エビとカニ、あなたはどっち?

その昔、プロのミュージシャンを目指して、バイトで糊口をしのいでいた頃のことだ。ある学生バイトくんが、僕に言った。

「エビとカニと、どっちが好きですか?」
僕はちょっと考えて、エビと答えた。
エビフライ、グラタン、シーフードパスタ、甘エビなどなど、食卓によく上がる食材だし、馴染みがあった。カニは、子供のころから食卓に頻繁に上がるものではなかったし、明確に好きだ嫌いだと言えるほどに馴染みがなかったからだ。
バイトくんはニヤリと笑って、こう言ったんだ。
「それ、サラリーマンで我慢できるタイプってことですよ」
「え?」
僕の目は点になった。サラリーマン的なバイト生活を続けていたが、それはほんのいっときの繋ぎで、正社員として就職する気なんか微塵もなかった。こうやって昼間働いているのは仮の姿なのだ。日々そうやって自分に言い聞かせていた自分の何か深い部分を、触れてほしくない部分を、ぐいっとえぐられたような気がしたのだ。

彼は言った。
「とことん旨いものをちょっとでも食いたいか、そこそこ旨いものをたくさん食えるか、って言う……。要するに安定と冒険のどっちに重きをおくか、みたいな。あれ? 嫌なんすか、サラリーマン」
痛いところを突かれたのか、見たくもなかった《唾棄すべき自らの未来の姿》を垣間見せられてしまったというのか、僕はとても嫌な気持ちになった。
自問した。本当のところ、どうなんだ? 音楽だけでやっていく度胸があるのか? 月給の保証されない生活で暮らしていけるのか? と……。
給料は安かったけれど、お堅い仕事でやり甲斐も無くはなく、バイトなのに責任ある仕事も任され、しかもミュージシャン志望だということでわがまますら聞いてもらえるバイト先だった。でも、こんな社会に出てもいない学生バイトに、そんなことを言われたくはなかった。
(自分がちゃんと社会に出ていると言えるのかというと、それも怪しかったけど)

僕はあれから、ことあるごとに、人生の様々な岐路を迎えるたびに彼の言葉を思い出し、自問し、結局安定を優先してしまったことに身悶えている。安定に背を向けていれば成功したかなんてわからない。むしろ、何者にもなれず食ってもいけなくて、家庭を築くこともままならない最下流中年になっていた可能性の方がはるかに高い。たとえ、1度はメジャーデビューという夢をこの手に握ったのだとしても。

サラリーマンになって、もうすぐ20年になる。収入は安定し、二人の子供を大学まで行かせることもできた。家も、車もある(価値観が古いぜw)。
でも、未だに僕はここから逃げ出したくてたまらない。いつもうずうずし、不満を溜め、心の中で辞めたい辞めたいと呪文のように唱えているのだ。

皆さんは、どうですか?

「エビが好き? カニが好き?」


エビとカニ、といえばこの童話、ですね。
あ、こちらはこの話とは全然関係ないですけど。




初の連載小説にしてほんわかしたお伽話『フックフックのエビネルさんとトッカトッカのカニエスさん』。
大変好評を戴いた物語はそのままに、新たに描き下ろしの挿し絵を加えた電子書籍版です。

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