残しておきたいツイート─002

新年から始まりました新シリーズ(ってほどのものじゃあない)、『残しておきたいツイート』の第二回目でございます。
予想に反し、前回から過去に遡ることにしました。
最近のものじゃ、もしも覚えてる人ががっかりしてしまうかもしれませんからね!

と、思ったら、本日時点で12月5日より前にはタイムラインを遡れないことが判明。あれえ?
昔はもっと行けたと思ったのに、つぶやき過ぎなのかな?

では、今回は12月20日以降から集めてみよう。
(過去のツイートを集めるツールもあるんですよね、調べてみなきゃ!)


(自作の宣伝みたいになっちゃうけど)

最後は『猫になりたい』で、しめ。

ああー、やぱり猫になりたいよぉ!

追悼:David Bowie

今日は別の記事を書きかけていたのだけれど、先ほど訃報を知った。
僕の愛するDavid Bowieが亡くなったのだ。別の記事なんか書いていられない。
死因は癌だったという。
1/8の新聞で見た記事が、前兆だったんだな。死期を知っていたんだな。来年、『大回顧展』をやるんだもの……。

思えば僕は、彼の比較的「恥ずかしい」と世間で言われているアルバムが好きだった。
最初に知ったのは『Let’s Dance』で、中でもChina Girlが一番好きだった。今でも時々口をついて出てくる。
(歌詞を暗記してはいないんだけどね)

その時点で、世間では、《ボウイは終わった》。という論調が多かった。
売れるためにポップロックな路線に走り、実際にバカ売れして、世界のロックスターになったボウイ。昔から彼を好きだった友人は、
「『Ashes to Ashes』でボウイは終わり。それ以降のボウイはボウイじゃない。まあ、Ashes to Ashesだって、ちょっと大衆に媚びてるけどな。やっぱりジギーだよ」
なんて、分かったようなことを言っていたものだ。
昔のアルバムで言えば『Space Oddity』は一番好きなアルバムの一つだけど、若い頃は、昔の曲にはあまり興味がなかったんだ。
確かに、『Ziggy Stardus』tはめちゃくちゃカッコいいし、エポック・メイキングだし、古くならないし、繊細だし、たまらなく美しい(何年か前にCDで再発売された時に買った。それまでは妻の持っていたアナログ盤を聴いてた。17歳の娘がBowieの曲で一番好きなのは『Andy Wahol』だって言うんだ、信じられる?)。

だけど、彼だってどんどん先に進みたいだろ?

当時、僕はそう思っていた。

『Let’s Dance』の次のアルバム『Tonight』も本当に大好きだった。表題曲の『Tonight』は、バスカーをしていたころの十八番で、もう何百回となく歌っていた。落ち込んだ時、悲しい時、淋しい時、どれだけこの歌が力になってくれたか知れない。
「今夜、すべては上手くいく」
そうやってひたすら言ってくれる曲──。

その次の『Never Let Me Down』は、初めて買ったCDだった(それまでは、ずっとエアチェックで聴いていた。なぜか、アナログ盤を買ったこともなかったんだ)。
このアルバムは本当に評判が悪くて、ヒット曲も『Day-In Day-Out』とせいぜい『Time will crawl』くらい。でもなぜか、今僕の頭の中では、このアルバムの『Beat of Your Drum』が延々と流れている。そんなに好きな曲でもないのにな。

ディスコグラフィーには出ていないけれど、映画のサントラも好きだった。
原爆の恐怖を描いたアニメーション『風が吹くとき』の表題曲、それから、後のファンタジー・ブームを先取りしたような『Labirynth』はほとんどの曲がボウイのものだった。テーマ曲の『Underground』が大好きで、このアルバムはミュージック・テープ(!)を買って、いつもウォークマンで聴いていた(オーストラリアにいたころで、音楽といえばミュージック・テープを買うしかなかったんだ)。結局後でCDを買い直して、今でも聴いてる。
映画も好きだったな。ジャレスという魔王の役でボウイが出ていたけれど、股間のもっこりばかりが話題になっていたっけ──もちろん、そんなことを話題にするのは日本だけだろうけど!──。

そして、『Black Tie White Noise』というとんでもない駄作(あ、もちろん持ってますけど)を出した何作か後、もう誰もがボウイは終わったと思っていた頃、衝撃的なスーパー・アルバムが出た(『Outside』もいいアルバムだけど、内容が確か、シリアルキラーを扱ったストーリーになっていた。とてもグロい写真が載っているライナーのせいで、どうしてもCDを買う気になれなかった。その次のアルバムは聴いてなかったけど……)。

