“ぅ”って面白い!

何て唐突なタイトルなんでしょうね。今日は文学の書き表し方の自由と商業作品における表記の不自由さについて、考察してみましょう。
あ、いや、そんな立派な堅苦しいもんじゃなく、雑談程度なかるーい温度感で……。

まず、タイトルに持ってきた“ぅ”から。
ア行の音は、全て小さく打てますよね。
《ぁぃぅぇぉ》って。

例えばこんな表現。
“ギュイーン!” こう書くとまあ、普通ですよね。一つの標準的な表記かな。
何かの(小振りなタイプの)エンジンが唸る音とか、モーター音とか、追い抜く音とか、機械の電源が入ってフル回転する音とか……。いろいろな場面が思い浮かびます。

でもこれを、
“ギゥイィィンッ” と書いても良いわけです。
“ギュゥイィーン!” なんて書き方でもオッケーだし、
“ギュウイィンッ” でもイメージは伝わる。

似てるし、同じ音の表現としても使えるのだけれど、それぞれちょっとずつニュアンスが変わりますよね。
僕は結構このあたりに拘りがあって、その場面その場面で最も自分の頭に響いた音を、出来るだけそのまんまのイメージ書き留めたいなあと思っています。だから、上記の書き方だけではなく、CSSを駆使して1文字ずつ大きさを変化させたりもします。まあ、やり過ぎるとうるさいだけですが、あくまでも《イメージを伝えるため》です。

次。
“シャキーン” はどうでしょう?
“シァキイン” なんか、シャープな感じがしませんか?

次。
“でーん!”
“でぇーん!” 間抜け度倍増?
“でぇえん!” ちょっと対象年齢低そう?

どうでしょう?
漢字の書き表し方などにはルールがかなりありますが、こういった擬音表現には相当な自由があるんじゃないか。と、勝手に考えているだけなのですがね。
まあそもそも、商業出版における正しい日本語だって時代に伴って変化するのだし、カギ括弧閉じの前に句点を打たないという常識にしたって、当初僕には単なる経費節約にしか思えなかった。まあ、常識を守らないと常識を知らない人だと思われて損するだけなので、無名の僕はこうべを垂れるのみですがね。
(そうやって常識を守っている間に、すっかり自分でも自然な書き表し方に思えてきちゃいましたが!)

さて、お楽しみ頂けたでしょうか?

本日はこれまで!

この記事がいつか、誰かの役に立ちますように!

パラドックスの面白さ(?)

『孤独の王』を読んでくださったかたは、《はじめに》を読み終えて、いきなり「おやっ?」と思ったかもしれない。
それはどうして?

今夜の記事は未読の方のための記事なんだから、「読み終えて」とかじゃなくて、ちょっと詳しく書いておかなきゃ!

《はじめに》を書いた日付、つまり『孤独の王』を上梓したのは、2,029年佳日。つまり、この本が書かれたのは未来なのだ。そして、その文章を書いたのは古代ティオル王国の研究者である淡波亮作。今は小説家だけれど、この謎の古代王国への興味を切っ掛けとして、とうとう古代史の研究者になってしまったのだ。これが、『孤独の王』が実在の古代王国を舞台にした《史実》であることを裏付ける仕掛けだ。(これだけでもう、中二病と言われそうですがw)

今の時代、実はまだその発見が表ざたにはなっていないけど、本当に古代ティオル王国というのはあったのだ。だけど現時点では、淡波亮作本人すら、その事実を知りはしない。

その国がどこにあったかは分からないし、存在したのがいつの時代だったのかも定かではない。恐らく紀元前であることは間違いないのだけれど、今までに発掘された数少ない遺物からは、はっきりしたことは何も判断できなかったのだ。のちに『孤独の王』と名付けられたその古代史物語は、本来は石板に刻まれていたらしい。でも、それを発掘した最初の考古学者は、なぜだかそれを再び埋め戻してしまい、その所在は誰にも分からないままになってしまった。二百年ほど前に無名のままで世を去ったその考古学者が誰だったのか、何人だったのかも、もう誰にも分からない。ただ、彼(もしくは彼女)が石板から書き写したと伝えられる羊皮紙だけが、古代ティオル王国の存在を今に伝えているのだ。

