Category Archives: 創作一般

これは売れる。

ヘリベマルヲさんが新作『悪魔とドライヴ』を出す。Amazonでは既に予約が始まっていて、僕もポチッとした。
読みたい。
KDP、個人出版に関係している人間なら、これは興味を持たずにいられない。

あれだけのクオリティのものを多数出している作家が、「これまでに書いたものはゴミ以下だ」と公言してはばからない。
その作家が何年か振りに渾身の新作を出すというのだ。
そして、何人ものインディーズ作家に声を掛けて出版前に念入りに推敲し、たたき上げたもの。傑作との呼び声も高い。

残念ながら僕はその試み(「悪ドラ会」というらしい)に参加することは出来なかった。本名でしかFBアカウントを持っていなかったし。持っていたとしても声が掛かったかどうかは分からない。ここ半年くらい、ちょっと距離を取っていたしね。
でも、仕組みとして興味があるし、僕がやりたかったようなことにも通じている。

文法警察(命名は牛野小雪さんによる掌編)などと言っておせっかい校正をしてたことがあった。でも、どこまで踏み込んでいいのかバランスが掴めず、やっていたのは半端な誤字脱字指摘に過ぎなかった。構造の話はほとんどしなかった。気を悪くされるかもしれないとびびっていたのだ。特に、僕みたいは書きっ放しタイプからそういう話が出るのは……と。
本当はもっと深い部分を目指して相互校正の仕組みまで持っていきたいという気持ちはあったのだけど。

ヘリベさんが相互推敲まで踏み込むとは!
正直、意外だったし、凄いと思う。頭が下がる。いいものを生み出したいという真摯な思いに。

個人出版の質をアップするための仕組みを考えているけれど云々という記事を他の方のブログで目にしたこともある。

一人で頑張っているけれど、頑張り続けることにある意味限界を感じることがある。何らかの相互扶助の仕組みが、インディーズ作家同士で作れたら、それは素晴らしい。いや、ヘリベさんは一人でそれを作り、実行したんだ。
素晴らしいじゃないか!

群雛に書いたり、コンテストに出したりすると、批評やアドバイスを貰えることがある。それはそれでとってもありがたいし、一人だけで書いている時とは全く違うことになる。でもそれは、あくまでも書き終わったものに対して外の目が入るということ。
今回の試みが持つ意味は、果てしなく大きい。

『悪魔とドライヴ』は、早くもAmazonのランキングを駆け上がっているらしい。

これは売れると思うし、インディーズ出版界の一つの大きな現象になる。
(ただし、まだ内容については何も知らないし、ノーコメントだ)

何はともあれ、早く読みたい!

ドドマ!

新しい略語を作ってみた。
「ドドマ」
誰か他の人が既に使っていないか調べようとググったら、出てきた。
「ドドマ:タンザニアの首都」
あ、地名だったのね。

で、ドドマ。
《堂々とマーケティング》で、ドドマ。どうかな?

ときどき、ツイッターやブログで、(ステマ)と但し書きされていたり、言い訳っぽく書いたりしている人がいる。ステルス・マーケティングというやつだ。マーケティングとは思わせないようにして、密かに商品を宣伝して買わせようとしたりすること、だったよね?

ステマという言葉は確かにWEB上で頻繁に見掛けるのだけれど、これはさ、広告代理店とか大企業などが、企業イメージ広告やメセナによって、ひどい場合は中立的な他者の振りをして、人助けや社会的に善いとされる行いを通して自企業や製品の良いイメージを消費者に刷り込むためにすることだと思うんだ。
(そこには、他人の振りをして消費者を騙すという行為があって、だからステマという言葉がネガティブなイメージを纏っているのだ)

だからね、僕らみたいな無名のインディーズ作家が、微妙な自己宣伝をステマと考えて萎縮したり、自虐的になる必要はないと思うんだよね。
創作者にとっては、WEBページにおける自己表現やSNSにおける自己存在自体がマーケティングなのだから。それがメインなんだから。

