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読後感の解説?:フクチカズアキ著『Hotel New Alabama』を読んで。

いつもどおり、はじめに断っておきたいのだけれど、これはいわゆる書評やレビューではないんだな。実は、今回はさらに一歩先に行ってしまう掟破りを強行するから、もう感想ですらない。

じゃあ何だっていうと、こういうことになる。

《フクチカズアキ著『Hotel New Alabama』を読んだ僕がずっと感じていた世界を使って、小品にまとめてみた》

だったら二次創作? っていうとそういうものでもない。
じゃあ何?

小説の世界観の中で僕は作者にもてあそばれ、自由自在に転がされていたんだけど、その心地よさの中で、ずっと僕の頭を支配していたヴィジョンがあったのだ。それはなぜか、小説の内容とはまるで関係のないもので、そこに出てくる世界も小説の提示してくれた不思議な世界とは大きく異なるものだった。異なるというより、何の関連性もないものだったのだけど、物語を味わうこととはまた別の次元で、僕の心はある風景の中に放り込まれていた。それはとても独特で不思議な体験だったので、そのイメージ自体を書き残してみようと思った。
だからこれは、『Hotel New Alabama』とは一見何の関わりもないし、感想にもなっていないのだ。でも、この物語を読まなければ、僕の中にこの世界が生まれることは決してなかった。だから、これはやっぱり、僕にとっての『Hotel New Alabama』の読後感なんだな。

さて、本題は縦書きで、BiB/iによるePubで味わってもらいたい。僕とフクチカズアキ氏の共作を読むような感じでね。
(フクチさん、勝手なことを言って済みません!)
 

『波』
 

あ、ちなみに、僕が普段書いている物語はこんなに曖昧模糊としたものではなく、どちらかというとシンプルで読みやすいものになってるんだけどね……。


 

さて最後に少しだけ、『Hotel New Alabama』の内容にちゃんと触れておかなきゃね!

そこは、《消滅》したい者が訪れる場所、ホテル・ニュー・アラバマ。そこを訪れた者は、存在が元からなかったことになってしまうという。主人公はその謎を解明するためにその場所にやってきた、はずだった。彼女を迎えるホテルは、どんな要望にも応えてくれる。そこで働くのは同じ顔の男たち。そして出遭う、それぞれに秘密を抱える宿泊客たち。
謎がどんどん深まる中、殺人が起こり、主人公は強制的に交替させられる。エピソードはプツリと切れる。

本の最後の1%まで、秘密は解き明かされない。結末や仕掛けをあれこれ想像して読むほうが面白いのか、僕のようにただただされるがままになって読むほうが面白いのか、それは、この本をこれから手に取るあなたが、自由に決めて欲しいな。

惜しむらくは、誤字脱字をもう少し減らしたい。
(いや、決して多いわけではなく、多分僕がそういう部分に目の行きやすい体質なだけなんだと思う)
内容は本当にとても良いと思う。面白くて気が抜けなくて、上手いなあ〜と。

多くの方に読んでもらいたいなあと思う本が、僕の本棚にまた一冊、増えたのだ。

だから「困難だ」って言ったんだぁ

拙著『プロテイン・パック』をネタにしてくれたのは嬉しいんだけど、あれ、誤解を与えるよなあ。筋肉系の男が出てくる話じゃないんですよ。(もちろん、まだ読んでないんでしょ?)←あ、わざとだってのは分かってますけど。
《動物性蛋白質を半固形化した冷蔵または冷凍食品》これが、プロテイン・パックの正体だ。でもその動物性蛋白質の正体は、物語を読んで知って欲しいな。

さて、本題。

『Pの刺激』の感想文に対する著者ご本人からの感想に対する再説明・弁明・言い訳だ(何とでも言って!)

ヘリベさんだけでなくリアリティという言葉が引っ掛かってしまった部分も大きいようなので言い直すと、『構築されたその世界観を読者が受け止められるだけの説得力を持っているか』ということになるかな?
誤解を与えてしまったようなので書いておくと、『Pの刺激』には全体的にその《リアリティ》があるし、部分部分の描写にもそれがある。だけど1ヶ所だけリアリティを感じなかった大きなポイントがあったという話なのだ(後述)。
《感情移入》に問題があるとはまったく思っていないし、僕はちゃんと話中にどっぷり浸かって読んでいた。それは僕の言ったリアリティの問題ではないのだな。
きちんと解説し直すとすると、リアリティを感じなかった点、つまり僕がこの物語世界に説得されなかった点は、《Pによる幻想が現実を侵食し》というくだりだ。未読の人にとってのネタバレにならないように注意しながら書いたので、やはり曖昧な書き方になっていたようだ。
きちんと書いたようにも思うけど、誤解を与えたのだからしかたがない。