そのアルバムとは、『Earthling』。つまり、地球人、というタイトルだ。彼は英国の旗がでかでかとプリントされたコートを身に着け、自信満々にジャケットに収まっていた。売上げはよく知らないけれど、Rolling Stone誌で三つ星半のレビューが付いたのだからきっと評価も高かったのだろう。シングルカットの『Little Wonder』をはじめ、『Dead Man Walking』や『Telling Lies』などカッコいい曲がたくさん入っている。当時まだ三つか四つだった息子が、『Dead Man Walking』をかけるとノリノリで踊り出したことを思い出す。

2012年頃にデビッド・ボウイは引退した。という話がまことしやかに囁かれ、彼と親しいというジャーナリストのインタビューが新聞に載ったりした。そこでは、「彼はもう人前には出ないし、スタジオワークもやらない。そっとしておいて欲しい」というようなことが書かれていて、とても寂しい思いをしたものだ。

ところが、である。
そのほんの二、三ヶ月後に、突然ニュー・アルバムが発表されたんだ。『The Next Day』だね。引退したなんて噂を広めておいて、実はその間もレコーディングをしていたんだよね。しかも、ミュージシャンや音楽関係者ですら、彼がレコーディングをしていることは全く知らなかったという。
すごいな。やっぱり彼はやることが一枚上手だ。そう、しみじみと思った。
そういえば、クラウドファンディングが流行り出した頃、ミュージシャンとして真っ先に取り入れてあっという間に資金を調達したという話もあったっけ(記憶違い?)。

『The Next Day』。これは、なんと名作『Heroes』のジャケット写真をそのまま使って、しかも顔が完全に隠れるように白い四角が描かれ、そこにシンプルなタイトル文字だけが入っているという、過去の自分に挑戦するようなジャケットだった。
この前の数枚は今一つだったけど、このアルバムはDavid Bowieらしい、いいアルバムだった。

これで最後かも知れない、とも思ってしみじみと聴いていたけれど、まさか、また今年出るとは思わなかった。
『Blackstar』
本当に最後の作品、遺作になってしまったけど、さきほどAmazonで買いましたよ!

届くのは明後日くらいかな?
と思って改めて見たら、在庫切れになっている。再プレスがかかるまでお預けになりそう……。

楽しみに、じっくり聴こうと思います。

とりとめもない話になってしまった。書き続ければいくらでも書けそうだけど、ここらでお終いにしなきゃね。

── 合掌 ──

P.S 本当は過去、ボウイの曲をカバーしたものを2曲PVとして作ったことがあってそれを最後につけようかと思っていたんだ。でも、何だか自分のためにカバー曲を載せるのは嫌だな、と思った。
時間がなくて『Blackstar』以外は何のリンクも貼れなかったけど、どうか今夜は、あなたの好きなボウイの曲を聴いてください──。

ドドマ!

新しい略語を作ってみた。
「ドドマ」
誰か他の人が既に使っていないか調べようとググったら、出てきた。
「ドドマ:タンザニアの首都」
あ、地名だったのね。

で、ドドマ。
《堂々とマーケティング》で、ドドマ。どうかな?

ときどき、ツイッターやブログで、(ステマ)と但し書きされていたり、言い訳っぽく書いたりしている人がいる。ステルス・マーケティングというやつだ。マーケティングとは思わせないようにして、密かに商品を宣伝して買わせようとしたりすること、だったよね?

ステマという言葉は確かにWEB上で頻繁に見掛けるのだけれど、これはさ、広告代理店とか大企業などが、企業イメージ広告やメセナによって、ひどい場合は中立的な他者の振りをして、人助けや社会的に善いとされる行いを通して自企業や製品の良いイメージを消費者に刷り込むためにすることだと思うんだ。
(そこには、他人の振りをして消費者を騙すという行為があって、だからステマという言葉がネガティブなイメージを纏っているのだ)

だからね、僕らみたいな無名のインディーズ作家が、微妙な自己宣伝をステマと考えて萎縮したり、自虐的になる必要はないと思うんだよね。
創作者にとっては、WEBページにおける自己表現やSNSにおける自己存在自体がマーケティングなのだから。それがメインなんだから。

ちょっと前にいろいろな人が語っていた《コンテクスト》。自分の人となりを他人に知ってもらうための活動や、創作物の販促、広告、マーケティングはとても近しいものだと思うんだ。
いずれも、《自分の作品を愛してよ、知ってよ、自分のことも知ってよ》という気持ちの表現だから。

だからね、堂々とマーケティングして、自分のことを知ってもらおうよ、ドドマで行こうよ。
という、宣言でした。

もちろん、嫌味なものとか、しつこいものとか、見た人・読んだ人が嫌な気持ちになるものや、やり方はNGだけどね。
それから、Botとか、同じ内容の自動定期ツイートなんかにも、できれば頼りたくないよね。繰り返し言うことはとても大事だけど(マジック・オブ・セブン)、それは、自動的に繰り返すようにプログラムするのとは違う。
最低限、「あーあ、またこれかよ。同じだよ」と思われないひと工夫が必要だと思うんだ。同じ内容を表現するにしても、さ。

自分の言葉で、自分自身のことを、自分の作品を、語りたいもの、ね。

では、また明晩!

