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シミュレーション趣味レーション

微妙な日本語英単語について書くのも3回目になりますね。
これ、書いていて結構面白いので、今後もシリーズでいきますよ。

初めて来た方が迷子にならないように、第何回とかは入れませんが、ね。

さてさて、今日のテーマはこれ。

Simulation

今どき、間違えて覚えている人はいませんよね?
──よね?

「シミュ」という語感が日本語にはないからだと思いますが、昔からこの言葉、シュミレーションと言う人が多かったですよね。
(そう書く人もまた、多かった)
やはり日本語としての言葉がたくさん存在する「シュ」のほうが言いやすいから、何となくそう覚えてしまったり発音したりしてしまうのでしょう。

英単語の綴りを見れば、もうこれがどうやっても「趣味レーション」とは発音できないことが分かるはず。

もしも間違ってた人、曖昧だった人、今回の記事で覚えましょうね。

Simul(サイマル)で、「同時」とか「一緒」という意味があります。
Simultaniously(サイマルテイニアスリー)と言えば、「同時に何かが起こる」ということです。
Simulationと綴りが似てますね。意味もそうです。

何かを模して何かをする。ということは、既に何かが存在していて、それを同時期に真似ようとして行なうことですものね。

「シミュ」か「シュミ」か悩んでしまった時は、言いやすさで「趣味」。
じゃないですよ!

サイマルと同じだから、シミュだ!

ね、これであなたも絶対忘れないはず。

じゃ、今日はそんなところで!

外来語って難しいよね……

クリックすると検索結果に飛ぶので、日本語と英語の発音も聴いてみてね!
クリックすると検索結果に飛ぶので、日本語と英語の発音も聴いてみてね!

……っとまあ、こんな画像で始まった本日の記事なんだけど、最近たまたま、仕事でもプライベートでも、この言葉を続いて使う・聞く、機会があったんだ。

Teaseという言葉がもとで、これは「いじめる」「ちょっかい出す」「じらす」というような意味。発音としては、「ティーズ」で、真ん中は長音。アクセントは「ティー」にあるから、雰囲気としては結構伸ばす感じになる。

Teaserという言葉があまり日本で知られていなかった頃から、たまたま僕はこの言葉を知っていて、「ティーザー」とカタカナ化していた。以前は、ティーザーと言っている人も多かったんじゃないかと思う。
ところが、それがだんだん一般化してくると、言いやすいように短く変化していったみたいなのだよね。

今、仕事場で飛び交っている言葉は「ティザー」。
「ティザー・サイト」とか、「ティザー広告」のような熟語にするには、確かに真ん中を伸ばさない方が言いやすそうだ。
だけどもうきっと誰も、Teaseの語感のイメージを持っていたりはしていない。
僕としては、ティーザーという言葉の持つ「もったいぶってチラ見せする」イメージが好きなんだけどなあ……。

もしかしたらそのうち、ティーザーという言い方は「間違い」ということになっちゃうんだろう。
間違いじゃないにしても、
「何気取ってんの、こいつ」
「何? 外人気取り?」
みたいな顔をされるのが目に見えている。
(いや、もちろん、巻き舌はしないよ。しないから!)

今のところまだ、WEBの検索結果では真ん中を伸ばす「ティーザー」が優勢のようにも見えるけどね。

これは、「ティーザー」でなく、「ティザー」で検索した結果。
これは、「ティーザー」でなく、「ティザー」で検索した結果。

あなたはどっち?

そんなこと、どっちでもいい?

じゃ、また明晩!


