞に曲を付けて歌った『欠伸なんかして』と、じねんじゃーさんの詞に曲を付けて歌った『じねんじゃーのテーマ vol.2』です。じねんじゃーのテーマについては、発表直後に映像を付けてくださる方が現われたり、ご本人がイベントでの登場に使用してくださったりしました。特に今年の後半は新たに振り付けまで付いて、各種イベントで白井市のゆるキャラたちが大勢で踊ってくださるというたいへん嬉しい盛り上がりでした。

・Youtubeにアップした映像作品はこちら。

『The Quails』:別冊群雛のプロモーション用に制作。歌ってます。

『とろろ姫の歌』:じねんじゃーさんとのコラボ第2弾。
もちろん、CGも自作です。お気に入りの作品です。

『SF雑誌オルタニア PV第1弾』:最初のPV。ティーザーCMなので短いです。オルタニア公式チャンネルでの掲載です。

『SF雑誌オルタニア PV第2弾』:日本語ロゴ版です。こちらも超短いです。

『SF雑誌オルタニア PV第3弾』:こちらが本番PV。歌ってます!

『A Song made with Blender』:CGソフトのBlenderで音楽を創っちゃおうという無理企画の成果です。

本数はそれなりに作りましたが、内容はあまり濃くないですねえ……。
(本業の方でも音楽作品がいくつか採用されたんですよ、実は)

雑誌『なんか』の動画は途中のままですし、積み残し感、アリです。
まあ、じっくりやります。『なんか2号』も発刊までもう少しかかるようですし。


【その他、CGとか】

Blenderの勉強会に初参加、そのためのポスター原画を2点提供させていただきました。
夏の出来事でした。

左のポスターは会場で希望者の方にプレゼントさせていただきました。右のものは今も我が家に貼ってあります!
左のポスターは会場で希望者の方にプレゼントさせていただきました。右のものは今も我が家に貼ってあります!

 

『太陽の子孫』の表紙をリニューアルしたのは記憶に新しいところですが、リニューアル効果はまったくなかったですね。

むしろ、手描きの表紙だった頃に海外で売れた分がなくなって、売上げはさっぱりです。
やはりタイトルが意味不明なのが大きいのだろうなと、今も改題の候補をいくつか考えています。

そうそう、制作中のCG Bookのことをすっかり忘れていました。

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こんな感じで鋭意制作中です。実際には制作中の画面やコンポジット・ノードのキャプチャなども盛り込んで、ちょっとだけCG制作の役に立つようにもしたいと思っています。古いものはレンダリングし直したり、マテリアルの設定をし直したりする必要もあって、なかなか先へ進みません。

デザインはAffinity Designerでやっているのですが、ページ物にするとPDF出力でエラーが出てしまい、ちょっと困っていたりします。今のところ、分割して書き出して後でページを合成する感じで考えていますが。

そして、忘れちゃいけないのがBlender-99シリーズですね。

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なかなか大変なものがありますけど、なんとか毎週継続し、昨日で第7回まで掲載しました。これからも頑張りますよ!


 

まあ、そんなこんなで2016年も創作に明け暮れた一年でした。きっと来年もそうなります。その次も……。

そろそろ、お時間のようですね。

ではみなさま、良いお年をお迎えくださいませ!

(また明晩!)

味方を作る、参加者を作る

 


■今、いるところ


「読まれたい・見られたい・聴かれたい」
「見つけられたい!」
「いったん触れてもらえれば作品の良さを分かってもらえるはずなのに!」

これは、創作を行なっていて作品を発表しているのに、まだ認められていない、広がっていない誰もが思うことなのではないでしょうか。

ぼくもずっと、こんなことを思いながら自作の宣伝をしたり、創作仲間と話をしていました。
でも、周囲にいるのは自分と同じようなことをやっている人たちばかり。

何年も活動をしているとそれなりに周囲に知られ、それなりに作品が売れるようにもなります。
でも、それは「それなり」にすぎません。
年末が近づくにつれ、ことしも「大ブレイク」出来なかった(笑)という事実が、両肩にのしかかってくるのです。

やっぱり同業者ばかりと仲良くしていてもダメだよな。
そんな当たり前の事実が、改めて重みを持ってきます。

 


■「参加者を増やす」ってどういうことだろう


「巻き込む」と言ったほうが良いのかもしれません。今まで無関係だった他者を、参加者にする。そして、商品(もちろん、小説のことだけど、何に置き換えて読んでも構いません)を欲しくさせる。欲しくなってもらうということです。