日本の作家である淡波亮作は、古代ティオル語を学んで懸命に翻訳し、ようやく2,029年、それを世に出すことになった。それが、物語『孤独の王』になったわけ。ということは、読者はまだ書かれていない物語を読んでいることにもなり、僕もまだそれを書いていないわけで……。ぐるぐる。だから、この物語が史実ではないことを証明できる人は、今のところ誰もいないのだ。うん。

いつの間にかアトランティスやムーのような伝説となっていることを目して、いや、それ以上に現実的な歴史として語られるときが訪れることを目して、未来の誰かが巧妙に仕組み、現代にポンと投げ込んだ本当の歴史。それが『孤独の王』なのだ。(という設定。ふー。ややこしい。自分で書いていてわけが分からなくなってきた)

まあ、そんなことで、お盆休みのお供にどうでしょう?
一見、スタンダードなRPG風の設定で大冒険譚の顔をした児童文学ファンタジー作品だけど、何しろ実話だから、そんなに都合のいいお話にはなりっこない。魔法使いはろくな魔法を使えないし、主人公と目される少年はどんどん捩れて行くし、お姫さまと英雄の恋なんか……。だからこそ、少年少女に読んでもらいたいのだけれどね。

ダークでシニカルで救いのない物語だから、この猛暑を涼しく過ごせること請け合い!

今日は特別に、第一部第一章をまるごと試し読みできるePubを用意したよ!
『孤独の王 試し読み版』

 

『孤独の王 第一部:かけら』は常時無料で楽天KOBO電子書籍ストアとAmazon Kindle Storeで絶賛配布中ッ!

cover_分冊版_第一部s

『第二部 別離』『第三部 赤い影』はともに、お値打ち価格の225円で発売中。値上がりはもうすぐかも。

さあ、Amazonへ急げ!cover_分冊版_第二部scover_分冊版_第三部s

 

では、ぜひお楽しみくださいね!

もうひとり、お気に入りの作家さんを紹介しよう!

Wet Teddy
Wet Teddy

その名も、Efon Veeさん。絵本作家のエフォン・ヴィーさんです。れっきとした日本人で、コピーライターのお仕事をなさってます。都内でAD/デザイナーの相棒の方と、デザイン事務所をやってらっしゃるそう。ご自身はデザイナーではないのだけど、そのセンスの良さは、オサレ王子もびっくりです。(まるでジャンルが違うので競合にはなりませんね)
制作中の作品は相棒さんからのダメ出しが厳しいそうで、商業出版絵本並のクオリティもうなずけるところ。

まずは、Romancerにあるこのページを見てみてくださいな!
どうです? やさしくて、かわいくて、すてきでしょ?

じゃあ次。
WEBサイトはこちら。
「絵本の立ち読みはこちら」というリンクからはRomancerの著者ページに行けますので、数々の絵本を無料で《全文!》読めますよ。
ブックトレイラーのページもお奨め。おしゃれでほんわかです。
冒頭に貼った可愛らしい壁紙の数々も、こちらで無料配布しています。

僕からのお奨めは、ざっくりした線で描かれた羊がセーターの写真を背景に躍動する『がけがすき』。表情のかわいさは特筆モノです!
それから『ひとコマ絵本』。木版画のような画風が素敵です。どちらもとても短い絵本で、上述のページから読めるものです。

もっと長い読み物がいいな、っていうひとには有料の『はにケンさん』。
どんなお話かって言うと────
半人半馬のはにわが出土して、小さな町は大さわぎ。心優しいヒーローたちのファンタジーです。

はにケンさん。クリックすると試し読みページが開きます。
はにケンさん。クリックすると試し読みページに飛びます。

面白そう、でしょ?