今日の紹介は、この本かな。
(直接関係ないけど……)

主人公佐山哲夫は、就職内定後にM&Aで世界的な工業食品コングロマリットに買収された陽山食品工業に就職した。
俺は知ってるんだ。本当に旨いものなどもう、──少なくとも外食産業や一般に流通している食材を見る限り──どこを探したって見つからないってことを。
ある小さな事件をきっかけに、佐山は自らの目に見えていた世界が、本当の世界ではなかったことに気付き始める。

記号としての表現、生身の描写

約一ヶ月前に、乾布摩擦についてちょっと書いてみた。それは、その一ヶ月ほど前にTLで少々話題になっていたからだ。ある小説の登場人物に、乾布摩擦をさせるシーンを入れると面白いかどうか、みたいな話だった。
僕は自分が乾布摩擦をしているので、何か気の利いたコメントをしようと思ったのだけれど、残念ながらその小説をまだ読み終わっていなかったので、登場人物のイメージがよく分からなかった。で、そんな僕がコメントするのもなんだか失礼な感じがしたので、そのままになっていたんだ。でも、やっぱりなんか乾布摩擦のことを書きたくなって、ひと月前の記事を書いた。

誰かが、何か楽しげなコメントをしてくれるかな、なんて思ってさ。

でも、誰からもコメントはなかった。記事へのアクセス数はいつもと同じくらいだったし、誰にも読んで貰えなかったわけではないのに、である。

それはどうしてだったのか、自分なりに考えてみた。

あの時、Twitter上で話されていたのは、決して《本当の乾布摩擦》ではなかった。それは、乾布摩擦をやるひとのイメージについてだ。だから、乾布摩擦をやると身体が温まるとか、風邪を引かないよ、とか、そんなことはどうでもいいのだ。
それは、物語の登場人物の小道具としての、記号としての乾布摩擦だ。

小説を書いていると、そういうことが多分、いっぱいある。

言葉のイメージが小説の小道具として作用すればいいのだから、その事象を自分が詳しく知っている必要も、とりわけ興味がある必要もない。

が、
そうではない表現をしたいな、と思うこともある。

もちろん、小説に出てくることを全部実体験で書くなんて、純文学以外では無理だろう。
特にエンタメなんかを書いていたら、もう、出来事の大半は想像力を膨らませて書くしかないのだし……。
と、ぐるぐるぐるぐる──。

まあ、考え始めるときりがないんだけど、ね。

記号に血肉を与えるべく、生身の描写をすべく、いろいろと体験したり、読んだり、見たり、触ったり、知ったり、したいよね。
という、今夜の話でした。

では、また明晩!

詩(これは散文だな)/思い込みでいい


詩を書いているとき

自分が、
詩人になったような気がする
ことが、

たまあに、
ある

小説なんかを書いているとき

もう、
自分がいっぱしの小説家先生に
なったような気がする
ことが、

ときどき、
ある

とっきどき、
だよ

でも
書き終わったとき
そんな気持ちは
どこか見えないところに

ぜーんぶ
逃げていってしまうよ

たまに、
絵を描いているときは

ただ、
無心に描いている

絵描きになったような気は
したことがない

歌なんか歌ってるときは、
ただ、
一生懸命、
上手に歌わなくっちゃと、
何かに追われている

でも、
楽しまなくっちゃね、
好きなんだからって、
自分に言い聞かせてみたり

冷静に、
ここをこうやって直さなきゃって、
思ったりする

それでも、
好きで好きでしかたがなくて、
下手くそで泣きそうになっても、
やめることだけはできない

それでも、
いいよね?

怖いものを知ってると
自分の姿がよく見えてしまうんだ

見えないほうが
知らないほうが
らくちんなことだって多い

周りが見えないだけで、
そう思うだけで、

それでもいいと
思うことがあっても

それではだめだと
思うことがあっても

ときには

それでもいいと
思うことにしよう

──ね?


淡波ログに掲載した作品を中心に書き下ろし作品を加えた初の詩集『猫になりたい』。

乾いた心にするりと忍び込む、読みやすい詩編を多数収録しています。

作家は透明な存在であるべきか、色付きの存在であるべきか。

ああ、素人作家が大きなこと言ってるよ、と、
笑いながら読んでくれれば嬉しい。かな。

色のない作家の作品など、誰も寄り付きはしない。
人間味、人間性、正直さ、真っ当さ。
非人間味、非人間性、大嘘つき、悪らつさ、計算高さ。
見栄よりも、明け透けな個の開陳。
裸の個性。
頭脳と感性。

出来事にプラスされる、それらの要素──。

作家の個性の透明度はどのくらいだと良いのだろう?