先日、にしのあきひろさんのブログ記事を読んで、それを改めて強く感じました。
僕はテレビを見る習慣がないので、この方のことは新聞記事でしか存じ上げません。煙突の絵本を描いた人ということくらいしか知りません。
本業はコメディアンらしいということを知っている程度です。

彼がブログで言っていることに対して、
「そんなの当然だ。おれたちはずっとやってるぜ」
と思う人は多いかもしれない。でもね、ちょっと立ち止まってみませんか。
振り返ってみませんか。

「セルフ・パブリッシングの読み手=書き手だ」
よく、そう言われるのはご存知のことと思います。
だから、前述のブログ記事についても、似たようなものだと思い込んで斜め読みすることも出来ます。
でもね、それは大きく違うのです。

彼がやったことは、単に「絵本の描き手を自作に参加させる」ことではありません。

36人のスタッフを結集し、それぞれ得意分野を任せて自分は監督としてクオリティをコントロールする。
そこまでは、現在僕らがやっているセルパブ雑誌制作と大きな変わりはないでしょう。
確かに、「様々な絵本の描き手を自作に参加させた」ということです。

でも、そこから先は全く違いました。
彼は制作コストを回収するために、そして宣伝・販促に使うコストを得るために、クラウドファンディングという資金調達の仕組みを用いたわけです。一万人からコストを調達して、その一万人を「味方」に、「参加者」に、「当事者」に、してしまったわけです。

制作の過程をいろいろと公開して、資金を出した人が実際の制作に参加しているような気持ちにさせたようなのです。

自分が参加した作品は、買いたくなりますよね。
手元に置きたくなりますよね。
そして、他人に奨めたくなりますよね。

資金を出してもらった上で、お客さんにもなってもらえる。
これ、まさに目からウロコが落ちる考え方じゃないでしょうか。

僕らのオルタニアも、参加人数の数倍くらいは発売と同時に売れます。
(電子書籍は制作参加者の手元には無料で残せますから、その人数は除いて)

でも、そこから先が厳しいのですよね。
どんなに面白い小説が掲載されていても、評判が良くても、知らないものは買いようがありません。読みようがありませんもの。

ツイッターで宣伝ツイートをしても、それはチラ見されて流れていくだけ。
気がつかれずに、ただ流れ去って行くだけのケースの方が多いでしょう。
元から参加者の作品に興味があって、雑誌になったことでお得感が得られる人には、宣伝しなくても買ってもらえます。でも、興味がない人に興味を持ってもらうことって、本当に難しいものです。

 


■殻を破り、外に出よう


では、無名セルパブ作家の僕らに出来ることはなんでしょう?
クラウドファンディングで資金を調達して、紙本を作ることでしょうか?
知名度が致命的に足りない僕らに、お金を出す物好きがいるでしょうか?

きっと、お金を出してくれる人がいるとすれば同業者。作品を気に入ってくれている同業者くらいのものです。
セルパブ小説に、まだ純然たるファンはほぼ存在しないのですから。ゼロではないにしても。

自分の小説を気に入ってくれた人がいて、たまたまその人とSNSなどで会話するようになって、そうすると、実はその人も物書きだった。ということがあります。
だって、自分で小説を書いていない人が、他人のセルパブ小説に興味を持つことって本当に例外的な出来事なのですよ。
今のところ。

だから、「セルパブ界隈」と言われている小さな小さな世界で、僕らは自分の手足を喰らうイカのようなものです。
宣伝しても、それは、「世間の読書好きの一般人」には届きようがない。

彼ら、彼女らがこれから読みたい本を探す場所とは、繋がっていないのですから。

では、それはどこにあるのでしょう?

残念ながら、その明確な回答はまだありません。

多くの人がそれを模索して、なんとかして一般読者にセルパブ小説の面白さを知らしめるために活動しています。

商業本と遜色ない装丁で発刊されている『SF雑誌オルタニア』だって、そんな模索活動の一つです。
幸い、商業SF誌を読むような人々の一部に知ってもらえるような流れも少しだけ作れましたが、まだまだほんの入り口にすぎません。

「1円ライター・高級ライター」というライター界の流行語を生み出した〈コグチスミカ〉さんだって、そんな模索を行なっている一人でしょう。
セルパブ小説書きではなく、一般ライターの世界に殴り込みをかけたあの勇気が、「専業のプロではないけど、何とかして物書きでお金を稼いでいる私たち」の存在を、界隈の外へ知らせ、押し出したのです。