ビューワー要らず、閲覧環境を選ばないVoyagerさんのBinBで買えますし、Kindle Storeでも買えるんです。
(BinBでは半分くらいまで立ち読みできますよ)

今日は自分の宣伝はしないぜっ!

じゃあまた!

読書の愉しみ、二つの連載小説

僕は今、毎日2種類の連載小説を交互に読んでいる。知っているひとは知っているかもしれないけど、ある新聞の連載小説だ。

これが、あまりにも対照的で面白い。かたや、小説を読む喜びに満ち溢れたとってもすてきな純文学作品(仮にAとしよう)。一方もう一作は、エンタメ系風なのか文学風なのか分からない顔つきだが、ストーリー展開がすべてで、文章の味わいは置いてきてしまった、ようなもの(仮にBとしよう)。いや、きっとそうではないんだけど、僕にはそう感じられてしまう、もの。

Aのストーリー:200字に要約するのは難しい
Bのストーリー:簡単に要約できそう

そもそも、

A:要約してもその良さが伝わらない
B:要約を読めばだいたい内容が分かる

そんな調子だ。

A:いつ読んでも、どんなお話でも、楽しめる。味わえる。先も気になるけど、お話としてはいつ終わっても納得できる
B:物語が動いている時だけは面白い。説明や描写が気取りすぎだったり定型的過ぎたりして、筋に直接関係ない文章は楽しんで書いていないように感じてしまう

面白いのが、挿し絵も不思議と対照的なのだな。

A:味わいがあるが、うまい絵ではない。主に心象風景が描かれているから、何の絵なのか気にしなくても味わえる
B:その日の話の1シーンを切り出して、克明にリアルに描いている。だから、それ以上でもそれ以下でもない

だからどうだっていう話でもないんだけど、創作しているあなたは、どっちを目指したいですか?
AとBはどちらも超有名作家さん。きっと、同じくらい売れているし、評価も高いし、ファンもたくさんいる。だから、僕の読み方が単に穿ったものなのかもしれない。

《ハリウッドのアクション映画VS単館上映の芸術映画》
そこまでの違いはないし、当然、ハリウッドのアクション映画の中に芸術的な味わいを持つものがある。
Bの中にも、美しい描写(風のもの)があるし、行間を読ませようとしてる表現もなくはない。でも、僕の心には何にも引っ掛からないんだな。それでも、話の先が気にはなるから、読まずにはいられない。なんか、ゲーム的?
Aはね、一行読んだだけで不思議な幸せ感が流れ込んでくるんだ。ああ、今日もこれを読んでよかった、って。

別に、芸術家気取りになってるとか、文化的云々とか、そんな積もりは全くないんだ。ただ、話を追うためだけに小説を読むのは淋しいし、そういう読まれ方しかしないような物語を紡ぐのは嫌だな……。そう、作者サイドからもそう思ったという話。
僕は、実を言うと伏線てのがあまり好きではない。凄いなぁと思うこともあるし、それが感動に結びつくことも(稀に)あるけど、多くの場合はその巧んだ姿勢に醒めてしまう。あ、そ。と思ってしまう。あ〜よく考えたね、凄いね、って。
だから僕には、凝りに凝った構成のお話は書けないし、ミステリー作家には向いていないだろうなぁと思う。読者にそこまでを含めて味わってもらえる自信がないし。

テクニックはなくても、読んでいて楽しく、せつなく、かなしく、嬉しくて、美しく、醜くて、胸に突き刺さるものがあり、お腹の奥にずーんと残るものがあり、いつまでもその空気に浸っていたくなるような小説を、僕も書いて行けたらいいな。(贅沢過ぎるかしら?)

日々そう思わされる、この二つの読書なのです。

じゃ!

木陰の中の光を見る(イメージと現実−2)

今回は純粋に視覚的な話をしよう。CGの人にしか参考にならない話とも言えるけど、もっと雑学的な位置付けで気軽に読んでくれたら嬉しい。夏らしい話題だし。

この夏、天気の良い日が多いようだ。毎日強烈な日差しが照りつけて、これでもかと光を反射する地面には、樹々の、つまり葉の影がくっきりと映えている。

葉の形は概ね紡錘形とか雫型なわけだけど、その影が多数重なり合った時、隙間に形作られる光はどんな形をしているだろうか?

