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KDPカテゴリ変更をお願いした

ヘリベマルヲさんの記事をきっかけに赤井五郎さんのこの記事『Kindle本のカテゴリ分類方法がわかりました!』を読んで、ハタと気付いた。

Kindle Storeの小説は、カテゴリ分類を変更できる!

赤井さんの記事によると、これはずっと以前にも忌川タツヤさんが指摘していたことなのだ。でも、僕ら新入りは全然知らなかった。Amazonのジャンル分けってひどいなあと思いながら、どうすることもできないと思い込んで放っておいたのだった。
赤井さんのように自ら問い合わせる姿勢はとても立派ですね! 本当に助かる。で、僕もカテゴリ変更をお願いする問い合わせフォームを送ろうと思って、ヘルプを辿ったんだ。

そうしたら、見つけた。
そもそも、お問い合わせ欄で《問い合わせ内容のカテゴリ選択》を追っていけば、《本のカテゴリの追加または変更》というのが出るんだ。

 

問い合わせ内容のカテゴリ選択
問い合わせ内容のカテゴリ選択

 

なんてえこった、ヘイ、オリーブ(昔のポパイのアニメで←誰も分からんね)!
そしてさらにご丁寧なことに、問い合わせフォームを開くと既に下記のことが書かれている。

以下の情報を入力してください。
本のタイトルと ASIN:
削除するカテゴリ(オプション):
新しいカテゴリ (Kindle 本カテゴリーを 2 つまで選択):
注: カテゴリ変更は、ステータスが「販売準備中」になってからご連絡ください。

 

ね、これって、Amazonさん自身が、カテゴリー分類がちゃんと著者の希望通りになってないと分かっているのだ。だから、ここまで親切にフォームが用意されている。
サポート体制は懇切丁寧だけど、システムがダメだということなのだろう。

僕は自作の全18点について、カテゴリ変更をお願いしたんだ。さ、これでちゃんとカテゴリー別のページに表示されるといいな。本当は問い合わせフォームにこう書こうと思ってこんな下書きをしていたんだけど、上述の内容が既にあったから、それは止めた。僕の気持ちだから、ここにペーストしておこうかな。

■下記の作品につきまして、Kindleストアにおけるカテゴリ分類が希望(管理ページの本棚において入力したもの)と異なっています。読者様の検索に少しでも役立てたく考えておりますため、誠にお手数ですが、再分類をしてくださいませんでしょうか。

 

例えば『壁色のパステル』なんて、最初は《フランス文学》だったんだよ。なんじゃいそれは? って思うでしょ。まあ、そのおかげで無料キャンペーン時にカテゴリ別一位になったりしたけど……。
その後、《文学・評論》になって。
どうも、大抵の《文学作品》ものは、自動分類では《文学・評論》で止まるみたいですね。その下にようやくサブカテゴリが出てくるのに。
そもそも本棚で選択するカテゴリのツリーとストア上で書かれるカテゴリのツリーがずれてるから、どうしようもないんだろうなあ。システムをなんとか修正してもらうためには、僕らコンテンツ提供者が声を上げ続けるしかないんだろう。

と、いうことで、読者さんが少しでも好みの本を探しだせるように、セルフ作家の皆さん、サポートさんにカテゴリ変更をじゃんじゃんお願いしましょう!

この記事が、すぐに誰かの役に立ちますように!

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だから「困難だ」って言ったんだぁ

拙著『プロテイン・パック』をネタにしてくれたのは嬉しいんだけど、あれ、誤解を与えるよなあ。筋肉系の男が出てくる話じゃないんですよ。(もちろん、まだ読んでないんでしょ?)←あ、わざとだってのは分かってますけど。
《動物性蛋白質を半固形化した冷蔵または冷凍食品》これが、プロテイン・パックの正体だ。でもその動物性蛋白質の正体は、物語を読んで知って欲しいな。

さて、本題。

『Pの刺激』の感想文に対する著者ご本人からの感想に対する再説明・弁明・言い訳だ(何とでも言って!)