各種の物語に登場する《ほんものの魔術》や《超能力》や《現実を超えた天変地異》が説得力を持つためには、その世界観にその種が蒔かれていなければならない。僕は単に、その種を見過ごしてしまった読者だったのだ。昨夜のヘリベさんの記事を読む限り、それはちゃんと物語の世界に埋込まれていた。だから僕がそれを見逃してしまったに過ぎない。

郁夫の《力》は、その後のファンタジーを予感させる道具立てとして、充分に成立・機能していた。夢の中で他人の夢に侵入し、それを左右してしまう能力。それは、既に一線を越えたものだった。僕はそれをある種の精神世界の出来事として自分の中で片付けてしまっていたんだ。でも、よくよく考えれば分かる。この描写は読者に完全に違和感なく受け入れられるものだし、後半でそれが拡大していけば現実世界に影響を及ぼすこともきわめて自然に受け入れられるべき現象だったんだ。

分かるかな? 僕が唯一の欠点だと指摘してしまったポイントは、つまり欠点などではなかったということだ。
僕の感想文を読んでそこが欠点だと思ってしまった人がいたら、申し訳ない。ごめんなさい。謝ります。ヘリベさんにも頭深々と「ごめんなさい」だ。
僕は、自分の読解力不足を暴露したに過ぎないわけなんだ。だからあの作品に、《僕が》、《直すべき点として指摘できるもの》は、何もないんだ。
そもそもあれは《感想文》なのだし、《指摘》なんてそんな大それた、おこがましいことをする気は微塵もなかったのだし。

もう一度言おうかな。『Pの刺激』は傑作。ただし、受け入れ側には少々の読解力が必要。
以上。

ここからは私信のようなものになるかな(小説クラスタ以外の方、ごめんなさい)。


ヘリベさんは他人の言葉のネガティブ側面を拾い出して繋ぎ合わせ、ネガティブな結論として思い込んでしまいたい性向があるのかもしれませんね。(その拗ね方がカワイイとも言えるんですが、)そんな風に思わなくていいんです。
僕だってネガティブに捉えれば、ヘリベさんのお書きになった記事からこう思って落ち込むことになります。

「淡波亮作は作家のくせに一般読者と同じ浅い読み方しかできないし、読解力も低いようだ。構造を理解しようとしないくせに批評するなよ、泣き言言うくらいなら読まんでくれ」って。うわーっ。

あなたは多くの読者やセルフ作家から愛されているし、あなたの作品は尊敬を持って読まれている。(キモイと言わないで!)
それは間違いないんです。いいと思ったからこそ、僕はもっとヘリベさんの別の作品を読みたいと思ったし、「ダメ」と思った作者のものには、恐らく二度と手を伸ばしません。(自分の読書力を確認するためとか世間の評判に引っ張られてとかで、もう一度手に取ることもないとは言えませんけど)

感想記事のタイトルを《感想を書くことが困難な作品》としたのは、きっとあなたに誤解されるだろうな、と思ったこともあります。《批評する者は批評される》わけですし、それは予測していました。(無視されていたとしても拗ねませんよ!)
読んだ作品をべた褒めするだけが感想ではないですし、僕は自分の感想として、出来るだけフェアに書いてみたかった。それが少々ずれていたとしても、べた褒めだけして終わりにはしたくなかったのです。褒めたい部分は褒める。気になった部分は気になったと言う。それだけです。僕は一般読者のように読むし、僕の感想はいわゆる批評ではありませんしね。

牛野小雪さん推薦の『シュウ君と悪夢の怪物』の次には『ガラスの泡』を読みますよ!

(願わくば、無計画な『そののちの世界』に幻滅しませんように!)

では!

感想を書くことが困難な作品

ヘリベマルヲ作『Pの刺激』を読了した。一言で言えば、《溢れ出る奔放なイマジネーションの洪水》。
それに尽きる。(あくまでも個人的感想として)
舌を巻く描写のテクニックが随所に散りばめられ、その想像力の強さと広大さにはたじろぐほどだ。プロットも凝っているし、話の進め方も別レベルのうまさ。