『ルルルとリリリ』第三十二〜三十五話!

どうもこんばんは、一週間のご無沙汰です。
(この連載だけを追いかけてくれてるあなたへ!)

今夜も四話分、まとめましたね。

海の王、ポーゼとの会話が続いています。
意外な事実を知るルルルとリリリ。そして行動を起こすルルルですが、そこには更なる驚きが待っています。
お話が、大きく動き始めたようですよ。

では、どうぞお読みくださいませ〜!

『ルルルとリリリ』第三十二〜三十五話
『ルルルとリリリ』第三十二〜三十五話

いかがでしたか?

では、また来週。1月16日をどうぞお楽しみに!

ええ、BiB/iの表示に不具合のある方用のPDFは、こちらですよ!
[第三十二〜三十五話]


『ルルルとリリリ』は、昨年12月6日に発売された『フックフックのエビネルさんとトッカトッカのカニエスさん』の五年後のお話です。
もしも、未読のかたは──、
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初の連載小説にしてほんわかしたお伽噺『フックフックのエビネルさんとトッカトッカのカニエスさん』。
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《第一話から第七話までを収録したお試し読み版が、こちらの作品ページにございます。》

今週の一枚─001

と、いうことで新シリーズ。
美しいもの、そうではないけどちょっと話のネタにしたいもの。
そういう画像を一枚選んで、週に一度載せることにしました。
初回の今夜は、これ。

もちろん、正しい比率ではない
もちろん、正しい比率ではない

キャプションにあるとおり、この画像は少し平べったく潰れている。DTP用語で言うと、《平体が掛かっている》というやつだ。
どうしてこんな画像を載せたのかというと、これはある電子書籍ストアに出した本の表紙として表示されている状態なのだ。
今日は、どうしてこんなことになってしまうのかという原因と、自戒。

皆さんご存知の通り、書籍には決まった比率というものがない。もちろん、文庫なら文庫の、新書なら新書の標準的な縦横比というものがあるけれど、少なくとも電子書籍には定型というものがない。
ストアによって、出版社によって、著者によって様々な表紙を用意しているわけだ。

もちろん、電子書籍リーダーにも色々な比率があるし、同じアプリでも端末によって変わったりすることもある。
だがしかし!
見ての通り、僕の表紙は平べったい。
epubの設定の中には、当然、画像のサイズや《縦横どちらを優先して画像を拡大・縮小するか》というオプションがあるけれど、epubを書き出す環境によって、そのオプションが自動的に書き込まれている場合と書き込まれていない場合がある。書き込まれている場合には、それを気にしておかなければいけないんだね! という話。

例えば、iPhone(5以降)の場合は、画面がかなり縦長になっている。だから、余白が最も少なくなるようにするには、横幅優先にする必要がある(と思いがち)。だけど、タブレットなどの場合には多くの書籍よりも幅広で、左右が余る形になる。そうすると、逆に縦の長さを優先にする必要があるわけだ。
つまり、縦横どちらかを優先に設定をすると、その電子書籍を表示する端末の縦横比に応じて余白の空き方が全く変わることになってしまう──。

だいたい言いたいことは分かってきてくれたかな?
上に書いた設定は、つまり、電子書籍の表紙に対しては《効果的でない》のだな。

上に画像を載せた『段ボール箱の中の人形』の場合には、img要素に対してcssの設定がこうなっている。

「横優先、それぞれの最大サイズは画面の100%まで」という設定
「横優先、それぞれの最大サイズは画面の100%まで」という設定

これ、どういうことかというと、

縦長の端末では機能するけれど、横長の端末では画像が潰れる設定なのだ。
《画面の横幅に合わせて画像を拡大し、最大でも縦の長さが画面から溢れないようにする。》
ということなので、もしも画像より画面が横に長かった場合、横を100%にすると高さ方向が溢れて画像が切れてしまう。それを防ぐために「max-height:100%」が入っているので、表示側としては画像を潰すしかない、ということになる。