アイデアなど、どうでもいい。とは言わない。
でも、
本当に個性的で誰にも思いつかないようなアイデアなんて、
そうそうありはしない。
それを追い求めることも必要だけれど、
それがなければ書けないなんてことは全然ない。
決してない。

大事なのはアイデアではない。と思っている。
そのありきたりなアイデアを、
作家というフィルターを通した時にどんな素敵な物語に昇華できるか──。
そういうことなんだろうと思う。

誰の目で読んでも、小説の文字は一緒だ。
でも、心に残る内容はそれぞれ違う。
誰の目で見ても、世界の出来事は一緒だ。
でも、その出来事が意味していることは、幾通りも幾通りもある。
それこそ、無限にある。

三題噺のように、取っ掛かりだけを用意して色んな人が書けば、当然全く違う物語が生まれるだろう。
でも、完全に同じ内容を書いても、
出来上がる物語は作家によって全く違うものになるだろう。
同じ内容なのに、
喜劇になり、
悲劇になり、
テーマも全然違ったり。
長さもまちまちだろうし、
本当に同じ内容を書いたのかすら、
分からないものも出来上がるだろう。

それが、たくさんの、
いろいろな個性の創作家が存在できる理由なのだ。

美術も、音楽も、文学も、舞踏も、ゲームも、創作と名のつくものは全て、
表現者の個性によって初めて魅力が与えられるものなのだろう。

(今日は散文だか詩だか分からない、変な記事だった──)

じゃ、また明晩!
(いよいよ、新連載開始か──!?)

執筆モードを切り替える─2

ショートショートを書くにはモードチェンジが必要だということに気がついた。
それが昨日の話。

では、どうやって?
それが、今日の話。課題はたくさんある。

・ショートショート独特の雰囲気はどうやって出す?
・粗筋にならずに短く収めるってどうやるんだ?
・セリフをなるべく書かないで人物同士のやり取りを表現するにはどうしたらいい?

答えを言えば、簡単だ。ようは、書くしかない。
書いて、失敗して、書いて、自分でスキルを獲得するのだ。

ネタフォルダをじっくり探索した。ここ何年かで書き溜めた無数のネタの中で、SFショートショートになりそうなものをピックアップする。
(あ、《無数》は誇張ですよ、念のため)
おあつらえ向きなものが、とりあえず2本あった。
頭の中で流れをざっくりと考える。

具体的にルールを決めてみる。

・多重の形容はしない
・セリフはできるだけ書かず、地の文で表現する
・説明はしない
・固有名詞、美的な描写はできるだけ省く

よし、書くぞ。

朝、電車で書き始めた。するする書ける。よし、良い調子だ。朝だけで半分、帰りの電車で半分。今度は正しい書式に流し込んだ時にがっかりしないよう、努めて短めに仕上げる。
家に帰り、Hagoromoに流し込む。数行オーバーしているが、推敲で充分に削れる範囲だ。

読み直す。案外削れるところがない。数行ってのは、結構厳しいと考え始める。
形容詞を削る。描写を削る。ストーリーがちゃんと伝われば大丈夫、と思い、肉付け部分をこそげ落とす。
1時間半ほどの格闘で、何とか収まった。時計は1時半。もう寝なきゃ、と作業を終える。

しかし、面白いという確信が全く持てない。自分のスタイルではない、肉付け部分を削った淡波文体に、果たして魅力があるのか? と自信がなくなる。いや、もともとない自信が、更にシュリンクする。

仕方がない。初めて何とか文字数に収まるものが書けたというだけなんだから。そう思い直し、次の日、また別のアイデアで書き始める。
その日は電車で書けるポジションをなかなか確保できず──つまり満員でiPadを構えることもできず──、途中までで終わってしまった。仕事で疲れてたしね、そうそう毎日書き続けられない。

そして床に入る。
ふと、新しいアイデアが降りてくる。メモりたい。でも寝たい。そこで考えた。
本当に面白いアイデアだったら、絶対忘れない。朝起きて、覚えていて、しかも面白いと思えたら、昨日の話は置いといて、先に書いてみよう。って。