下から見上げると、こんなような見え方なのだから、地面に落ちる影もまあ概ねこんな感じだと思う人が多いことだろうと思う。
丸っこい葉っぱの連なりに削り取られた光なのだから、凹んだ感じのカーブで囲まれた形になりそうだよね。

見上げたときに見える葉っぱの連なり
見上げたときに見える葉っぱの連なり

 

でもね、ちょっと違うんだ。
はい、ここで身を乗り出して。

葉と葉の隙間が大きい場所であれば、まあこんな感じにも見えるだろう。でもね、樹は立体。葉っぱは幾重にも重層的に重なっているのだ。平面的に見れば凹んだ形に見える隙間でも、太陽の光から見れば、その形はもっとずっと複雑なもの。
そして、そこを光がすり抜けられる隙間は、実は結構狭い。ぱっと見で光が抜けていないように見える隙間を、太陽の光は順々に反射し、屈折しながらくぐり抜けるのだ。そして、地面に像を結ぶ光の形は、こんな風になる。

葉と葉の隙間にある光は、真ん丸いものが多い!
葉と葉の隙間にある光は、真ん丸いものが多い!

 

ね、真ん丸い光が幾つもあるのが、分かるかな?
光って不思議でしょ?

何かの形に似ていることに気が付いたひと?

そうそう、海とか、太陽の光で遠くにキラキラ輝くものを撮影した写真に、こんな感じの丸い光がたくさん写っているよね。あれも光の反射と屈折が生みだしたもの。

ちょっと、面白いでしょ?

イメージと現実は、時に異なった顔を見せるのだ── 淡波亮作w

植物ネタだから、本日の自著紹介はこれにしておこう。

『奇想短編集 そののちの世界4 フローラ』

フローラ
フローラ:一番強いのは、やっぱり植物なのだ!

 

では、この記事がいつか誰かの役に立ちますように!

実を言うと、最近ほとんど書いていない_2

さて、昨日の続き。
ほとんど書いていないながらも書いているお話は──?

これまで書いてきたお話は、書くごとに結構振り幅が大きかったりする。
中年女性が主人公で身の回りのことしか出てこない《暖かい家族小説》の次は、近未来のジャーナリストが主役で《世界を舞台にしたSF》。その次が《実話仕立ての古代史ファンタジー》かと思ったら、次は《遠い未来のサバイバルSF》だったり。で、前作の『光を纏う女』が初の《ちょっとエロチックな大人向けサスペンス・ホラー小説》だもんだから、その対岸にある次作はというと……?

はい。
お分かりですね。
で、今書いてるのはこんなお伽話なわけ。

タイトルは、
『フックフックのエビネルさんとトッカトッカのカニエスさん』
ね、タイトルからして子供の絵本ぽい。

せっかくだから、書き出しをちょっとだけ紹介しちゃおうかな。
こんな感じ。

 フックフックの国に住んでいるエビネルさんはやせっちょで、お酒が大好き。トッカトッカの国に住んでいるカニエスさんは太っちょだけど、お酒はぜんぜん飲みません。いいえ、飲めないんです。だからなのか、やせっちょエビネルのお腹は出ていて、太っちょカニエスのお腹はぜーんぜん出ていないのです。

エビネルさんは洋服作り(テイラー)の見習いで、まいにちまいにち美しい生地にアイロンをかけて暮らしていました。お金持ちのご婦人がたと、店のご主人はいつも楽しそうにおしゃれの話をしていたけれど、お給金の少ないエビネルさんは、余った生地を上手に組み合わせて使い、自分でぬった服ばかりを着ていたのです。エビネルさんはいつもいつも、楽しそうに話すご婦人がたとご主人を見て、思っていたのです。僕もいつか自分のお店を持って、ご主人と呼ばれるようになるんだ、って。

そう、これは完全に子供向け(の顔をした)お伽話。一度書いてみたかったんだ、こういう懐かしい香りの漂うお伽話を。
例えば、『香水』のジュースキントが書いた『ゾマーさんのこと』や、フィリップ・K・ディックの『ニックとグリマング』のような、ね。

とは言え、気まぐれな僕のことだから、このまま進むかどうかも分からないのだけど。もちろん、淡波らしい毒はそこここに潜んでしまうと思うし──。

まあ、楽しみに待ってくれる人が、一人でもいてくれたらいいなって思いながら。

では!