ヘリベさんだけでなくリアリティという言葉が引っ掛かってしまった部分も大きいようなので言い直すと、『構築されたその世界観を読者が受け止められるだけの説得力を持っているか』ということになるかな?
誤解を与えてしまったようなので書いておくと、『Pの刺激』には全体的にその《リアリティ》があるし、部分部分の描写にもそれがある。だけど1ヶ所だけリアリティを感じなかった大きなポイントがあったという話なのだ(後述)。
《感情移入》に問題があるとはまったく思っていないし、僕はちゃんと話中にどっぷり浸かって読んでいた。それは僕の言ったリアリティの問題ではないのだな。
きちんと解説し直すとすると、リアリティを感じなかった点、つまり僕がこの物語世界に説得されなかった点は、《Pによる幻想が現実を侵食し》というくだりだ。未読の人にとってのネタバレにならないように注意しながら書いたので、やはり曖昧な書き方になっていたようだ。
きちんと書いたようにも思うけど、誤解を与えたのだからしかたがない。

各種の物語に登場する《ほんものの魔術》や《超能力》や《現実を超えた天変地異》が説得力を持つためには、その世界観にその種が蒔かれていなければならない。僕は単に、その種を見過ごしてしまった読者だったのだ。昨夜のヘリベさんの記事を読む限り、それはちゃんと物語の世界に埋込まれていた。だから僕がそれを見逃してしまったに過ぎない。

郁夫の《力》は、その後のファンタジーを予感させる道具立てとして、充分に成立・機能していた。夢の中で他人の夢に侵入し、それを左右してしまう能力。それは、既に一線を越えたものだった。僕はそれをある種の精神世界の出来事として自分の中で片付けてしまっていたんだ。でも、よくよく考えれば分かる。この描写は読者に完全に違和感なく受け入れられるものだし、後半でそれが拡大していけば現実世界に影響を及ぼすこともきわめて自然に受け入れられるべき現象だったんだ。

分かるかな? 僕が唯一の欠点だと指摘してしまったポイントは、つまり欠点などではなかったということだ。
僕の感想文を読んでそこが欠点だと思ってしまった人がいたら、申し訳ない。ごめんなさい。謝ります。ヘリベさんにも頭深々と「ごめんなさい」だ。
僕は、自分の読解力不足を暴露したに過ぎないわけなんだ。だからあの作品に、《僕が》、《直すべき点として指摘できるもの》は、何もないんだ。
そもそもあれは《感想文》なのだし、《指摘》なんてそんな大それた、おこがましいことをする気は微塵もなかったのだし。

もう一度言おうかな。『Pの刺激』は傑作。ただし、受け入れ側には少々の読解力が必要。
以上。

ここからは私信のようなものになるかな(小説クラスタ以外の方、ごめんなさい)。


ヘリベさんは他人の言葉のネガティブ側面を拾い出して繋ぎ合わせ、ネガティブな結論として思い込んでしまいたい性向があるのかもしれませんね。(その拗ね方がカワイイとも言えるんですが、)そんな風に思わなくていいんです。
僕だってネガティブに捉えれば、ヘリベさんのお書きになった記事からこう思って落ち込むことになります。

「淡波亮作は作家のくせに一般読者と同じ浅い読み方しかできないし、読解力も低いようだ。構造を理解しようとしないくせに批評するなよ、泣き言言うくらいなら読まんでくれ」って。うわーっ。

あなたは多くの読者やセルフ作家から愛されているし、あなたの作品は尊敬を持って読まれている。(キモイと言わないで!)
それは間違いないんです。いいと思ったからこそ、僕はもっとヘリベさんの別の作品を読みたいと思ったし、「ダメ」と思った作者のものには、恐らく二度と手を伸ばしません。(自分の読書力を確認するためとか世間の評判に引っ張られてとかで、もう一度手に取ることもないとは言えませんけど)

