Category Archives: 文学

読んでる:マクベス

今週の読書ネタは「マクベス」。
なんでかというと、こういうことでして……。

今回は「映画マクベス」の感想ではなく、原作を読みはじめて感じたことを。

これまで、シェークスピアの作品を本で読んだことはあまりなかった。「ロミオとジュリエット」くらいかな。文庫本で読んだのは。

小難しい言い回しと古びた言葉のオンパレードというイメージがつきまとうこと、そして戯曲であるということが、勝手に《読み難そう・難しそう》と思わせてしまうのだろう。

今回読んでみて(まだ読み終わっていないけど)、そのどれもが食わず嫌いに過ぎなかったということがよく分かったのだ。
ああ、もったいない。
むしろ、読みやすいくらいかもしれない、と思ったりする。
もちろん、回りくどい言い回しやレトリックの数々がすらすらと先に進むことを邪魔したりはするけれど、言ってみればほとんどがセリフ。戯曲だから地の文はないし、情景描写も登場人物の目から見たものと、「幕」の設定を伝える各シーン冒頭の1行か2行のみ。
心理描写が完全にそれぞれの人物のセリフとして書かれているので(当たり前だけど)、それも分かりやすいし。

僕の読んでいる文庫本は昭和44年発行のもの(妻が貸してくれた)。翻訳されたのは昭和36年らしい。
(文庫本の文字があまりにも小さいので、体力的にはとても読むのがつらい。もちろん、電車で読むのは完全にムリ。だから、まだ読み終わらないのですよね。短い本なのに──)
現代語訳だし日本の古典(原典)のような難解さはなく、思いのほか読みやすい。映像を見るように情景が浮かぶのは、正直新鮮な驚きですらあった。

そんな感じで、またひとつ、古典の魅力に目覚めつつある淡波です。
(遅い!)

食わず嫌いな方、いませんか?
今読んでいる本が終わったら、次の候補にどうでしょう、シェークスピアなんて……。

では、また明晩!

読んだよ:牛野小雪著『火星へ行こう、君の夢がそこにある』

牛野小雪さんは嘘つきだよ。
プロフィールを見てよ、書くのが牛のように遅いと言うのだから。
だってさ、待ってくださいよ。去年はしっかりした(?)長さの長編を3冊出しているし、そのうち1冊は大長編だ。今年だってつい先日新作を出したと思ったら、もう次の表紙を作っているという。
そろそろ、プロフィールに書いてある自己紹介を修正した方がいいんじゃないかと、真面目に嫉妬する自分がいる。

僕についてはたくさん出版してるイメージを持っている人もいるようだけど、そうでもない。大長編の執筆には3年掛かったし、去年から今年の年始にかけてサクサクと何冊も出せたのは、ブログの連載をまとめたり、短編だったりしたからだ。
ステディなペースで長い作品をきちんと出し続けている牛野さんと違い、僕の出版ペースはなんと気まぐれなことか。いかんいかん。
まあ、そんなことはどうでもいいとして、どんどん出る、どんどん書けるということは、ファンにとってはとっても嬉しいことだ。
(ご自分では昨年あたり、ずいぶん書けない書けないと「書いて」いたけど、いやあ、むしろコンスタントに書いてますって!)

僕は牛野小雪さんの小説のファンだ。
どんどん書けることに嫉妬はするけど、小説には嫉妬しない。
だって、そもそも僕にはああいったタイプの文学作品は書けないもの。読んで、楽しんで、じわる。単純に、ファンでいられるのだ。

彼の小説は、文学だ。
と、僕は思っている。ときどき、夏目漱石の小説を読んでいるような気がすることがある。褒めすぎだろうか?

そんな彼の初めてのセルパブ作品がSFだったということを、何かの拍子に思い出した。そういえば、未読だった。

『火星へ行こう、君の夢がそこにある』
という作品だ。ちょうどこの冬に話題になった映画との共通性もあって、気になっていた。牛野小雪さんが書くと、どんな話になるのだろう、と。
約3年前の作品だから、くだんの映画とはもちろん何の関わりもない。氏が原作を読んだ可能性も低いだろうと思う。「火星移住モノ」といえば、ジャンルの一つとも言えるだろうし。

SFといえばSFだった。
SFではないといえば、そうではなかった。

いつもの牛野文学が、そこにはあった。いまの作品につながる萌芽どころか、もう既に完成されていた。もちろん、編集が入らないことによる粗削りさは置いておく。脱字もあったし、てにをはのおかしなところや気になる重複表現もあった。だが、それが何だというのだろう(もちろん、直すべきだとは思っている)。