「難解だ」「分かりにくい」そういう評価は、当て外れだろう。作者は、そう狙って書いているのだから。
僕も最初は戸惑った。
誰が言っているのか分からないセリフ。何のことを話しているのかが分からないセリフ。前後関係が分からない描写。それらは全て作者のテクニックの一部だ。だから3度読めば理解出来る。筆力がなくてあの表現になっているのではなく、それが溢れるほどあるからあの表現なのだ。
前置きなく、《そこにいる人たちの会話に突然割り込んだ読者》として、僕ら読者は作者の構築した世界に放り込まれる。僕らは世界を理解しようとして必死に追い縋る。でも、《世界を理解する》なんて幻想なのだ。僕らはまた放り出される。
夢中で読んだ。逃げられない。
ある意味、すごい才能だしすごいクオリティだ。メモりたくなるようなイマジネーションの宝庫だ。ボッシュだ。キリコだ。マグリットだ。
これは、作者本人が言うようなゴミなんかでは決してない。(もちろん、本当にそう思っているのではないことは、分かっているけど)

それでもなお、僕はこの作品の決着のつけ方には納得できなかったんだ。そう、それは個人の感じ方の自由だから、良し悪しではなく、僕がどうだった、というだけの話。

残念だけど、後半からの動きにはストーリー逃避を感じてしまった。作品の説明に《ダーク・ファンタジー》とあるのだから、「あり得ない!」という感想が成立しないのは承知の上だ。でもね、その作品の中での《世界の存在を信じ得るリアリティ》が、終盤のファンタジーに突入して急速に失われていくことには、どうしても頷けなかった。
夢が現実を侵食し始め……という流れにもっと説得力があったらなぁと感じてしまったあたりが、僕の読書力の限界だったのかもしれない。

常日頃、SFやファンタジー作品にとって最も大事なのはリアリティだと、僕は考えている(異論の方が多数派だろうけど:そうでなければインター○テラーがあれほど高い評価を得られるはずがない)。
読者が見たことのない世界を構築して提示するのだから、そこに放り出された読者が自然に呼吸できるリアリティがなければ、それを作品として成立させるのはとても困難だ。
この作品の9割以上では、それに成功していると思う。

でも、その放り出しかたには《世界を構築した神としての責任》という潔さがもう一つ感じられなかったのだ。これは勿論、僕個人の偏った感想だから、作者には一笑にふされるだろうし、それでいい。全て綿密に計算して練り上げたプロットなのだから、そこに読者が納得しようがしまいが、それは全て作者の掌の上で起こっている事象なのだ。

僕が納得できなかったのは単に、僕の頭が固いからなのだろう。そこに納得できる《柔らか頭》の持ち主にとって、『Pの刺激』は紛れも無い傑作だろう。いや、僕にとってもたぶん傑作なんだけど。
(『山彦』のスーパーパワーにも、『ターンワールド』の摩訶不思議な世界観にも、『妄想する子供たち』の妄想世界にも、僕は“踏み外さないリアリティ”を感じていた。だからものすごく固い頭ではないはずだけどね)

ここで僕が言いたいのは一つ。
この作品を最後まで読まないで批評してはいけない。どんな作品でもそうだけど、(文章力がそもそも欠落しているものは論外として)最後まで読まなければ作品の真価は分からない。
途中で挫折したひとは、どうか、そこで評価を下さないでほしいんだ。

そしてもう一つ。今、読み終わって1日経って、改めて思ったのは、《これはいい作品だった》という感慨なのだ。(この感想文もちょっと時間を掛け過ぎて脈絡が崩れている……)

以前僕は、芸術作品には2種類しかないと書いた。

“観賞し終わって、徐々に心の中での評価が落ちていく作品と、
観賞し終わって、更に評価が上がっていく作品です。”
と。

「納得できない」とか言っておいて不思議なのだけど、なぜだか自分の中で『Pの刺激』の評価は徐々に上がっている。納得できなかったことが自分の内部にあるのではないかと思うと、それは作品の評価ではなく自分の読み方の評価なのであって……でもそれは作品を読んだことで生まれた感想であって……メビウスの環状態。

そういった意味で、(どういった意味だ?)これは無料にすべきでない作品なのだと思っている。《届くべきでない読者に届いてしまう悲劇》を避けるためには、作品紹介を読んで対価を支払いたいと思った読者の手にだけ届くべきなのではないかと思っている。

これ、感想になっていたのかなあ……。

(了)

思わぬところで見つけた《懐かしいお伽話》

それは、平沢沙里さんの『青き国の物語』。(ひとむかし前を思わせる)少女マンガ風の表紙、ラノベ調ファンタジーとも取れる作品紹介。だがその正体は、《ヨーロッパで口承されてきた昔々のお伽話》を収集した童話集で読めるようなテイストの、《懐かしいお伽話》なのだった。
今回、タイトルに作者名も作品名も入れなかったのは、表紙から受ける印象と中身のお伽話に、けっこう大きなギャップを感じてしまったからなんだ。もちろん、そう感じない読者もたくさんいるのだろうけど、この本は《童話》とか《お伽話》として紹介した方が、届けたい読者に届くのではないのかな、と、そう思ったのだ。