感想記事のタイトルを《感想を書くことが困難な作品》としたのは、きっとあなたに誤解されるだろうな、と思ったこともあります。《批評する者は批評される》わけですし、それは予測していました。(無視されていたとしても拗ねませんよ!)
読んだ作品をべた褒めするだけが感想ではないですし、僕は自分の感想として、出来るだけフェアに書いてみたかった。それが少々ずれていたとしても、べた褒めだけして終わりにはしたくなかったのです。褒めたい部分は褒める。気になった部分は気になったと言う。それだけです。僕は一般読者のように読むし、僕の感想はいわゆる批評ではありませんしね。

牛野小雪さん推薦の『シュウ君と悪夢の怪物』の次には『ガラスの泡』を読みますよ!

(願わくば、無計画な『そののちの世界』に幻滅しませんように!)

では!

KDPプロモ、この方法は有効なんじゃないかと思った。

手前みそですが、まずはこちらを見て頂きたいのです。

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そう、セルフ作家の広橋悠さんがご自身のブログに書いてくださった『壁色のパステル』レビューを、Amazon上の商品紹介に転載したのです。プロの本でよくありますよね、映画でも頻繁に見かけます。別の作家が一行か二行の感想を述べて、それが作品のキャッチコピーのようになっているアレ。
最近はこういったことを帯で語るのが流行りつつありますが、帯は帯。あまり大きく書けないですし、文字数も限られていますよね。

これまで何人かの方が自作の感想を書いてくださったのですが、とても素敵な紹介文になっていることが多く、これをもっと多くの読者さんに読んで頂けたらなあ、と思っていました。でもなかなか、それぞれのブログ記事やツイートに誘引することも難しいですし。
そこで思い付いたのが、Amazonのレビュー欄に載せたかったら《自分で紹介欄に載せてしまえ!》という荒技です。

発端は、広橋悠さんのこのtweet。

そして、このセルフ返信。

他の方々を含め、反応が次々と。アイデアが発展します。

このあたりで僕も参加です。

このやり取りでは、あくまでも自著のあとがきでレビューや解説を紹介するという話になっています。僕も本日発売の『そののちの世界』のあとがきに、ストーリー上の続編でもある『ケプラーズ5213』(書いたのはこちらが先)のヤマダマコト氏による紹介文を使わせて頂きました。これはこれで素敵なことなのですが、やはり本を入手してくださった方にしかこれは届かない。
そこで考えたのが冒頭の少々乱暴とも思える手法なのです。

でもこれ、ストア上で本を探している読者候補さんに、とてもアピールすると思いませんか?
僕だったら、こんな紹介文を読んだらもう、すぐポチッとしてしまいそうです!

さて、この記事がいつか誰かの役に立ちますように!

すぐにスカウトしないと手遅れになるかも! ヤマダマコト作『山彦』を読み終えて

「諸君、カネだ! 大金が目の前で野ざらしになっているぞ」ヘリベマルヲ氏が人格OverDriveでそう書いたのにも大きく頷ける大傑作。それがヤマダマコト氏の第2作目、『山彦』だ。

僕は上中下の3冊とも有料で入手したけれど、この内容、ボリューム感で考えると非常にお得な買い物だったと断言できる。書店で買えば、三千円は下らない商品価値があるだろう。

度肝を抜かれるようなどんでん返しや突如として足元を掬われる大仕掛けはあまり用意されていないけれど(いるよ、とも言える)、物語のうねりそれ自体が圧倒的な熱量で膨らみ、押し寄せてくるのだ。凡ゆる不可思議な出来事をごく自然に納得させられる筆力が、それを可能たらしめている。