プロの作家が完璧な作品を上梓できるのは、作家と出版物の間にスタッフがいるからだ(もちろん、それを必要としない天才作家もいるけど、それは例外として)。そこに作品の完璧性(誤謬を追放すると言う意味での完璧性)を担保するシステムがあるからだ。セルパブ作家にはそれがない。
──もちろん、僕はある意味、そのシステムの一角を担いたいと密かに思ってはいるけどね。

今回は、「おかしいな」と思った箇所をほとんどメモらなかった。済まんです……。
でもね、それには理由がある。
夢中で読んだからだ。Kindleにハイライトを付けたりする手間も惜しかった。どんどん読みたかった。読むのを止めたくなかった。長い作品ではないといっても、一日で読み切るにはそれなりの量だ。2時間半超はかかったと思う。
その間、夢中でどきどきしながら、じわりながら、読み続けていた。中だるみも、肩透かしもなかった。

特別何も起こらないのがいい。
火星まで行っといて、私小説なのだ。取り立てて文学っぽく飾ろうともしていない。美文でもない。でも、読後感はと聞かれれば、文学作品を読んだ後の感慨と同じなのだった。これこそが牛野ワールドなのだな。

三人称で書かれているけれど、限りなく一人称に近い主人公視点の三人称。だから、主人公の知らないことは書かれていない。書かれていなくても違和感がない。SFにありがちなバックグラウンドの説明もほとんどない。火星開発公団のひとたちから聞いて鵜呑みにしたり勝手に解釈したことが書かれているだけだ。そこにまた、現実っぽさがある。
僕らは何もかも分かって生活しているわけではない。分からないことばっかりだ。

SFとしての考証はきちんとしていない部分があるだろうけど、それは主人公の頭の中で解決していればいい話として納得できる。主人公の知らない技術のこと、間違って覚えている技術のことは、それを作者が正す必要もないのだ。

ああ、こんなSFの書き方もあるんだなあと、氏独特の文章を読み終わって惚れ惚れした。

牛野小雪さんの小説には、裏切られたことがない。
今後もきっと、裏切られることはないだろう、な。
──と期待に目を輝かせて。
(プレッシャーをかけてはいませんよ)


読書/また、戻ってきた

ども。
レ・ミゼラブルの第一部を読み終えた淡波です。
うーむ。やはり名作は読んでおくにこしたことはないなあと、しんみり思い、反省し、嬉しい気持ちにもなっているところです。
前半で「これって無駄だろ」って思っていた記述が、やっぱりじわじわと効いてくるんですよね。

伏線というのではなく(伏線といえるものもあるけど)、どちらかというと人物描写の面で。もうとにかく、丹念に丹念に主要な登場人物の過去、生い立ち、暮らし、言動の描写が続いていました。
「この人はこういう人です」ということを説明としては書かずに、言動をじっくりじっくり長く描くことでシーン全体として描写している。だから、二度と登場しなくてストーリーとは無関係な人物のことも丁寧に描いていたりするのですね。そりゃあ、長くなるわけです。
ストーリー上重要なことも重要でないことも分け隔てなく、その人物の人となりを表現するために必要な要素は全部描写しましょう、とばかりに書かれてますから。
現代の小説が数行で済ましてしまえるようなことを、もう、延々と十ページ以上にも亙ってやっていて、それがストーリーとは直接関係なく、ブツッと終わってしまったり。そして、全然違うエピソードに進んで行くわけです。ずっとそれの繰り返しなんですけど、やっぱり読んでいると、登場人物の人となりが「生きた」ものとしてちゃんと自分の心の中にしまい込まれているんですねえ。

それが、ストーリーの本筋を味わう上で、じんわりと効いてきて。

まだまだ先は長いです。
学ぶことがいっぱいあります。

この作品に限らず、もっともっと読みたいな。
(つーか、物書きのくせに名作文学もロクに読んでなかったなんてね、あかんあかん……)

じゃ、また明晩!