粗筋を言ってしまえばすこぶるシンプル。
ある呪いで醜い妖精との結婚を運命付けられた少女騎士が旅に出て成長し、呪いを解く鍵と恋を見つける、というもの。
このシンプルさ加減がいい。今時っぽいテイストが微塵もなく、それは即ち作者が書きたいものだけにフォーカスしている姿勢の表れなんだと思ったのだ。
売れたいとか、受けたいとか、気に入られたいとか、そういうズレた色気をすっきりと排除しきっていて、清々しい割り切りを感じる。文章は決して美文ではないし、人物描写が深いわけでもない。あくまでもすっきりとさらりとしていて、湿ったものが何もない。そうそう、その感じも欧風だ。
でも、そこに流れる落ち着いた気分は、冒頭で書いたようなお伽話全集に収められた小品を味わうような愉しみを与えてくれたんだ。
不思議と上品で、古風な雰囲気、そしてネーミングのセンスが秀逸だなぁと嬉しくなった。
ちょっと油断して現代語が漏れ出てきてしまうようなところもあったけど、全体は上手に抑制された翻訳調。

たまにはこんな長閑なお伽話をのんびり味わうのも、なかなか良いものですよ!

Amazon Kindle Storeで販売中

すぐにスカウトしないと手遅れになるかも! ヤマダマコト作『山彦』を読み終えて

「諸君、カネだ! 大金が目の前で野ざらしになっているぞ」ヘリベマルヲ氏が人格OverDriveでそう書いたのにも大きく頷ける大傑作。それがヤマダマコト氏の第2作目、『山彦』だ。

僕は上中下の3冊とも有料で入手したけれど、この内容、ボリューム感で考えると非常にお得な買い物だったと断言できる。書店で買えば、三千円は下らない商品価値があるだろう。

度肝を抜かれるようなどんでん返しや突如として足元を掬われる大仕掛けはあまり用意されていないけれど(いるよ、とも言える)、物語のうねりそれ自体が圧倒的な熱量で膨らみ、押し寄せてくるのだ。凡ゆる不可思議な出来事をごく自然に納得させられる筆力が、それを可能たらしめている。

物語が進行するに従い、超常現象の数々が、ごく自然なリアリティを持って眼の前に提示される。読者は主人公の須見と同化し、それらの現象を《現実のものとして》信じざるを得ない状況になる。そこには超常現象を単なる小道具として用いた小説に見られるチープさは微塵もない。須見のジャーナリストとしての“自分”はそれを否定したいが、それを実際に目撃してしまった以上、疑いを挟む余地はない。他の人間にしてもそれは同じだ。一般人も警察官も、そして読者も、眼の前の現実を淡々と受け入れるしかない。

だが、それでこの小説が荒唐無稽なSFやファンタジーに変質することはない。良質なファンタジック・ミステリーとしての軸がしっかりと保たれている。世界にパラダイムシフトを起こすことはなく、超常現象やそれによる事件は世の中に《よくあるゴシップ》として消化されていく。その流れの作り方が秀逸で、あ、これならたしかに現実世界が一変するようなことにはならないなと、安心させてくれる。だが、そのしっかりとしたリアリティを保ち続けたままで、物語は非日常へと逆に激しく突き進んでいくのだ。

そして最終章、消化されていった非日常に、物語の傍観者でしかなかった主人公の須見が戦いを挑むことになる。その結末は記されないが、不安の中にワクワクする期待感を潜ませながら、物語は終焉を迎える。奇しくも、別の軸で物語を支えた警察官の橿原は、『自分は傍観者でしかなかったのだ』と感慨を抱えながら事件の終息を客観視していた。
一方で須見は、山彦と同じ視点を持つことによって、最終的には傍観者でいることを許されないのだ。ただの巻き込まれの構図とは異なる、ポジティブな須見の行動が、不思議と爽やかな感動を呼んだ。

エダカであるフミの変化、色々な意味での開眼も効果的だ。ふくよかな余韻は、フミの変化によるところが大きいだろう。(何しろフミがたいへんに魅力的だ。あとがきによれば、最初、この人物は男の子だったそうだ。女の子に変更したのは大成功だったろうと思う)

