最近、白杖をついたひとを頻繁に見る。気が付く。
一昨日のことだ、横断歩道を渡ろうとして待っている若い女性を見た。もう青になっているのに、気が付いていないようだった。僕は向かい側から歩いて渡り、彼女が歩きだすのを待っていた。そして、「どうしよう?」とグルグル悩んでいた。
もし彼女がずっと歩きださなかったら、声を掛けようか。渡りそびれてしまったらかわいそうだし、それを知っていて放っておくなんて申し訳ない。
その数分前に仕事で腸が煮えくり返る経験をしていたから、善い行ないをするという選択がとても正しいものに思えた。心の中が真っ黒だったし、まだ少し身体が震えていた。その時の怒りで。
でも僕は幸いにも彼女の姿に気が付いて、手を差し伸べようか悩むことができた。
悩みながら、彼女のいる側はどんどん近づいてきてしまう、まだ歩き出す素振りはない。
彼女がもし若い女性でなかったなら、きっと僕はためらうことなく声を掛けていたに違いない。
「信号、青になってますよ」
そう言えば良かっただけなのだ。
でもそこで僕はあらぬ妄想に流されながら悩んでしまった。声を掛けて白杖をそっと持つべきなのか、それとも、彼女が手を組めるようにすっと肘を出すべきなのか。考えていた時間は、ほんの三秒くらいだったろう。
そして僕は彼女とすれ違った。無言で。もう一人、そのとき僕とすれ違ったおばちゃんが、ちらりと彼女を見た。でも、おばちゃんも彼女に声を掛けなかった。次の瞬間、彼女は誰にも促されず、足を踏みだした。
きっと、僕やおばちゃんの足音が耳に入って、信号が青であることを悟ったのだ。
僕は自分の最低さに打ちのめされながら、地下鉄のエレベーターを下った。
精神状態が悪いときほど、ひとは一日一善に救われる。常々そう思っていた。一日一善をしそびれた僕の心には、先ほどまでの黒い感情が再び押し寄せてきていた。
苛々しながら電車に乗る。そして、Kindleを取りだした。そう、読みかけの『団地のナナコさん』の続きに逃避するためだ。ヤマダマコト氏のその小説は、ものの見事に僕の感情を180度展開させてくれた。僅か数十秒で僕は作品世界に没入し、現実世界の後悔やうずまくあれこれを忘れることができた。
小説っていいな。と改めて思った。
音楽を聴いていても、なかなかマイナスの感情は逃げていってくれない。集中しなくても、音楽は耳に飛び込んでくれるから、いつの間にか耳は音楽をシャットアウトしていたりする。でも小説は主体的にならないと読むことができないから、物語に突入した瞬間にそれまでの現実の感情はシャットアウトされる。
僕は日本語で歌われたポップスを聴かないから、そのせいもあるかもしれない。言葉が飛び込んでくれば、没入できるかもしれない。でも、きっと歌詞を知っている曲だったら、逆に聞き流してしまい、集中も削がれるだろう。
救われた。その後会社に戻って、フラットな気持ちで仕事に集中することができた。小説よ、ありがとう。
さて、タイトルの話に戻ろう。
こんな話を聞いたことがあるだろう。
《自分が妊娠したら、なぜか街に妊婦さんが増えていた》
《自分の子供がある病気になって以来、なぜか同じ病気のひとをたくさん見る》
《足の骨を折って初めて、そこにエレベーターがあったことに気付いた》
妊婦さんも、病気のひとも、松葉杖、白杖をつくひとも、変わらずずっと存在していた。急に妊婦さんが増えたわけじゃない。心のどこかが、それを無視していたんだ。見えているものを見えないことにしていたんだ。
見えないものを見せるのは、小説の大切な役割だ。音楽も、美術も、芸術といわれるものはみなそうだろう。僕ら表現者は、意識し続けなければならない。意識しなければ目に映らないものを目に映すことができるように、読者がそれを意識できるように行間に潜ませるんだ。
白杖の存在が気になるようになったのは、『五感の嘘』という小説を書いたからだろう。その作品のヒロインは白杖をついている。他にも白杖をついた人物が登場する。行き過ぎた文明の反動で、五感の全てが不自由になってしまった人類の悲しい未来を描いた物語だ。(希望もあるが)
しかも、今度出す短編集(『五感の嘘』を含む10話構成)のトレイラーには白杖のビジュアルも使っている。この記事のアイキャッチにあるやつだ。だから、ちょっと白杖のデザインを観察する気持ちもあって、目に付いたのだと思う。
今度白杖のひとを見掛けたら、ためらわずに声を掛けよう、そう思った矢先、白杖の男性を見かけた。昨日の朝のことだ。
その男性は身体が大きくて、やたらと暴力的な身のこなしをしていた。白杖の先をブンブン振り回し、人に当たってもまるで気にせず、駅のホームをずんずんと歩いていた。彼は、上りエスカレーターを目指して歩きながら、下ってくるエスカレーターの方向へと歩いていた。僕は少し離れた上り階段に向かっていた。
これは危ないな、と思ったが、彼の動きにびびっていた。またも、躊躇してしまった。
次の瞬間、乱暴に振り回していた杖の先が上りと下りエスカレーターを仕切る金属ポールに当たり、カンカンッと音が響いた。彼は身体をブンと翻し、エスカレーターを待って並んでいたひとたちの列に強引に割り込んだ。いや、見えないのだから、決して強引ではなかったのだろう。周囲の迷惑そうな視線が気になったけど、僕はそのまま直進して、階段を上った。その後のことは知らない。
彼にはそれがマイペースであり、きっと、街で暮らさなければならないことで身に付いた強さなのだろう。
《小さな親切、大きなお世話》
あのときの彼女も、誰かに助けてもらおうなんて気持ちは微塵もなかったのだろう。でも、それを当たり前のこととして冷たくなり切れる人間ではいたくないな。
世の中、0か1かで割り切れることなんてそうそうないんだから。
短編集『そののちの世界』は今月末の刊行を目指しているので、今は、『五感の嘘』を買わないでくださいね。(もちろん、一冊だけ読むなら、単体の方がお安いですが……)
では、この記事がいつか誰かの役に立ちますように!