実を言うと、最近ほとんど書いていない

最後に作品と言えるものを仕上げたのは群雛8月号の締め切りの時だったから、半月くらい前。その前はその『光を纏う女』の下敷きになった掌編で、2ヶ月くらい前? で、その前と言ったら『未来からの伝言』だから、もう4ヶ月以上も前だ。おっそろしい!

で、僕はスランプなのか、書けないのか、と自問するとね、全然そんなこともないんだけど……。
ただ、牛野小雪さんのスランプ分析によると、最初は《否認》だって言うし、自分の答えもあてにはならないかもしれない。
僕もこの記事を書こうと思っていた日に、ちょうどいいタイミングで牛野さんがスランプの記事を書いてくれたわけだけど、針とらさんもそんなこと呟いていたし、セルフ作家界ではスランプがブームなのかな、それを分析する自分自身を晒すことも含めてね……。
(「スランプと執筆は表裏一体なのさッ」という声も聞こえる)

僕はスランプじゃないよって、言い切っちゃおうかな。だってさ、僕はまだ、スランプに陥るほど小説を書いちゃいないんだ。書き始めてまだせいぜい5年くらいだし、ネタ切れになるほどいろいろ書いてないし、やってみたいことや書いてみたいことが山ほどある。書くことで、ちょっとずつ山か坂を登ってるような感じかな? これからの自分にはどんな小説が書けるのか、まだそれもぜーんぜん見えていない。

僕が書いていない原因は単に、小説以外にやってることが多過ぎて、小説を書く時間が取れないことなのだ。それも間抜けだけど、それが小説を売るためにやってることとなれば、もっと間抜けなものだ。まあ、ようやっと小説以外のことで時間を取られるものがひととおり片づいた気もするので、そろそろかな、と思っていた矢先……。

本業が……!
これを言うと言い訳くさくなっちゃって超カッコ悪いんだけど、今はなんとか睡眠時間を確保して、身体を保たせるだけでせいいっぱいなんだなぁ。情けないことに。
あとひと月以上は本業超繁忙が続くので、カタツムリのごとくゆっくり書いている今のお話が少しでも進んだら、淡波えらいじゃん、やってんじゃん、って思ってくれないかな……と思う今日の淡波。

やれやれ、なんちゅう記事だろう。

その、執筆中作品については……

続く!

暴挙? 愚行? 適正価格をめぐる冒険-2

さてさて、暴挙予告の第二回。僕の想定価格を発表しちゃおう。

自作の価格=同程度のボリュームを持つハードカバー商業本価格÷2÷2

最初の÷2は、電子書籍とハードカバー書籍の価格差。(商業出版の電子版もこのくらいの値付けが妥当ではないか)
次の÷2は、個人出版であるが故の経費差額と考えている。働いているのは自分一人だからね。

ここで重要なのは、その内容に対しては妥協する気がない、ということ。強気と思うだろうか? 尊大な態度だと思うだろうか?