物語が進行するに従い、超常現象の数々が、ごく自然なリアリティを持って眼の前に提示される。読者は主人公の須見と同化し、それらの現象を《現実のものとして》信じざるを得ない状況になる。そこには超常現象を単なる小道具として用いた小説に見られるチープさは微塵もない。須見のジャーナリストとしての“自分”はそれを否定したいが、それを実際に目撃してしまった以上、疑いを挟む余地はない。他の人間にしてもそれは同じだ。一般人も警察官も、そして読者も、眼の前の現実を淡々と受け入れるしかない。

だが、それでこの小説が荒唐無稽なSFやファンタジーに変質することはない。良質なファンタジック・ミステリーとしての軸がしっかりと保たれている。世界にパラダイムシフトを起こすことはなく、超常現象やそれによる事件は世の中に《よくあるゴシップ》として消化されていく。その流れの作り方が秀逸で、あ、これならたしかに現実世界が一変するようなことにはならないなと、安心させてくれる。だが、そのしっかりとしたリアリティを保ち続けたままで、物語は非日常へと逆に激しく突き進んでいくのだ。

そして最終章、消化されていった非日常に、物語の傍観者でしかなかった主人公の須見が戦いを挑むことになる。その結末は記されないが、不安の中にワクワクする期待感を潜ませながら、物語は終焉を迎える。奇しくも、別の軸で物語を支えた警察官の橿原は、『自分は傍観者でしかなかったのだ』と感慨を抱えながら事件の終息を客観視していた。
一方で須見は、山彦と同じ視点を持つことによって、最終的には傍観者でいることを許されないのだ。ただの巻き込まれの構図とは異なる、ポジティブな須見の行動が、不思議と爽やかな感動を呼んだ。

エダカであるフミの変化、色々な意味での開眼も効果的だ。ふくよかな余韻は、フミの変化によるところが大きいだろう。(何しろフミがたいへんに魅力的だ。あとがきによれば、最初、この人物は男の子だったそうだ。女の子に変更したのは大成功だったろうと思う)

改めて、ヤマダマコト氏、ただものではない。この1作で小説家としての存在を確固たるものにすることは間違いがないだろう。ただし、商業出版関係者の目に留まれば、だが。

読書前感想文という荒業

さて、読書感想文→読書中感想文、と来たら、当然次は読書前感想文ですね!
行きまっせー。

発売前に商品のプロモーションを行なうのは商売の基本ですが、インディー作家たる者、作品のプロモーションをどこまで商売として考えるのかは難しいところ。
宣伝宣伝せず、売らんかなという感じを与えないで、でもそれとなく作品をアピールしつつ、新しい読者を呼び込むために個性的なトピックもちりばめつつ。あぁ何て難しいんだろう!

で、その好例となっているなあと思ったのが、新潟文楽工房ヤマダ氏のこのブログ。ご本人はきっとプロモーションの積もりはなくて、身辺雑記としての新作進捗報告。きわめてプライベート感溢れる記事が、好感を呼びます。そして、一見関係のない記事から自作へと引っ張る滑らかな足場作りが効いています。

・まずはあれですね、値段付けに悩んでいるという記事が意外に面白い。分冊化という話で「これは大長編だな」感も演出。
その悩み方がまた合理的で、しかも「いい人」であることがバレバレ。
ここで、さりげなくサンカ小説という言葉が登場してます。(さりげなくてスルーしてました)

・通常記事としての読書レビューでもサンカ小説に触れ、「何、そのジャンル?」と興味をそそります。
(もちろん、僕は「山窩」という言葉自体が初耳で、ヤマダさんが当たり前のようにその言葉を使っていることに、「俺って無知? やばいの?」感を募らせるわけです)

ちゃんとタイムラインに沿ってブログを読んでいれば、最初のサンカ小説レビューで新作がサンカ小説であると分かるのですが、そこはほら、あっちを読んだらそっちを読んで、というのがブログ読みのお作法で。僕の場合はまず「サンカって何?」から入りましたから。