──簡単な結論。

画像サイズはビューワに任せよう。

たまたま今までは不具合が出たことがなかったのだけれど、今回新たに出版したストアで、表示された画像はその縦横比を完全に無視して《画面一杯に引き伸ばされていた》。
おいおい、それはないだろう。と思って初めて色々と調べてみて、自分の側に、というか、変換の際、自動的に埋込まれたcssに問題があることが分かったのだった。

親切に色々と細かな設定が埋込まれるのは良いのだけれど、これはちょっとおせっかいなのかもね。

だから、もし、不具合が起こった場合は、epubをいったん開いてcssの中を覗き、img属性に対して上の画像のような設定が埋込まれていないか確認した方がいいかもしれない。
縦横比が大事なのではなく全ての要素を大きめに表示して欲しい画像がある場合はこの限りではないけれど、思うに、この画像サイズの設定(つまり上の画像なら五行分全て)は消してしまった方が良いのではないかと。
(あ、もちろん、素人意見なので、よくよくプレビューして検証してみてからにしてくださいな。もしやってみる場合は)

縦優先だと多くの場合はきれいに収まるけれど、そうでないこともある。と覚えておかなきゃ。

この記事が、いつか誰かの役に立ちますように!

じゃ、また明晩!

たまに、考える

純文学=書かねばならない思い。
作家にとって《書かねばならない。書かねば生きられない。書かねば狂ってしまう》そんな思いを原動力にして文章に定着させたものが、純文学なのかな。

 つまり、内側に向いたエネルギー。

 と、ふと思った。

それ以外の文芸=読まれたい思い(?)
もちろん、小説や詩を書くひとは、それをやらないといられないからやっているんだろうと思う。
それでも、《認めてもらいたい。売れたい。これで喰いたい。泣かせたい。笑わせたい。感動を生みたい》そんな思いを原動力にして、自分の考えや、自分の考えに肉付けするための古今東西の先達の言葉を取り入れたりこね繰り回したりしながら形にしたもの。
とか。

 つまり、外側を向いたエネルギーなのかな。

 と、ふと思った。

ふと、思っただけですが、ね。

じゃ、また明晩!

読んだよ/折羽ル子著『円盤対猫』

読んだよ/折羽ル子著『円盤対猫』

独特な語り口に才気を感じる。
あの、漫画のはちゃめちゃな世界がそのまま小説になっている。

無駄にしつこい描写や細かな設定(しかも本筋と無関係と思わせておいて、やっぱり生きている。念のため)、これでもかというふざけた固有名詞──。
これ、好きなひとにはめちゃくちゃアピールすると思う。
好き嫌いは別れるかな。
惜しむらくは、故意なのかミスなのか分からない言葉や文字が多いこと。明らかな変換ミスのようなものなのに、作者が故意に忍び込ませたのではないかと、それによる難解さを狙っているのではないかと思うと、指摘もできないし……。
(ご本人もどこかで「実験的」と仰ってましたし)

やはり面白かったのは表題作の『円盤対猫』。大枠ではちゃんとストーリーがあって(笑)、オチも付いているので。
僕の好みで言っちゃうと、もう少し整理して読みやすくしたら、もっと幅広い読者にアピールできるんじゃないのかな、と。
と思ったけど、そんなに幅広い読者を想定してはいないのだろうな、とも。
《好きなひとだけ好きになってよ!》オーラをびしばし感じる。

でもなあ、ん〜、惜しい。と、つい思ってしまう。
(いや、私見なので)

とても情報量が多く、文章に勢いのある方なので、短めの作品(『円盤対猫』のようなストーリー性があって)が向いているような気もするけど、それは僕がそういうものを読みたいというだけであって、ご本人の書きたいものとは違うだろうし──。
ごく短い言葉遊びのような作品もいい味出してるわけだし……

何か一捻りで大化けするような気がするんだがなあ。
もちろん、僕には正解は分からないけれど……。

では!


《あとがき》

と、上のリンクを埋込むために折羽ル子さんのAmazon著者ページを見たら、びっくり、21作(表紙イラストご担当も合わせて)も出してらっしゃるんですね〜!
こりゃ、別の小説も読んでみなきゃ、と反省する淡波でした。
oriha


作家の作家ってどうなんだろう?

ミュージシャンズ・ミュージシャンという言葉をご存知だろうか?