何となく、昨日の話を書いている途中で、勘所がちょっとだけ掴めそうな感じにもなっていたし──。

朝、覚えていた。面白くなりそうだという感覚に嬉しくなる。脳が書きたい気持ちでいっぱいになり、興奮している。
電車に乗り、新しい話を書き始める。
どんどん書く、帰りの電車で書き終わる。家に帰り、流し込んで、文字数を調整する。また、数行溢れていたけれど、頑張って削る。

4度目の挑戦でなんとかいい形になり、ショートショートを書くのがだんだん面白くなってきた。
まだ、どうやったら上手く収まって面白く収斂させられるのかは掴めていない。もっともっと、書き続ける必要がある。
でも、こうやって目的を持って書いていると、ちゃんとそのモードが自分の中に入ってくるということが、自分の中で自信になりつつあるかもしれない。

書いたものが面白いかどうかは、読んだ人にしか決められないんだけど、ね。

では、
この記事がいつか誰かの役に立ちますように!

執筆モードを切り替える

長編、短編、お伽話。
ここ何年かで僕が徐々に獲得してきた執筆モードだ。
今、ショートショートのモードを手に入れるべく、格闘している。

星新一賞に応募するための作品を書いた時は、短編執筆モードだった。文字数制限が10,000字だったから、これまでの短編のやり方で大丈夫だったからだ。結局はなかなか10,000字に収まらなくて相当苦労したけれど、まあ、それでも何とか書き上げることはできた。

群雛の増刊号でSFショートショートの賞が創設されると聞いて、僕はピクリときた。応募してみたいなと思った。でも、応募のレギュレーションを読んでびびった。

・45字×20行を1ページとして、4ページまで

これは、僕にしてみればとんでもなく短い制限だ。文字数にすれば3,600字で、今まで書いてきた短編(しかも短い部類)の3分の1しかない。
ちょっと考え方を変えて、とにかく短く書いてみようと思った。
全編クライマックスの連続で、だれるところが一切ない、説明も描写もない、盛り上がりだけのショートショートなんてどうだろうと思って書き始めてみた。ちょうど、短編〜中編向けのアイデアで向いていそうなものがあったのだ。

電車で書き始めた。
説明を省き、どんどんどんどんクライマックスだけを書いていった。ん、面白いな、こういうの。と思いながら、1日目を終えた。その時点で約2,000字。筋としては多分、全体の半分弱だ。ちょっと長いけど、まあ、削ればいいだろうと思った。

家に帰ってHagoromoに流し込む。書式を45字×20行に変更すると……、あれ? 既に5ページ目に入っているじゃないか。ストーリーの半分弱なのに、文字数はもうオーバー。

何でだろ? と考えてみた。

そうだ、20行で1ページを4ページまでということは、たった80行だ。文字をびっしり埋めれば原稿用紙8枚分の文字量だけど、改行の多いスピーディーな展開では、原稿用紙4枚分しか書けないのだ。
しかもタイトルとエンドマークで4行取られてしまえば、そこで5%は消えている。物語の転換部では空白行を入れたいし……、と考えていくと、内容は70行程度だろう。短いセリフの応酬を数回入れると、もう数分の1は埋まってしまう。

と、考えたところで撃沈だ。
この話はショートショートに向いていない。そう思って諦めた。だって、まだまだ書きたいことが山のようにあって、イメージは膨らむ一方だ。これを無理やり短く収めたって、誰も楽しめない粗筋にしかならないよ。

そうだ。

ショートショートってのは、今まで僕が書いてきたものと根本的に違うのだ。

モードを、切り替えなければいけないのだ。

(明日へ続く!)

文体と作風

《文体》っていう言葉をよく聞くけど、これは他の芸術における《作風》とはちょっと違うのかな、と思っている。
そうそう、文体と作風ってのは似ているようで別物なのだろうかな?