・で、記事を追っかけていくと、ヤマダ氏の新作がサンカ小説であるという記述にぶつかったわけです。
「あ、面白そう」と思わされてます。

・さらに、その雰囲気を表現するのに表紙画像を作っているという記事でビジュアルでも責めます。(あ、これはほぼTwitterでしたが、苦手な画像処理に一生懸命になっている姿に、僕なんぞもう……)

・そして、リリース告知記事と直後の無料キャンペーン記事。
「読もう」と思っていただけに、じゃ、無料キャンペーン開始前にポチってしまえ!
と、まんまと術中にはまってしまいました。(改訂後なのでご安心を)

今日は、なんのことはない電子書籍ショッピング記事でしたねえ。

僕はいつも新作発表の前には表紙画像について色々とブログに書いていましたが、肝心の小説の内容をロクに告知していなかったなあ、と反省しきり。
同ジャンルの本をレビューして、ジャンル自体に興味を持ってもらうというのも離れ業だなあと感心しました。
値付けもそう。一般的にはKDPで460円(三冊合わせてだけど)というのは《強気》と思われてしまいがちな金額。これを、ブログ読者が納得できるように、悩みながら書いているのがいいですね。しかも、僕の『孤独の王』より10円高いのに、なんだかお得にすら思えてしまう。
この感じ、後の人の参考になりそうですよね。(って思うでしょ?)

あ、最後に紹介しておきましょうね。新潟文楽工房ヤマダマコト氏の新作、『山彦』発売中ですよ!

 

(今回は何の役にも立たなかったかな……。「淡波、これでブログ読者を失う」とはならないことを祈って!)

ラノベではない、児童文学としてのファンタジー小説

『キミコロ』の作家、藤崎ほつまさんから、『孤独の王』読了のお知らせとたっぷりの感想が届きました!
今流行りのラノベではなく、読者層が少ない古風な正統派長編ファンタジーを敢えて世に出した僕の冒険を、きっちり受け止めて下さいました。
ツイッターのTLに埋もれてしまうと寂しいので、こちらに時系列で引用させていただきます。

光栄です。まさに狙った世界観なのですから。 (この世界観を使い回してラノベを書いてくださる人が出て来たりすると凄いんですが…「そりゃねえよ」と聞こえた)

そう、実話仕立てということで、ぎりぎりのファンタジー要素に留めています。読者が、「これ、本当に本当の話だったりして?」と思ってくれるのは無理としても、この世界として存立しうるリアリティを感じて欲しいので!

読み終わった人の心のどこかにずっと残ること、これ、最大の目標です。指標にするとか、そんな大げさなものではありませんが、《この世界はどうやって作られているのか》を考える入り口なり小さなヒントになれば嬉しいのです。

褒め言葉だけでなく、きちんと批評も書いてくださっているのが本当にありがたいです。フェアで客観的なツイートを寄せてくださって、本当にどうもありがとうございます!

Amazonさんへのリンクは藤崎さんが張ってくださっていますが、上のリンクは有料の合冊版です。分冊版の『第1部:かけら』は常時無料で読めますよ。
KindleやKindleアプリの方はこちらからどうぞ
楽天KOBOやKOBOアプリの方はこちらから!

こちらも楽しみですねー!

では、これにて!

青春小説を読みながら

小説を読みながら、あ、これは自分のことだ。これは自分に向けて書かれた小説なのだ。と思える瞬間があります。
何か、切ないような嬉しいような不思議な感覚になることがありますね。きっと、小説を通して過去の自分と対面することになって、その当時の感覚に対する思いがふっと出て来てしまうのでしょう。
(最近、自分の小説に同じ感想を言って頂いて有頂天になりましたが!)