改めて、ヤマダマコト氏、ただものではない。この1作で小説家としての存在を確固たるものにすることは間違いがないだろう。ただし、商業出版関係者の目に留まれば、だが。

広橋さんのお名前をタイトルに入れなかったのは

今朝の記事『読むべきだ!』に、電書ちゃんからのこんな突っ込みがありました。

上にもあるようにTwitterでちょこっと説明しましたが、もっと大きな理由があります。
(あ、ちなみに、『読むべきだ!』は書評ではありませんよ。作品の内容にはほとんど言及していませんし、言うなれば、ファンレターですね)

僕がTwitter上で広橋悠さんの呟きに気付き始めた頃、何度か著者ページを見に行ったことがあります。そこで小説の説明を読んで、作品を読みたくなりました。いいえ、実は、そう思わなかったのです。今ではセルフ界隋一の広橋作品ファンを自認する僕が、結構長い間、その作品を読まずにいたのです。
その理由がこれです。

『妄想する子供たち』著書紹介より
『妄想する子供たち』著書紹介より

 

広橋さんの全ての作品紹介には、最後にこんな注意書きが入っているのです。
(広橋さん、ごめんなさい!!)

これをどう思うかは読んだ人しだいですし、ご本人とも過去に会話していて、やはり《読者さんとのミスマッチ》を防ぐためにどうしても入れたい、というお気持ちに変わりはありませんでした。とても誠実なお人柄が感じられますし、馬鹿正直なくらいフェアな方だなあと思います。まあ、それも僕が肩入れする理由の一つなのですが。
だって、誤解されやすい人って応援したくなるじゃないですか!

僕は何度も彼の作品が気になって、作品紹介ページに行く度、「あ、そうか、このネガティブ・メッセージを書いてる人だったか……」という残念な気持ちになって、手に取れなかったのですね。今思えば何とももったいないことをしていたものです。
何度も著書ページには行っていたので、ある時頭の中にポッと《アルフェラッツに溶ける夢》という言葉が浮かんだのです。そして、広橋さんの著者ページを訪れ、「あ、やっぱりこれだ」と気付きます。でも、やはり買いませんでした。でも、なぜでしょう、それからことある度に僕の脳みそは《アルフェラッツ》という言葉を呟き続けました。
最後は根負けです。ポチりました。そして、眼の前がぱっと開けました。これが僕の、広橋悠ワールドとの邂逅です。

さあ、もうお分かりですね。
きっと、去年の僕と同じように感じているひとが、たくさんいるのではないか。僕はそれを恐れたのです。もしあなたが広橋悠さんを《自信なさげなひと》《作品紹介に注意書きを入れちゃうネガティブなひと》と思い込んでいたら、僕の記事タイトルにお名前が入っている時点で敬遠してしまったかもしれません。
まあ、僕のような無名のセルフ作家ふぜいが絶賛したところで、それを鵜呑みにしてお金を払うひとがいるかどうかは分かりません。でも、あの記事を読んで、興味を持ってくれるかもしれません。検索してくれるかもしれません。そうしたらきっと、僕以外にも広橋作品を絶賛しているかたがいることに気付くでしょう。

これが、僕の狙いでした。

そして実は、もう一つ、裏の狙いがあります。
「ブログタイトルには固有名詞を入れるな、入れるとアクセスが減るぞ」という鉄板ルールが、かん吉さんの『人気ブログの作り方』で明らかにされていたのです。僕はこの本を読んで以来、できる限り万人に理解しやすい、一般性のあるタイトル付けを心がけています。

それまでは酷いものでした。自分の小説の題名やCGのこと、ソフトウェアの名称など、固有名詞を記事タイトルに入れていたことが結構多く、その方がいいんだと思っていたのです。でも、知らない固有名詞がタイトルになった記事なんて、興味の持ちようがありませんよね。
誰にも読んでもらえない記事を書くつもりもないので、そこは何とか努力して頭を捻っているわけです……。

 
さて、今夜はこの辺で……。

この記事が、いつか誰かの役に立ちますように!

《6/5 追記:
 ここで突っ張っても仕方がないので、前回記事のタイトルは修正しました。何かのプラスになればそれでいいのだし、複数のひとに言われたことには重みがあるから》

読むべきだ!:広橋悠『妄想する子供たち』『海想』『アルフェラッツに溶ける夢』……

《6/5追記:
 朝令暮改。前言撤回。正しいものには巻かれろ。タイトルに入れましたぞ》

あなたは広橋悠さんの『妄想する子供たち』を読むべきなんだ。ヤマダマコト氏の『山彦』はたしかに凄い、僕は夢中で読んでいる。いつもの読書スピードより早く進む。これは書店に並ぶべき本だし、新聞の広告に《○○万部突破!》なんて見出しが出ていることだって想像できる。本屋の店員さんがガンガン勧めてくれそうだ。前半の丹念な描写でちょっと古風な本格ミステリーかと思わせて、徐々にエンタメ性全開になりつつ渋さと品を保っているのもいい。ご本人が《ファンタジー》と言っているのもポイントだ。《鹿の王につづく伝奇ファンタジー》なんてあおり文句が出るかもしれない。あれ、本題からずれた。