例えば、「美味しそうなりんご」。
これを、「美味しそうなりんご」という言葉を使わずに文章で表現しろと言われれば、きっと、人によって千差万別の書き方が生まれるだろう。
だけど、「りんご」自体の書き方は、漢字・カタカナ・ひらがな・英語、せいぜいフランス語止まりで数種類しかないだろう。日本語の文章の中で、日本人が共通認識として理解できる表現としては、ね。

そこが、きっと文学という芸術の特殊性なのではないかな、と思う。

しかも、だ、電子書籍に限って言えば、書体も色もそのサイズも、何も決めることができない。読者の環境によってさまざまだから、青くて硬い書体で「りんご」と書こうが、赤くて優しい書体で「りんご」と書こうが、読む人には関係ない。まあ、ある場合もあるけどさ。
だから、文章で個性を出そうと思ったら、内容で差をつけなければならないわけだ。

美術で考えてみる。
「どんな」と言わなくたって、「りんご」は多種多様なものになるだろう。それこそ、技術の巧拙も含めて、全く同じりんごの絵にはなかなか、いや、決してお目にかかれないだろう。
ある程度上手い人に対して画材を指定し、どんな風に見えるかを指定し、描き方すら指定しても、同じりんごには決してならない。
“ある程度”上手い人の絵は“ある程度”似てくることがあるけど、それを超えた人たちの絵はまた異なってくる。それが、自分の画風を獲得するということでもある。

音楽もそう。
もちろん、同じ楽器を使えば(特にデジタル楽器)、ある程度似た表現にはなるだろう。が、まあそもそも音楽でりんごを表現することはできないから、比較するとすれば歌になるのかな?
(インストの音楽で「りんご」を感じさせるように表現するのは至難の業だろう)
歌は、それこそ人それぞれだよね。声が全く同じ人は一人としていないし、元の声が似ていたって、歌い方、声の出し方、音程……、もう、全然違うものになるための要素が山ほどある。

そして、文学だ。
文学では、りんごを書かなくてもりんごを感じさせることができる。りんごについて書くことができる。
でも、直接「りんご」と書いてしまうと、そこには個性も何もない、誰でも同じになってしまう。
そこが一つの、文体作りのヒントなのかもしれないね。

作品によって、それを表現するための作風によって、それを書く文体をコロコロ変えられる天才みたいな作家がいる。作風と文体は密接にリンクしているけど、イコールではなさそうだ。
(ああ、文学を学んだ人に笑われそうだな──)

僕の文体は、どんな話を書いてもそうそう変わらないような気がする。そんなに器用じゃないしね。でも、作風は、書くジャンルによっていろいろ変えられるような気もする。
(まあ、ハード風のSFと童話を同じ作風では書けないよね)

素人作家が自分の個性を確立していくために、文体を作っていくことはとても重要なのだろうなと思う。でも、それをどうすればいいのかは分からない。
(ああ、文学を学んだ人にとっては「基本のき」だったりするのかな? いや、それはきっと、永遠のテーマなんだろう。美術や音楽だってそうだもの)

書き続けて、読み続けて、書き続けて、直し続けて、また読んで、書いて、書き続けて……。そうやって少しずつ、自分のスタイル(=文体)を獲得していくのだろうか、な?

そうだ、美術における画風とか、音楽における作風なら、僕にも少しだけ分かることがある。
とても若い頃、それは作るものではないと思っていた。
「そういう風にしかできないから、それがその人の作風になる」
そう思っていた。

だけど、それはそうじゃない。
上手い絵を描けば描けるけど、一見下手な絵を描く人がいる。それはなぜだろう?
目立ちたい?
人と違うものを描きたい?
────いや、それはちょっと違う。

自分の表現したいものは何か?
どうやって描いたら、自分の表現したいものに近づけるか?
それは、そのスタイルは、《今まで自分が好きになったもの》、《触れてきたもの》、《考えたこと》、そういったことの全てが、自分の心の奥底に働き掛けて、生まれてくるものなんだと思う。
いや、自分で生み出していくものだと思うんだ。

待っていても勝手に自分のスタイルは出来上がらない。
だからと言って、闇雲に「こうしよう」と思っても自分らしさが欠けてしまう。
そういうものだ。
それは、自分の心とずっと対話し続けて、《目指すもの》と《できること》が一致した時にこそ生み出せるものなのかもしれない。

誰の役にも立たない、困らせるだけの記事──。
だったかな?