セルパブ本の情報を毎日つぶやいてくれているゆるキャラの〈ぶくにぇー〉だって、界隈の外に情報を届けようと努力しているに違いありません。彼(彼女?)が、ツイッターでの絡みにあまり応えてくれないのも、界隈の中に閉じこもることを避けて広い世間にセルパブ小説を届けようと考えているように思えてならないのです。

 


■僕自身のこと


実は、この淡波ログのサブタイトルは開設当初から「淡波亮作の作り方」です。
まったく無名の状態から、ブログ読者と一緒に淡波亮作という存在を創り上げていきたい。その過程をつぶさに見ていて欲しい。
という想いがこもっています。
まったく無名の僕がちょっとでも知られるようになれば、きっと初期からの読者さんは育ての親のような喜びを味わってくださると思うのですよね。
新しい作品が出たら、
「よしよし、そうか、よく頑張ったね。じゃあ、買ってやろうか」
と思ってくれるかもしれません。「かも」ですが。

そして、小説や文芸に無関係なことばかり記事にしているのも、界隈の外にいる普通の人たちに読んでもらいたいからです。
セルフ出版のノウハウなどばかりを書いていたら、セルフ出版に興味のない人がたまたまこのブログに立ち寄る可能性はゼロに近いでしょう。
その人たちが電子書籍を読むかどうか分かりません。本を読むかどうかも分かりません。
でも、Webで文章を読む習慣はあるかもしれません。それなら、電子書籍との親和性だって、ないことはないのです。きっと。

僕にはたまたま、プロのCG作家という別の顔があります。
元プロミュージシャンという顔もあります。

作家として興味を持ってもらうために、この二つは邪魔だと最初は考えていました。
「どうせ、いろいろやっている人は全て中途半端だ」
そう思われるのが恐かったからです。
でもね、そんなことはないのです。
CGは職業ですから、ガチです。半端な要素は一切ありません。
ミュージシャンは元職業ですから、これもガチです。まあ、売れなかったから撤退せざるを得なかったという意味では、半端者なんですが(笑。

小説は、職業以外でいちばん打ち込んでいるものです。
だからここにも、半端な要素が入る隙はないのです。
もちろん、小説のために映像を作ったりする時間を考えると、小説を書くこと以外には何もしていない人のペースには敵いませんが。

CGをテーマにした記事を書くのは、セルパブ小説界隈の外から一人でも多くの人を招き入れるため。
この淡波ログは、固定読者よりも検索流入読者のほうが多いのが特長のひとつです。まだまだビュー数は悲しいほど少ないですが、それでも、CGのことを調べたい人に役立ちそうな記事を増やすたびに、少しずつ訪問者も増えているように思います。
開設当初は訪問者ゼロ@日ということもありましたから、それを考えればものすごい進歩です。
それは、自分で狙って実現したことなのです(実現というほどではないけれど)。

そうやって来てくださった「いちげんさん」が、この場所で連載している小説に興味を持ってくださったり、固定読者になってくださったりすると最高なのですが……。

 


■今年も色々ありました


決して総括記事を書くつもりはなかったんですが、何となくそれっぽい感じになってしまいました。
小説関連の総括記事は、また書きますけれど。

何しろ、色々な雑誌や小説以外の電子書籍に参加させていただいたのがとても大きかった一年です。

これからも、少しでも多くの〈本好きな普通の人〉に届けるために奮闘し続けます。

これを読んでいるあなたも、一緒に頑張りましょうね!


それでは、また明晩!

工夫する。工夫しない。

工夫しろ、とか、考えろ、とか言うのは簡単で、自分が工夫するタイプの場合、自分自身はそれが普通だから不思議にも思わない。
でも、工夫しろと言われた側はどう工夫するのかが分からない。

言う側は、どう工夫すればいいのかまでは伝えられない。
よく考えれば言えるのかもしれないけれど、やっぱりそれでは意味がない。
それでは、言われた側は工夫したことになんかならない。
まるで本人のためにならないし、結局は指示待ちの「工夫しない」姿勢は変わらないからだ。

与えられた仕事を、自分の枠内で一生懸命やり切る。
ミスをしない。
余計なことに悩まない。
遠回りと知っていても、ただ、自分の知っている道をじっと見てゴールを目指す。
それも大事。とても大事。
でも、時にそれは膨大な無駄時間を生む。

工夫する人間にしても、それが間違いなく良い方向へ進むための工夫なのかは分からない。
身勝手な工夫が意味不明なこだわりを生んで、途方もなく無駄な仕事をしてしまうこともある。

──矛盾。

良い工夫と、悪い工夫?