でもこれは、そういう次元とは異なる判断なのだ。前々回も書いたように、Amazonのストアではセルフ出版だろうが大手出版社だろうが、分け隔てなく並列で書籍が並ぶ。その中で、チープに見られたらそれで終わりなのだ。人の感覚は不思議なもので、安いものを欲しがるくせに、安いものには《しょせん安物》という目を向ける。
そこをなんとかしなければ、同じフィールドで対等の勝負はできない。僕はそう考えた。間違ってるよと大勢に言われそうだけど、僕はそう考えたんだ。

大長編作品の『孤独の王』を例に取ってみよう。同じ程度の長さの作品を、仮に『ハリーポッター・シリーズの長めの本』あたりに置いてみる(ページ数をきちんと比較してはいないけどね)。
後者の価格は4,000円くらいだろう。僕の記憶イメージを元に独断で決めると、3,800円。これの4分の1で、950円。これが、今考えている孤独の王の適正価格だ。高いだろうか? 強気すぎるだろうか?
(HPの価格を調べてみると、実際はもう少し高かったけど)

値上げ時期については、まだ決定していない。ちょっと準備をしようと思っているから、恐らくは9月頃になりそうだ。

今、僕のことを知っている、これを読んでいるあなたは、《幸運な初期カスタマー》ということになるかな……。450円で買える今のうちにポチッとしておくと、お得かもしれないですよ。(もちろん、無料キャンペーンもしませんしね!)
まあ急がなくても、そんなすぐに価格が変わっちゃうことはないけど。
え? そんな高いセルフ出版本、読む気はないですって?

これは失礼いたしました。

では!

暴挙? 愚行? 適正価格をめぐる冒険

アメリカの起業家界(?)にはこんな言葉がある。
価格を倍にしても売り上げが半分になることはない。自分の商品に付けている今の値札が本当は安過ぎると思っているとしたら、値上げするべきだ。商品をその価値より安くして売ってはいけない。あなたの信じる適正価格を付けるべきだ。

そして、もう一つ。

Full price or free.
商品の価値を貶めないために、決して値下げをすべきではない。サービスは、初期からあなたの価値を認めてくれた顧客のためにのみするべきだ。だから、発売からしばらくの間だけ無料にしたり、安く価格設定をするのはいい。でもその後は値引きなしの定価販売を続けるべきだ。初期からの忠実な顧客を裏切らないためにも、自分の商品の価値を貶めないためにも。

僕はこれを実践しようと考えている。

無料キャンペーンは新作の発売時だけ。後は適正価格のみで販売する。そして、その適正価格は僕なりの基準を考えて決めるつもりだ。

で、その基準とは?

それは次回のお楽しみにとっておこう!
(あれ、もったいつけ過ぎてるかしら?)

じゃ!

値上げのお知らせ:予告の予告

そうそう、丸木戸サキさんの値上げのお知らせを見て急に思い出した。僕も自作の値上げを予定しているのだ。理由は単純。Amazonに並んでいる自作と商業作品の差。

商業作品と自作品が並んでいると、(たとえ表紙で負けていなくても!)安っぽく見える。それは、価格のせいというのが大きい。とても大きい。

安売りなの? 安っぽいの?

そう思われてしまう危険が大きい。

商業作品でも、消費者の誰もが作家名や出版者名を知っているとは限らない。何も知らない消費者(がいるとすれば、その人)にとっては、判断基準は《タイトル》《表紙(帯含む、デザイン全体)》《価格》《商品紹介》だろう。

《価格》以外は頑張ればなんとかそれっぽいものになる。
でもなぜ、《価格》はなんとかならないのか?

それは、今までのセルフ出版本の価格に対するイメージがある。商業出版の電子書籍でも、安いものは500円くらいから存在する。いつの間にか、それを超えるとヤバいんじゃないかという不文律が存在するような雰囲気になっていた。
気がする。
350円を超えると《強気価格》と揶揄されそうな雰囲気。実際僕は、これをものともせず、350円、450円という値付けをしてきた。でも、そんなんじゃあダメだ。商業作品の横に並んでいて、新刊が350円?

やっぱりこれは、自分で自分の作品を安っぽく見せてしまっているのではないか、そんな疑問が、日々大きくなっていったのだ。

僕はそれを超えようと思う。平気で大きく超えようと思う。

僕が考えている自作品に対する《適性価格》のレベルと具体的な数字、値上げ時期については、明日以降、この場でお知らせしようと考えている次第。

ではまた!

淡波亮作の作り方