じゃあまた明晩!

《様々なかっこ》

(括弧)全角半角、「カギ括弧」『二重カギ括弧』〈アングル括弧〉《二重アングル括弧》<これは括弧ではないけど強いて言えば括弧>【黒レンチキュラー括弧】〔甲羅括弧〕[四角括弧]{カーリー括弧}などなど……。

括弧にはいろいろあるよね。

あ、名称は適当だ。変換の時に出た英字の説明を、勝手に訳しただけだから、さ。
で、さて、それぞれの用途はどんなだろう?
(もちろん、ちゃんと調べてはいない。正解が分かっていたらいろいろ考えるのがつまらなくなっちゃうから!)

普通の括弧とカギ括弧は説明不要だよね。
『二重カギ括弧』も、用途はだいたい決まっている。
1.『特別な固有名詞・本や歌のタイトル』など、タイトルっぽいもの
2.『引用したセリフ』

最近僕が多用しているのが、これ。
《二重アングル括弧》
基本的には、目を留めてもらいたい固有名詞、地の文とは区別したい固有名詞に使っている。こういった言葉に『二重カギ括弧』を使う人もいるけど、どうもしっくり来ないんだな。
で、《これ》。言葉の浮き上がり方とか、括弧のフォルム自体も好きだな。

<これは括弧ではないけど強いて言えば括弧>【黒レンチキュラー括弧】
この二つに関しては、項目立てとか記事タイトルが多いのかな?
前者の<>は《大なり小なり記号》であって括弧ではないから、縦書きには対応できない。これは注意点。
半角の<>とも言える<>は縦書きでも出るけど、これは電子書籍を作る人はあまり使わない方が良い。

だってこれはHTMLやXMLなどのマークアップ言語で使うタグを囲む記号だからね。
もちろん、<>を本文中に使うためのテクニックもあるけど、間違いやすいから詳しいひとや特別な場合以外は避けるべきかな。なにしろ、文章をEPUB化するときにエラーの温床になってしまう可能性が大きいから。

〔甲羅括弧〕[四角括弧]{カーリー括弧}
これらは小説ではあまり使わないかな?
英文で使われることが多いこれらの括弧には、どちらかというと理系のイメージがある。だから、生物の分類だとか学術的な表記に使うとイメージが合うよね。
あとは用語の解説とか、注意書きとか、かな。

最後に、半角と全角の注意を書いておこうかな。
(別に改めて書くようなことでもないけど)

日本語と英語ではベースライン(=文字の下端と考える位置)が異なるから、日本語の文章に半角の括弧を使うと美しくない。アルファベットは日本語で考えたときの文字の下端を突き出た文字があるのだから。

(alphabet):文字と括弧、いずれも半角。pはベースラインを突き出している。文字と括弧のバランスが良い。
(アルファベット):半角括弧に全角日本語。括弧が下がって見える。
(アルファベット):いずれも全角。文字と括弧のバランスが良い。
※もちろん、書体によってもバランスは変わる。この例だと、え? 変じゃないよ、って思う人がいるかもしれないけど……。

これはあくまでも私見だけど、皆さんはどうやって使ってる?

では、この記事がいつか誰かの役に立ちますように!

それは詩じゃない?

“こんなん詩じゃないだろ”

そう
思われている

そう
言われている

あるとき、
高名な詩人の朱入り原稿を見た

ほとんどの言葉を
幾度となく書き直してあった

それがほんとうに
心の奥底から
浸み出してきたものであるなら

そうまでして
言葉を選びなおす必要が
どこに存在するのか

そうやって
紡ぎ直した言葉の
どこに心が存在するのか

私には自信がない

技術を凝らせば
もっと整った
もっと見栄えのいい
もっと文学的に感じる文章に

きっと
練り上げることができるだろう

もっと簡潔に
もっと美しく
もっと読者を悩ませる文章に

きっと
練り上げることができるだろう

私には
それはできない

それが
私だ