今、読んでいるのが澤俊之さんの1978という小説。ギター小説というカテゴリーを新設した澤さんのデビュー作440Hzの続編にあたるものです。続編といっても、時間の経過としては440Hzより前、前日譚にあたる物語です。
まだ読み終わってはいませんので、レビューではありません。読書しながら、その時のリアルタイムな感想を書いてみるのも面白いかな、と思った次第で。

ということで、今回はとても個人的な読書中感想の記事になります。

この小説シリーズ、最初に知ったのは2 Years in KDPという、Amazonで電子書籍を販売するためのノウハウ本の中にあった紹介です。作者の澤俊之さんは、440Hzという小説を発表する際に明確なターゲットを決めていました。非常にニッチな客層に向けて書いているように思われましたが、自分はまさにそのターゲットにぴったり当てはまっていました。
ちょっとそのターゲットを引用してみましょう。

440Hzのターゲット層は?
440Hzのターゲット層は?

これを読んだ時、すでに僕は作者の術中にはまっていたのでした。だって、「これって俺じゃん!」と思わずにいられないターゲットでしたもの。実は、これにプラスしてギターを弾いたことがある、というターゲットが別の箇所で触れられていたのです。(ん? これは僕の思い込みなのか?)
よくよく考えると、30〜50代であれば、大抵の人は往年のロック楽曲に触れたことがあるはずですし、読書週間のある方も多いでしょう。可処分所得にしても、商品は300円未満の電子書籍ですから、まあ、値段だけで尻込みする大人はいないかな、とも思われ……。そう、ニッチなターゲットと思いきや、相当なボリューム層が存在するターゲットなのですよね、これって。

そして読んだ440Hzは、とても素敵な青春小説でした。青春時代をギターと共に過ごした中年男性(と、そういう男性と関わりのあった女性も?)には、必ず心にグッと来るものがあるのではないかと思います。文章力もありますし、各エピソードは短く、あくまでも読みやすい中に文学的な響きを持った、まさに《ギター小説》でした。
読み終わった途端、続編の1978を購入してしまったのは無理もありません(!)

さて、肝心の1978ですが、440Hzより意識的に柔らかいお話になっているかもしれません。特に、美味しいもののエピソードが多く、読んでいるとお腹が空いてくるのです。美味しいものの描写っていいですね。食事に対する興味って、古今東西、人間の営みの中で決して変わらないものですから。

440Hzの「あの事件」のことが別視点で詳しく書かれていますので、440Hzを読んで面白かった方には必読の書と言えるかも。

物語の中で頻繁に出てくるのが『紫の炎』『スモーク・オン・ザ・ウォーター』の2曲。カッコいいですねえ、聴きましたねえ、弾きましたねえ、ということで、ここにピンときた方も、一読の価値あり! ですよ。

小説とは関係ありませんが、僕が『スモーク・オン・ザ・ウォーター』を知ったのは1979年のことでした。ちょっと不良っぽい友達から誘われて、ごく短い期間、その友達のバンドにヴォーカルとして入りました。でも、当時の僕はいわゆる天使の歌声(自分で言うな!)みたいなきれいきれいな声で、とてもこの曲を歌えるようなヴォーカリストではありませんでした。(中学生でしたから!)
一応曲は覚えたものの、全く練習もしないで文化祭の校内オーディションに臨み、とても恥ずかしい思いをした記憶があります。落ちるとか受かるではなく、ただ出演順を決めるためのオーディションでしたが。
でも結局、このバンドでステージに立つことはありませんでした。文化祭のためのクラス展示の係になってしまってとても忙しくなってしまったのと、やっぱり声が合わなくて、歌っていても辛いだけだったからです。僕が抜けることを言った時のバンドメンバーの悲しげな顔はしばらく忘れられませんでした。

そんな甘酸っぱい思い出が、1978を読んでいたら沸々と心の表層に浮き上がってきたのです。こんなことを思い出すとは思いもよりませんでした。あ、これも小説の持つ力の一つだな、心を動かす力の一つだな、という思いが、今日のこの記事を書かせたようです。

個人的な、つまらない記事に付き合ってくれてありがとうございます。(あ、前〜中半の内容は参考になることもありますよね!)

ではまた!