ゴールを見て、想像して、自分の力を見て、よく考えて、道筋を立てて、順序よく。
無駄も善し。という気持ちも必要だし、試行錯誤こそがその先の道を生み出すものでもある。

しかしながら、仕事には納期があって、時間はお金を食いつぶす。
仕事でなくとも、一人の人間に与えられた時間はとてつもなく長いようでいて、でもやっぱり有限だ。
何かを行なうことの出来る時間を数字にしてみると、それが驚くほど短いことに恐怖する。
実は、仕事に費やせる時間なんかより、ずっとずっと少ないのだ。

工夫する方向が分からなければ、ハナから工夫しないで地道に遠回りをするほうが良いと考えてしまう相手に対しても、ノーと言うのは難しい。
とても、難しい。

工夫する。
工夫しない。

その溝は、考えることでしか埋められないのだ。
そして、何を考えるかは自分で考えるしかないのだ。
──よなあ。

なんてね。

じゃ、また明晩!

フィルター:文フリに行ってとりとめもなく考えたこと

クリエイターものづくりするひとは世界のフィルターだと思う。

世界を、自分という名のフィルターに通して再構築する。それが、クリエイターの役目なのだと思う。その世界が現実の世界であるのか、頭の中で創り上げた世界なのかは無関係に、やはりその世界は現実の世界を再構築したものなのだと思う。

だから、誰も見たことのない、想像も出来ない新しい世界は、誰も楽しむことが出来ないのではないかと思う。
もし、そんなものを構築出来たとしても。
どんなにオリジナルな世界もどこかに必ず、現実とのつながりが必要なのだと思う。

それは、クリエイターの身体と頭脳と心というフィルターを通して、いったん崩した現実世界が再構築されるものだから、クリエイターは常に過去の優れた作品に学ぶ必要があるという考えも、実は少し怪しいのではないかと思っている部分が、心のどこかに居座っている。
自分の中にどんなフィルターを創り上げるかというところまでは、過去の作品を学ばなければならないのだとは思うけれど。
(そのフィルターは常に磨いていなければいけないけれど、その「磨く」という行為は自然で自発的なものでなければフィルターの表面に傷を付けるだけになりかねない)

どちらかといえば、いったん自分というフィルターが形作られた後では、必要なのは現実世界をもっと知ることではないかと思うのだ。
過去の歴史や人々の考え方、広い世界の様々な事象を学ぶことが必要なのは言うまでもないけれど、誰かがそれらを表現した作品を、クリエイターが観賞することにどれだけの意味があるのだろうかと思うことがある。
たまにある。

美的なセンスであるとか、作品の善し悪しを判断する基準とか、それは既に自分の中にある何かとの比較だったり、それを世界と比較する方法だったり、そういうことなのではないかと思う。

先日初めて文学フリーマーケットに行ってみて、そんなことを考えた。

きっと、僕のまったく知らない素晴らしい作品が数え切れないほどあって──それはもう、どう考えても間違いのないことだ──、読者・鑑賞者との出会いを待っている。
でも、僕ときたら……。
(あとは想像にお任せします)


学生の頃、文学の勉強のために文学を読んだ。楽しみのためではなく。
(もっといい詩をかくために、文学的なセンスが必要だと思ったのだ)
それはもう、とてつもなくつまらない読書だった。

いっぽうで、全くためにならないと思われた幻想文学なるものを貪るように読んだ。
とても楽しく、充実した時間だった。
たぶん、今の僕を考えるとこやしになったのだろうと思うけれど、それは「好きだから」というだけで、「吸収したい」とか、「影響されたい」とか考えて読んだわけではなかった。

まあ、誰だって、そうかな……。

若い頃、焦っていた。
もっと、いろいろ吸収しなきゃと思っていた。
好きでもないクラシック音楽を聴いたり、小難しい本を読んだりした。
でもそれはきっと、微塵も僕の何かを構成してはいない。

好きこそものの上手なれ──。
と、いうことなのだろう。

「インプットすること」にあまり興味がないことへの、言い訳に過ぎないとも思ったりする。

今は、好きでないものの中に好きな何かを見出すことも覚えたけれど、
敢えてそれを選びとる必要のないことも覚えた。

いいもの、悪いもの、優れたもの、美しいもの、醜いもの、楽しいもの、悲しいもの、難しいもの、簡単なもの、堅いもの、柔らかいもの、好きなもの、嫌いなもの……。
とりとめのない、結論のない思考を、ただ、だらだらと繰り返す。

まあ、その日の気分で変わっちゃうけどね、とも思ったりする。
それが、自分というもの、か。

誰だって、そうか……。

じゃ、また明晩!