読書/引き続き──

先週、読んでくださった方はお分かりかと思いますが──。
『レ・ミゼラブル』をまだ読んでいます。ようやく第一部の半分を超えたところですが、やはり名作、濃いです。濃過ぎます。

ただ、感じることがあります。
時代の荒波を乗り越えて生き残った名作といえど、やはり執筆した時代というくびきからは逃れられない。ということです。
執筆時より過去の物語なので、そのあたりの歴史描写などもなされているのですが、それを執筆時という《現代》と比較しています。そして、現代の人物や文化と比較したりしているわけです。
これはもう、仕方がない。その時代を知らなければ、作者が何を言わんとしているのかはなかなか理解できないですよね。
古めの名作文学を愉しむということは、歴史であったり文化に造詣があって、その上に成り立つのかも知れません。

僕は歴史が得意ではなかったですし、これからフランスやイギリスの歴史をちゃんと勉強するつもりも(あまり)ないので、とにかく目の前に提示された世界をじっくり味わうだけ、と思いながら読んでいます。

にしても、まあ、固有名詞の多いこと多いこと。今だったら、「余計な描写が多過ぎる!」と言われそうな、物語とはあまり関係のない人物のフルネーム(揃いも揃って長い!)、職業や官位が延々と書いてあったりします。これ、詳しいひとならそれだけで楽しめる内容なのかも知れませんが、知識ゼロの読者には辛いなあ。
でも、それを延々と読むことで、時代の空気なり、様々な登場人物の行動原理に納得できるのですよね。

まだまだまだまだ、先は長いです、この作品──。
こんな話ばかり書いていても仕方ないので、来週は別の読書の話題もしたいものですが……。

じゃ、また明晩!

読書/今読んでいる本

水曜日は読書の日。もとい、読書について書く日。にしてます。

さて、今週は読み終わった本が何もないです。本当はここでバーンと、あの本のことを書く流れなんでしょうけど、その前から読んでいる長い長い本があって、まだ読み始められない状態です。
もちろん、今はどこを見ても「あの本を読んだよ」という話が載っているので、敢えて時期を外そうかしら、というのもありますが……。

で、今読んでいるのはこれ。


これね、ちょっと注意が必要なんですよ。
「04」となっているのは、この前に三冊も別の本があるからなのですが、「01」が要注意です。
訳者の方が書いた『レ・ミゼラブル』の完全な粗筋が書いてあります。「この物語は、こんな内容です」なんて、書いてあります。
もちろん、大ざっぱな筋は誰でも知っているでしょうし、今さらネタバレだからどうのという性質の作品でもありません。文学ですし。
でもねえ、読み始めて、いきなり序文で結末まで書かれるのは、気持ちのいいものではないですよね。

ということで、まだ、第一部の四分の一ほどまでしか読んでいません。ようやくジャン・ヴァルジャンが出てきたところ。
文庫本にして千ページ以上ある作品なので、いったい、いつまでかかるやら……。

ま、そういうことで!
(来週も読み終わっていないのは間違いない……何を書こうかなあ……)

読書の愉しみ、二つの連載小説

僕は今、毎日2種類の連載小説を交互に読んでいる。知っているひとは知っているかもしれないけど、ある新聞の連載小説だ。

これが、あまりにも対照的で面白い。かたや、小説を読む喜びに満ち溢れたとってもすてきな純文学作品(仮にAとしよう)。一方もう一作は、エンタメ系風なのか文学風なのか分からない顔つきだが、ストーリー展開がすべてで、文章の味わいは置いてきてしまった、ようなもの(仮にBとしよう)。いや、きっとそうではないんだけど、僕にはそう感じられてしまう、もの。

Aのストーリー:200字に要約するのは難しい
Bのストーリー:簡単に要約できそう

そもそも、

A:要約してもその良さが伝わらない
B:要約を読めばだいたい内容が分かる

そんな調子だ。

A:いつ読んでも、どんなお話でも、楽しめる。味わえる。先も気になるけど、お話としてはいつ終わっても納得できる
B:物語が動いている時だけは面白い。説明や描写が気取りすぎだったり定型的過ぎたりして、筋に直接関係ない文章は楽しんで書いていないように感じてしまう

面白いのが、挿し絵も不思議と対照的なのだな。

A:味わいがあるが、うまい絵ではない。主に心象風景が描かれているから、何の絵なのか気にしなくても味わえる
B:その日の話の1シーンを切り出して、克明にリアルに描いている。だから、それ以上でもそれ以下でもない

だからどうだっていう話でもないんだけど、創作しているあなたは、どっちを目指したいですか?
AとBはどちらも超有名作家さん。きっと、同じくらい売れているし、評価も高いし、ファンもたくさんいる。だから、僕の読み方が単に穿ったものなのかもしれない。

