朝令暮改、前言撤回は当たり前。それは恥ずかしいことではない。と自分に言い聞かせる。
先日の記事『帰納法と演繹法を一度に味わう?』に書いたとおり、今月末に刊行予定の『奇想短編集 そののちの世界』は、ふたとおりの読み方が出来る本として構成している。完結編を冒頭と巻末の二箇所に置いて、読者さんがどちらの楽しみ方も選べるようにという趣向だ。
さて、本当にそれで良かったのか?
実は最初から僕の頭の中にはもう一つの選択肢があった。
短編集と見せておいて、実は一冊の長編だったというやり方だ。昨今、プロの作品にはそういう作りのものが多いようで、無関係だと思って読み進めていたものがあるきっかけでグイグイと収束していくのがとても面白い。それを行うためには完結編をバラバラに分解し、各話の中にまぶしていく必要がある。まあ、言ってしまえば伏線を後から埋め直すような作業だ。技術的には難しいことではないし、ものすごく時間のかかる加工にもならないだろう。上手くやれば、僕の敬愛するブライアン・オールディスの書くような作品に仕立て上げることも可能かもしれない。
でも刊行予定日は確実にずれるだろうし、下手をすると月刊群雛用に書き下ろそうとしている短編にも影響が出てしまうだろう。
作品としても、種明かしを間に挟むことでつまらないものになってしまう恐れもある。いやいや、それを上手くはぐらかして面白く書くのが作家でしょ?
そんな声も既に脳内で渦巻いている。
ここらで一旦、とっくに出来上がっていた表紙を再録しておこうかな。以前の記事で初公開してから、なんと3週間も経っている。随分昔に作ったような気がしていたわけだ……。
こういう時、プロの作家は編集さんと相談するのだろうなあと空想してみる。セルフ作家は孤独なのだ。自分の中にバーチャル編集さんを産み出してみる。だがその新人物は、読まれるためのノウハウを何も持っていないわけで、悩みを増幅する人物が増えるだけなのだ。そうして悩みはグルグルと無限軌道を描き続ける。
個人が出す電子書籍なのだから、コストの問題はない。まずは予定通り刊行し、後日長編版を再構成する手もなくはない。内容にガッツリ手を入れて、納得できるまで練り込むのも面白そうだ。
そうやって、悩みは膨張してグルグル、グルグル、グルグル、グルグルと、留まることなく回り続けるのだろう。
でも、いつまで?