ちょっと前にいろいろな人が語っていた《コンテクスト》。自分の人となりを他人に知ってもらうための活動や、創作物の販促、広告、マーケティングはとても近しいものだと思うんだ。
いずれも、《自分の作品を愛してよ、知ってよ、自分のことも知ってよ》という気持ちの表現だから。

だからね、堂々とマーケティングして、自分のことを知ってもらおうよ、ドドマで行こうよ。
という、宣言でした。

もちろん、嫌味なものとか、しつこいものとか、見た人・読んだ人が嫌な気持ちになるものや、やり方はNGだけどね。
それから、Botとか、同じ内容の自動定期ツイートなんかにも、できれば頼りたくないよね。繰り返し言うことはとても大事だけど(マジック・オブ・セブン)、それは、自動的に繰り返すようにプログラムするのとは違う。
最低限、「あーあ、またこれかよ。同じだよ」と思われないひと工夫が必要だと思うんだ。同じ内容を表現するにしても、さ。

自分の言葉で、自分自身のことを、自分の作品を、語りたいもの、ね。

では、また明晩!

たまに、考える

純文学=書かねばならない思い。
作家にとって《書かねばならない。書かねば生きられない。書かねば狂ってしまう》そんな思いを原動力にして文章に定着させたものが、純文学なのかな。

 つまり、内側に向いたエネルギー。

 と、ふと思った。

それ以外の文芸=読まれたい思い(?)
もちろん、小説や詩を書くひとは、それをやらないといられないからやっているんだろうと思う。
それでも、《認めてもらいたい。売れたい。これで喰いたい。泣かせたい。笑わせたい。感動を生みたい》そんな思いを原動力にして、自分の考えや、自分の考えに肉付けするための古今東西の先達の言葉を取り入れたりこね繰り回したりしながら形にしたもの。
とか。

 つまり、外側を向いたエネルギーなのかな。

 と、ふと思った。

ふと、思っただけですが、ね。

じゃ、また明晩!

BGMってよくワカラナイな

子供の頃、西城秀樹さんが言ってた。
「勉強に集中したい時は音楽をかけるといいよ。あ、あの曲を聴いてた時にやってたところだ、って、テストの問題をやりながら思い出したりするんだ」

ふーん、と思ったけど、僕は真似しなかった。音楽をかけると夢中で聴いてしまい、しかもすぐに歌いたくなって、勉強に身が入らなくなるからだ。

高校時代から大学にかけては、絵を描きながらずいぶん音楽を聴いた。というより、絵を描く時に、音楽は欠かせないものだった。
美術と音楽、脳の似た部分を使う気もする。むしろ邪魔なんじゃないかって、思ったりもする。描いているものが音楽に影響を受けすぎるんじゃないかと、思ったりもする。

だったら、勉強しながら音楽を聴けるってのは、むしろ違う部分だから良いってことか? とも思うけど、どうもよく分からない。

むかし、よく言われた。
「君の音楽は絵画的だね、情景が浮かぶよ」って。
これは、音楽と美術が互いに良い影響を与えていたのかな、なんて思う。

で、今。
小説を書きながらBGMをかけてる人の話をちらほら聞く。いや、頻繁に聞く。

僕はできないんだなあ。執筆に集中したい時は何も聴きたくないし、そもそも集中していると何も聞こえない。人に呼びかけられても聞こえなかったり応えられなかったりするし。
だから、音楽がもったいない。ごくたまにかけていても、何も聴かずにいつの間にかCDが終わってたりする。

自分が不器用なのか、音楽をやってるからなのか分からないけど。あ、音楽をやってる人だってBGMかけるよなあ。
少なくともね、歌詞のある歌は小説を書きながら聴けないな、僕は。
そうすると、音楽を聴く時間って、本当に少ないんだよな……。休日の大半は何かを書いてるし、読んでるし。
そうそう、CGを作ってる間は聴いてるかな。

音楽をかけながら小説を書く癖をつけたなら、いつか言われるようになったりするものだろうか?
「君の小説からは、音楽が聴こえる!」なんて。

どうでも良い話。