広橋悠さんはベクトルが全く違うけど、レベルは同等かそれ以上。(僕の中の貧しい読書体験の中限定では、セルフ界一番の筆力だ。残念ながら、僕は山の麓で見上げるしかない)

彼の本は残れる。ずっと残れるものになる。紙の本を出しても、きっと初動は芳しくないだろう。ちょっと《奇書》の匂いもする。大事なのは、《臭い》でなく《匂い》だということだ。延々と続く悪夢の中で、香しく美しい、妖しい魅力が留まることなく輝き続けている。
作品の持つ不思議な熱は、本好きの心にずぶずぶと浸透していくに違いない。そしてずっと、少しずつ売れ続けるだろう。初動なんてクソ喰らえだ。『妄想する子供たち』は、十年売れ続ける。いや、もっとだ。これを読まずに何を読むか!
読んでみて評価に値しなかったら、僕のセンスを疑う前に自分のセンスを疑っても良いんじゃないかと言い切りたいほどだ。

『妄想する子供たち』には、ジュースキントの『香水』のような《不思議なロングセラー》という枕詞が似合いそうだ。(ちなみに映画は観ていない。読んだのは映画化話が出るずーっと前だ)

 
『海想』の縦書き化も進んでいるそうだし、縦書き化に合わせて内容にも手を入れているという。そうなんだ、この感覚。縦書きにした時に、横書きで読んでいた時には見えなかった微妙な雰囲気の差異が読み取れる、書ききれる作家さんなんだ。(プロでも書く時には横書きという人も多いという。それをどうこう言うつもりはないけど)
『海想』にはまだまだこなれていない部分や粗削りな表現、ちょっと素人っぽい構成もあったけど、『妄想する子供たち』はパーフェクト。(自分比)

さあ、読んでみて欲しい。そしてともに、広橋作品の魅力を伝えて欲しい。

(今日はマリヘルヘリべマルヲ氏の文体が伝染している。ちょっと言い切り調だが、それは《熱》だと思って欲しい)

読書前感想文という荒業

さて、読書感想文→読書中感想文、と来たら、当然次は読書前感想文ですね!
行きまっせー。

発売前に商品のプロモーションを行なうのは商売の基本ですが、インディー作家たる者、作品のプロモーションをどこまで商売として考えるのかは難しいところ。
宣伝宣伝せず、売らんかなという感じを与えないで、でもそれとなく作品をアピールしつつ、新しい読者を呼び込むために個性的なトピックもちりばめつつ。あぁ何て難しいんだろう!

で、その好例となっているなあと思ったのが、新潟文楽工房ヤマダ氏のこのブログ。ご本人はきっとプロモーションの積もりはなくて、身辺雑記としての新作進捗報告。きわめてプライベート感溢れる記事が、好感を呼びます。そして、一見関係のない記事から自作へと引っ張る滑らかな足場作りが効いています。

・まずはあれですね、値段付けに悩んでいるという記事が意外に面白い。分冊化という話で「これは大長編だな」感も演出。
その悩み方がまた合理的で、しかも「いい人」であることがバレバレ。
ここで、さりげなくサンカ小説という言葉が登場してます。(さりげなくてスルーしてました)

・通常記事としての読書レビューでもサンカ小説に触れ、「何、そのジャンル?」と興味をそそります。
(もちろん、僕は「山窩」という言葉自体が初耳で、ヤマダさんが当たり前のようにその言葉を使っていることに、「俺って無知? やばいの?」感を募らせるわけです)

ちゃんとタイムラインに沿ってブログを読んでいれば、最初のサンカ小説レビューで新作がサンカ小説であると分かるのですが、そこはほら、あっちを読んだらそっちを読んで、というのがブログ読みのお作法で。僕の場合はまず「サンカって何?」から入りましたから。

・で、記事を追っかけていくと、ヤマダ氏の新作がサンカ小説であるという記述にぶつかったわけです。
「あ、面白そう」と思わされてます。

・さらに、その雰囲気を表現するのに表紙画像を作っているという記事でビジュアルでも責めます。(あ、これはほぼTwitterでしたが、苦手な画像処理に一生懸命になっている姿に、僕なんぞもう……)