《ハリウッドのアクション映画VS単館上映の芸術映画》
そこまでの違いはないし、当然、ハリウッドのアクション映画の中に芸術的な味わいを持つものがある。
Bの中にも、美しい描写(風のもの)があるし、行間を読ませようとしてる表現もなくはない。でも、僕の心には何にも引っ掛からないんだな。それでも、話の先が気にはなるから、読まずにはいられない。なんか、ゲーム的?
Aはね、一行読んだだけで不思議な幸せ感が流れ込んでくるんだ。ああ、今日もこれを読んでよかった、って。

別に、芸術家気取りになってるとか、文化的云々とか、そんな積もりは全くないんだ。ただ、話を追うためだけに小説を読むのは淋しいし、そういう読まれ方しかしないような物語を紡ぐのは嫌だな……。そう、作者サイドからもそう思ったという話。
僕は、実を言うと伏線てのがあまり好きではない。凄いなぁと思うこともあるし、それが感動に結びつくことも(稀に)あるけど、多くの場合はその巧んだ姿勢に醒めてしまう。あ、そ。と思ってしまう。あ〜よく考えたね、凄いね、って。
だから僕には、凝りに凝った構成のお話は書けないし、ミステリー作家には向いていないだろうなぁと思う。読者にそこまでを含めて味わってもらえる自信がないし。

テクニックはなくても、読んでいて楽しく、せつなく、かなしく、嬉しくて、美しく、醜くて、胸に突き刺さるものがあり、お腹の奥にずーんと残るものがあり、いつまでもその空気に浸っていたくなるような小説を、僕も書いて行けたらいいな。(贅沢過ぎるかしら?)

日々そう思わされる、この二つの読書なのです。

じゃ!

『それから』を読了

書き込みが遅れましたが、漱石の『それから』を読了しました。例によって、何が起こるのか分からないまま何も起こらないような気がして、ただその文章と表現を味わうように読まされ、気が付いたらワナにはまっている。そんな物語の構成でした。
そして、終盤にかけて怒濤のように盛り上がり、結論なく突然終わります。この終わり方、これぞ文学の余韻というやつでしょう。ハリウッド映画に慣れた脳みそに納得させるのは難しいラストシーンです。これを尻切れトンボ的なラストと思ってしまうのか、余韻に浸れるのかというところが、昔の純文学を楽しめるかどうかの別れ道なのかもしれませんね。

三四郎ーそれからー門、で初期三部作といいますよね。どれも恋と愛が主題なのかなと思いますが、主人公の年齢が少しずつ上がり、片思いー不倫ー夫婦、と男女間の心のかたちが変化します。登場人物は一切関わりがなく、三作は全く別の話ですが、後の人が初期三部作と分類したがるのも何となく分かります。(素人がこんなこと書いて、研究者のかたに怒られそう!)

さて、読みながら気になった、気に入った表現をKindleでクリップしておいたので、ちょっと引用しましょう。

“三千代は美くしい線を奇麗に重ねた鮮かな二重瞼を持つてゐる。眼の恰好は細長い方であるが、瞳を据ゑて凝と物を見るときに、それが何かの具合で大変大きく見える。代助は是を黒眼の働らきと判断してゐた。三千代が細君にならない前、代助はよく、三千代の斯う云ふ眼遣を見た。さうして今でも善く覚えてゐる。三千代の顔を頭の中に浮べやうとすると、顔の輪廓が、まだ出来上らないうちに、此黒い、湿んだ様に暈された眼が、ぽつと出て来る。”

― 女性の美しさを描写するために、参考になるかな、と思いました。美しいという言葉を使っていますが、三千代を美しいとは言っておらず、「二重瞼の線」が美しいと言っています。特別美しいとは言っていないのですが、主人公の代助がこの女性に対して持っている感情を端的に表しているのかなあ、と。

“昨夕の夢を此所迄辿つて来て、睡眠と覚醒との間を繫ぐ一種の糸を発見した様な心持がした。”

― 夢とうつつをつなぐ…うつくしい表現ですね。

“夜、蒲団へ這入つて、好い案排にうと〳〵し掛けると、あゝ此所だ、斯うして眠るんだなと思つてはつとする。すると、其瞬間に眼が冴えて仕舞ふ。しばらくして、又眠りかけると、又、そら此所だと思ふ。”

― その、睡眠と覚醒の境界を見届けよう、という気持ち。視点が面白いですね。

“気に入つた家へ這入らうと思へば、株でも遣るより外に仕様がなからう。此頃東京に出来る立派な家はみんな株屋が拵へるんだつて云ふぢやないか”

― 儲けているのは株屋ばかり。今の時代と同じ!