一般にはあまり売れていないし知られてもいないのだけれど、音楽家の間では絶大な人気があったり、とても高く評価されたりしていて、インタビューなどでつい、好きだと言ってしまう存在。
でも、そうやって名前が挙がるのに一般のファンにはそれほど受けないという、存在。

これには2種類くらいあって、1つ目は圧倒的にテクニックが優れているケース。
ミュージシャンは高度な技術を身に着けるための苦労を骨身に染みて理解しているから、その努力に対する尊敬もあって惚れるんだろう。
2つ目は、言語化できない魅力を持っているケース。
特にテクニックが凄いわけではない。とりわけ歌が巧いわけでも、後世に残るような詩を書いているわけでもない。
でも、好きにならずにいられない。大売れするようなものじゃないと分かっていても、そのセンスに脱帽し、美しさに溺れずにはいられない。

あまり意識してはいなかったけど、僕は後者のタイプの音楽家になりたかったのかもしれない。技術が伴わないことの言い訳も含めて。

僕が大好きなThe Blue Nileというバンドは典型的なミュージシャンズ・ミュージシャンと言われる(ただし、Wikiにはそう書かれてはいない)。
あれで食べていけてるとは思えないけど、世界的に有名なバンドで、三十年にわたり高く評価されていて、という位置づけは間違いない。


この『The Dowontown Lights』はAnnie Lennoxもカバーしている名曲だ!

僕は、小説を──純文学ではない小説を──書く以上、一般に受け入れられて売れなきゃ意味がないと、ある面で思ってきた(反面、好きに書いてれば、それでいい。というのもあるのだけど)。

インディーズ作家の中で、気に入ってくれる方がいて、読んでくださって感想をくださる方がいて、でもツイッターのフォロワーさんのほとんどは同じクラスタの方で……。
どうもこれでは広がりがない。いかんのじゃないか、という思いもずっとあった。

──で、作家ズ作家。

例えばまあ、インディーズ作家だけでなく、広い意味で作家・創作家予備軍のクラスタから支持されれば、実は強力な味方を得たことになるんじゃないのか、と。
《どうせインディーズ作家の読者はインディーズ作家》などと自虐的に揶揄されるけれど、1万人(?)の創作家予備軍の何割かに支持されるとしたら、それはもう立派なファン層ではないのか、と、ね。
(まあ、何割か、というのはやっぱり無理だとは思うけど)

そういう広げ方も、決して間違いではないのかな、と、ふと思い至ったりした今日この頃。
もちろん、非創作クラスタに広げる努力を怠ってはならない、と自分に言い聞かせつつ。

じゃまた明晩!

残しておきたいツイート──001

新シリーズ、『残しておきたいツイート』の始まりです。
まあ、自ツイートの単なるまとめですが、過去(一週間分くらい)のつぶやきの中で、TLに流されて埋もれていってしまうとかわいそうかな、と思うものを拾います。
自戒だったり、備忘録だったり、伝えたいことだったり──。
(今回は初回なので、かなり期間は広がるうえ、古めのものが多かったりしますが)


と、いうことで、こんなのいかがでしょうか?

週一回目安で、こんな形の記事を掲載したいと思います。

では、また明晩!

さあ、ちょっとした試練が始まった。

『ルルルとリリリ』の毎日連載を週1連載に切り替えたことで、残りの6日間、記事を書く必要が生じたわけだ。

そもそもブログを毎日更新するのは、色んなひとが色んな場所から訪れてくれるのを促すため。それから、様々な記事をどんどん蓄積して、情報の価値を集積するためだ。
そして、電書クラスタ以外のひとにも、自分の存在を知ってもらう、あわよくば、作品に興味を持ってもらう。
────そんな目的があるわけだ。

連載小説は、そういった意味では全然自分のためになっていない。
《毎日更新して、しかも執筆の時間が削られず、連載が終われば電書として出版できる》
最初は、一石三丁の最高の手法だと思い込んでいた。もちろん、そんな幻想は現実によってすぐに砕かれたし、そもそも毎日連載なんて、(よほど好きでなけりゃ)なかなか来てなんか貰えない。という厳しい状況だ。

しかも、ストアに出す時には連載小説のほとんどは消してしまうし、途中から読み始めても面白くないから、蓄積ということにもならない。

────さて、やり直すか。

ちゃんと考えて、訪れてくださったひとが頷けるような内容の記事を書く。記事が残っていった時に、誰でもいい、誰か一人のためでもいい、何か役に立つ、または読んで良かったと思われるようなものを書く。
もう一度、そうやって始めなければならないのだ。
そうやって、ずっと続けて、来年の夏を迎えよう。

────改めて、そう覚悟を決めるのだ。

さてさて、どこまで続くことやら──!

じゃ、また明晩。

淡波亮作の作り方