・そして、リリース告知記事と直後の無料キャンペーン記事。
「読もう」と思っていただけに、じゃ、無料キャンペーン開始前にポチってしまえ!
と、まんまと術中にはまってしまいました。(改訂後なのでご安心を)

今日は、なんのことはない電子書籍ショッピング記事でしたねえ。

僕はいつも新作発表の前には表紙画像について色々とブログに書いていましたが、肝心の小説の内容をロクに告知していなかったなあ、と反省しきり。
同ジャンルの本をレビューして、ジャンル自体に興味を持ってもらうというのも離れ業だなあと感心しました。
値付けもそう。一般的にはKDPで460円(三冊合わせてだけど)というのは《強気》と思われてしまいがちな金額。これを、ブログ読者が納得できるように、悩みながら書いているのがいいですね。しかも、僕の『孤独の王』より10円高いのに、なんだかお得にすら思えてしまう。
この感じ、後の人の参考になりそうですよね。(って思うでしょ?)

あ、最後に紹介しておきましょうね。新潟文楽工房ヤマダマコト氏の新作、『山彦』発売中ですよ!

 

(今回は何の役にも立たなかったかな……。「淡波、これでブログ読者を失う」とはならないことを祈って!)

これは古典だ、傑作だ

牛野小雪さんの新作にして大作『ターンワールド』を読了しました。牛野さんらしく淡々と捩れていく世界にからめ捕られ、仕事で猛烈に疲れていても読むのを止めることが出来ませんでした。
読書中も気持ちは盛り上がり、その世界にどっぷりと浸かり、最後まで気を抜けない作品でした。

“が、”

ただ面白いというのではなく、これを読了した自分と、どう折り合いをつけたら良いのか悩む作品なのでした。作家仲間の新潟文楽工房ヤマダ氏も仰っていましたが、『ターンワールド』は読み手によって全く解釈の変わる作品だと思います。

一言で言えば、《自分(という思い込み)を捨てに行くロードムービー》のような小説です。僕も若い頃、バックパッカーをしていたことがあります。数ヶ月間、テントとギターを持ってヒッチハイクの旅をしたものです。泊まるところがなくて野宿し、野犬(僕の場合はディンゴ)の恐怖に怯えたことも、雨の中、心優しい牧場主に救われたこともありました。だから、主人公の旅が、とりわけリアルに迫ってきました。

でも、主人公が旅に出る先は、不思議に不思議さのないパラレル・ワールド。捩れた旅は、どんどん捩れていきます。
僕は自分のことを“感覚派”だと思っていますが、小説を書いていると、どんどん理詰めになっていきます。アイデアを膨らませたり普通に執筆する時は感覚の命ずるままに、登場人物の喋るままに話が進みます。でも、一旦物語の構成に意識がいくと、まるで理系の研究者のように、何もかも合理的につじつまが合っていないと気が済まなくなり、架空の時代考証やイメージ内のSF考証にやたらと時間をかけたりしてしまいます。きちんと納得の出来る世界を構築できるまでは、どうしても筆を進められなくなってしまったりします。

『ターンワールド』を読んでいて、この手のワナに何度もはまりそうになりました。この作者はこの世界をどうやって構築しているのだろうか、このエピソードの裏には何が潜んでいるのだろう、この不思議な世界の成り立ちはどうなっているのだろう、と。実は、自分の中では牛野さんの提示するこの世界は“こういう事情で出来上がった世界である”と半ば想定しながら読んでいました。SF作家の悪い癖です。(あ、もし僕がSF作家なら、ですが)

ところが、物語は理詰めの解決を見ることなく、どんどん、どんどん、ひたすら先へと進みます。伏線だと思っていたあれこれが、次々に裏切られていきます。あれよあれよという間に物語の終盤が迫り、そして、意外な結末を迎えるのですが、その結末は僕にとって、本来は受け入れ難いタイプのもののはずでした。

しかし、読後感は極めて良いものでした。充実して、感動とすら言える強い感情がじんじんと沸き立ちました。

僕は、芸術作品には2種類しかないと思っています。

観賞し終わって、徐々に心の中での評価が落ちていく作品と、
観賞し終わって、更に評価が上がっていく作品です。

『ターンワールド』は、間違いなく後者の作品です。これは、古典だ。文学だ。そして、傑作です。僕はそう思います。セルフ作家と商業作家という垣根は、もう存在しないのかもしれません。

いえ、最初から存在しないのでしょう。

読者にとっては、ね。

青春小説を読みながら

小説を読みながら、あ、これは自分のことだ。これは自分に向けて書かれた小説なのだ。と思える瞬間があります。
何か、切ないような嬉しいような不思議な感覚になることがありますね。きっと、小説を通して過去の自分と対面することになって、その当時の感覚に対する思いがふっと出て来てしまうのでしょう。
(最近、自分の小説に同じ感想を言って頂いて有頂天になりましたが!)