“日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて、一等国を以て任じてゐる。さうして、無理にも一等国の仲間入をしやうとする。だから、あらゆる方面に向つて、奥行を削つて、一等国丈の間口を張つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。其影響はみんな我々個人の上に反射してゐるから見給へ。斯う西洋の圧迫を受けてゐる国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、さうして目の廻る程こき使はれるから、揃つて神経衰弱になつちまふ。話をして見給へ大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考へてやしない。考へられない程疲労してゐるんだから仕方がない。”

― ちょっと長いですが、時代に対する考察が、今の時代ととても共通した空気を感じさせますね。

“日本国中何所を見渡したつて、輝いてる断面は一寸四方も無いぢやないか。悉く暗黒だ。”

― 夏目漱石の時代、日本史の知識が全くない僕は、海外の文化が押し寄せて西洋化がどんどん進み、誰もが訪れつつある自由な時代を謳歌しているようなイメージでした。こんなに行き詰まった時代だったんですね。今みたいに。

“茫然と、自分の足を見詰めてゐた。すると其足が変になり始めた。どうも自分の胴から生えてゐるんでなくて、自分とは全く無関係のものが、其所に無作法に横はつてゐる様に思はれて来た。”

― 今度は面白い表現です。別の本であった、「ある字をずっと見ているとその字には見えなくなってしまって困る」というのがありました。これ、よく分かりますね。そんな感覚を自分の足にまで感じるなんて、この感受性の鋭さ!

引用したい表現はもっともっとたくさんあるのですが、長くなり過ぎるので、今日はここらで終わりにしましょうか。

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三四郎と速読(?)

読了しました。なんて切なくてやるせないんでしょう。これが、若き日の片恋というものでしたね…。ずっと長いあいだ、忘れてました。この感じ。

あまりに無知でした。漱石が恋愛小説(と言ったら怒られますか?)を書いていたということを、まったく知りませんでした。

『門』や『こころ』もそうと言えばそうなのですが。

三四郎って、柔道の話だと子供の頃から思い込んでいました。

愚か者です。反省。

読めば読むほどに目の前が開け、文学というものを知らぬ自分が恥ずかしくなる。ずっと読みますよ、このまま。

『創作家の態度』と『三四郎』の読了報告が続きましたが、投稿が遅れただけで、三四郎には一週間かかっていますです。

石田衣良さんが、Youtubeで配信されていた小説教室で仰っていました。

「小説家になりたかったら、各ジャンルの本を千冊ずつ読みなさい」と。

「一日に2〜3冊は読めるでしょ」とも。

僕は本を読むのが早くはなく、読む時間も限られていますので、大体の本は二週間前後かかります。それでは千冊読むのに四十年です。「小説家になりたい」という表現の是非と僕自身の態度は一旦片隅に置いておくとして、四十倍の読書スピードが可能かどうか分かりませんが、少し、早く読む練習を始めました。

その最初の結果が、『三四郎』の一週間。いつもはどうしても朗読するようなスピードで読んでしまいますが、今回はひと眼で十文字前後を見て、次へ行く。という読み方をしてみました。難しい表現のところはぱったり止まりますが、会話文や平易な表現の地文はどんどん先へ進めました。内容も以外と分かっていたかも。でも、ゆっくり読む時ほど味わえていないのではないかとは思います。文学を読むのに味わわないというのは犯罪的かもしれませんが…。

明日からは、『それから』を読みましょう。

『創作家の態度』について、少しだけ

漱石の『創作家の態度』を読了。

明治41年の講演です。時代なのか、留学帰り(七年後ですが)だからなのか、講演の中に英語がチラホラと出てきます。

それも、普通のひとが耳で聞いても理解できないようなラテン語起源のような難しい単語を、何の説明もなく使っているんです。欧米文化がどどっと入って来て、一般の人もそんな難しい単語を知っていたのか、それとも漱石が観衆を煙に巻いて喜んでいたのか…。

主観と客観、自然派と浪漫派、それぞれだけでは成り立たない。それぞれの中に相対するそれぞれがある。そんな話、と解釈しました。ちょっと読みづらいですが、ためになりました、よ。

今度は『三四郎』を読み始めました。