今、読んでいるのが澤俊之さんの1978という小説。ギター小説というカテゴリーを新設した澤さんのデビュー作440Hzの続編にあたるものです。続編といっても、時間の経過としては440Hzより前、前日譚にあたる物語です。
まだ読み終わってはいませんので、レビューではありません。読書しながら、その時のリアルタイムな感想を書いてみるのも面白いかな、と思った次第で。

ということで、今回はとても個人的な読書中感想の記事になります。

この小説シリーズ、最初に知ったのは2 Years in KDPという、Amazonで電子書籍を販売するためのノウハウ本の中にあった紹介です。作者の澤俊之さんは、440Hzという小説を発表する際に明確なターゲットを決めていました。非常にニッチな客層に向けて書いているように思われましたが、自分はまさにそのターゲットにぴったり当てはまっていました。
ちょっとそのターゲットを引用してみましょう。

440Hzのターゲット層は?
440Hzのターゲット層は?

これを読んだ時、すでに僕は作者の術中にはまっていたのでした。だって、「これって俺じゃん!」と思わずにいられないターゲットでしたもの。実は、これにプラスしてギターを弾いたことがある、というターゲットが別の箇所で触れられていたのです。(ん? これは僕の思い込みなのか?)
よくよく考えると、30〜50代であれば、大抵の人は往年のロック楽曲に触れたことがあるはずですし、読書週間のある方も多いでしょう。可処分所得にしても、商品は300円未満の電子書籍ですから、まあ、値段だけで尻込みする大人はいないかな、とも思われ……。そう、ニッチなターゲットと思いきや、相当なボリューム層が存在するターゲットなのですよね、これって。

そして読んだ440Hzは、とても素敵な青春小説でした。青春時代をギターと共に過ごした中年男性(と、そういう男性と関わりのあった女性も?)には、必ず心にグッと来るものがあるのではないかと思います。文章力もありますし、各エピソードは短く、あくまでも読みやすい中に文学的な響きを持った、まさに《ギター小説》でした。
読み終わった途端、続編の1978を購入してしまったのは無理もありません(!)

さて、肝心の1978ですが、440Hzより意識的に柔らかいお話になっているかもしれません。特に、美味しいもののエピソードが多く、読んでいるとお腹が空いてくるのです。美味しいものの描写っていいですね。食事に対する興味って、古今東西、人間の営みの中で決して変わらないものですから。

440Hzの「あの事件」のことが別視点で詳しく書かれていますので、440Hzを読んで面白かった方には必読の書と言えるかも。

物語の中で頻繁に出てくるのが『紫の炎』『スモーク・オン・ザ・ウォーター』の2曲。カッコいいですねえ、聴きましたねえ、弾きましたねえ、ということで、ここにピンときた方も、一読の価値あり! ですよ。

小説とは関係ありませんが、僕が『スモーク・オン・ザ・ウォーター』を知ったのは1979年のことでした。ちょっと不良っぽい友達から誘われて、ごく短い期間、その友達のバンドにヴォーカルとして入りました。でも、当時の僕はいわゆる天使の歌声(自分で言うな!)みたいなきれいきれいな声で、とてもこの曲を歌えるようなヴォーカリストではありませんでした。(中学生でしたから!)
一応曲は覚えたものの、全く練習もしないで文化祭の校内オーディションに臨み、とても恥ずかしい思いをした記憶があります。落ちるとか受かるではなく、ただ出演順を決めるためのオーディションでしたが。
でも結局、このバンドでステージに立つことはありませんでした。文化祭のためのクラス展示の係になってしまってとても忙しくなってしまったのと、やっぱり声が合わなくて、歌っていても辛いだけだったからです。僕が抜けることを言った時のバンドメンバーの悲しげな顔はしばらく忘れられませんでした。

そんな甘酸っぱい思い出が、1978を読んでいたら沸々と心の表層に浮き上がってきたのです。こんなことを思い出すとは思いもよりませんでした。あ、これも小説の持つ力の一つだな、心を動かす力の一つだな、という思いが、今日のこの記事を書かせたようです。

個人的な、つまらない記事に付き合ってくれてありがとうございます。(あ、前〜中半の内容は参考になることもありますよね!)

ではまた!