Category Archives: つれづれなるままに

で、どうして最近の淡波は詩ばっかりなのか? -2

《前向きなほうの(?)理由》
そうやって公開したそれらの詩は、ちゃんといつものアベレージ程度のビュー数を稼いでくれた。ちゃんと、一見さんを招き入れてくれていた。
しかも、これは《日々の何となく》を書いただけの記事じゃなく、これを気に入ってくれれば小説作品の購読にも繋がるかもしれない記事だ。

これは、ひょっとして一石二鳥なんじゃないか?
そう思ったとしても不思議はない。

そう、僕は気が付いた。
これは、作品だ、と。

《詩》といっても、多くは歌を書こうと思って途中まで書いた歌詞だったりして、《詩》を書こうと思って書いたものはあまりなかった。
だんだんそのストックも減ってくると、新しい記事を書く必要性が生じていた。

そうだ、じゃあ新しい詩を書こう。そう思った。どんなにまともな状態の思考ができないくたびれた脳味噌であっても、詩なら書ける。
詩は、頭で書くんじゃない。心で書くのだ。心さえ健全であれば、自分らしい詩が書ける。

寝ていなくたって、倒れそうだって、書ける。
そんな自信があった。
心の奥から染み出してくるいろんな感情を、言葉を、僕は吐き出し続けた。

書き直しも見直しもしない。溢れ出てきたものを書き留めるだけだ。ロジカルである必要も、起承転結を考える必要も、誰かに喜んでもらえるか、役に立つかを考える必要もなかった。

詩は、僕であり、作品であり、排泄物だ。

これまで、セルフ作家の方達が読んで役に立ちそうな記事を書こうと努めてきた。でも、それが本当に誰かの役に立つかどうかは分からないし、少なくとも自分の作品を《一般の読者に》広める役には立たなさそうだ(立っているのかもしれないけど)。

もっと、自分の作品を読んでもらいたい。
これが本音だ。当然だ。そしてそのための方法が、一つ増えたのかもしれないと思った。

《もう一つ》
このブログの読者は、半数以上は検索から来ている。固定読者は案外少ない。
しかも、その多くはCG関連、Mac関連、iOS関連の検索語だったりする。小説関連の検索語で来る人はまれだ。
(でも『山彦』で検索してくるひとが結構いるんだ!)
そんな人たちが僕の作品に眼を留める切っ掛けになるのは、やっぱりこの場所に載せた作品なのだと思う。それも、短くて読みやすい作品。

一つの答えが『フックフックのエビネルさんとトッカトッカのカニエスさん』だったわけだけど、《詩》というのが一つの選択肢としてあってもいいんじゃないかと、今は思う。
まあ、詩ってとてもニッチで、興味のない人が大半じゃあないかとは思うけどね。それでも、検索してきたサイトに変な詩が載ってて、それが短くて読みやすければ、ひょっとしたらちょっとだけ読んでくれるかもしれない。
これが、セルフ作家オンリー向けのノウハウ記事だったら、どうだろう?
今月のKENPCがどうだとか、さ。
もちろんそれも重要だし、やめるつもりも全然ない。少しでもセルフ作家さん(=仲間!)の役に立つ記事が提供できれば、それはとても嬉しいことだし。

でもね、少しだけ、自分の作品に眼を留めてもらうための小さな作品を、載せる機会を増やそうかな、なんて思ったりもする訳で。

今後も、詩や小品を載せていこう。と思う淡波でした。

じゃ、また!

で、どうして最近の淡波は詩ばっかりなのか? -1

前向きな理由と後ろ向き(?)な理由が一つずつ。

《前向きでないほうの理由》
本業が忙しすぎて、いつも脳味噌のどこかが死んでいた。とてもじゃないけれど、論理的な思考なんか、できる状態ではなかった。
そこそこ書き進めている長編の続きを書くのであれば、まあそんな状態でもなんとか書けたかもしれないけれど、まだ書き始めたばかりの話じゃあどうにもならない。これからどんどんイマジネーションを広げながら前後の脈絡やエピソードのつながりなんかを考えて、と思うと、こんな肉体と精神の状態で小説の執筆は無理だった。
それでは普通のブログ記事ならどうなんだ、というと、これまた意外に論理的な思考が必要なのだ。僕は記事を書くとき、何度も何度も読み返して書き直している。たった千字の記事を書くのに2時間もかかったりすることがしょっちゅうある。

せっかく毎日更新を続けて来たんだから、このまま続けたい。仕事が忙しいとか、言い訳したくない。
そこで考えた。働かない頭で。

苦し紛れにある日、書きためていた詩の1篇を載せてみた。当然、過去に書いた《出来上がった作品》なんだから、もう書き直す必要はない。
DropBoxに保管してあるテキストファイルを開いてコピーし、Wordpressにペースト。公開設定をして自動ツイートを書き込めばオッケーだ。これを、書き溜めていた最後の普通の記事を載せる前の日に、載せてみた。

それからあっという間にまた2日が経って予約投稿した記事はなくなり、いよいよ諦める時が迫っていた。もうダメかな、と思い、こんなことを呟いた。

そうしてまた、苦し紛れに詩をコピペした。それから、たまたまDropBoxに放り込んであった過去に書いた文章を載せてみた。
→これは、悪い記事じゃないと思うよ。ちょっと湿っぽくて青臭いかもしれないけど、セルフ作家さんやクリエイターさんを勇気づけてくれる言葉だから。

どちらにしても、その週はまともな記事を書くだけの余裕が脳味噌になかった。徹夜、泊まり込みの連続で、週に2度しか家に帰らないような生活だったのだ。土日も全く休めなかった。電車に乗っている時間にブログの更新を1週間分仕込まなければ、毎日の継続が途切れてしまう。
僕はコピペした。過去、書き貯めてあった詩を、どんどんコピペした。

<明日へ続く>

小さな戦い

春先になるといつも
伸び始めたヤブガラシのツルを見て思う

今のうちにすっかり始末すれば
来年は少し楽になるのではないかと

初夏になるといつも
じゃんじゃん葉を増やしている姿を横目に

さあ、そろそろ始めなくては、
と思う

夏の盛りが訪れると
小さな丸い蕾の連なりを見て
淡いオレンジ色の塊に
マメコガネが群がっているのを見て

今のうちにやらなくては、
と思う

夏が過ぎると
さあ、もう外での作業もキツくないぞ
と思う

と思う間に、
日々は飛んで過ぎてゆく

秋が深まり
青い空が高さを増している

今年はとうとう
実をつけさせてしまった

茶色がかった緑の実が
無数の実が
つやつやと
勝利のメロディを奏でている

このままでは種が落ち
来年は深刻な悪影響が出るだろうと
頭を抱える

それでも、
そうやって私は庭を見ている

もし、
このままでいたとしたら、
来年は
目の前がヤブガラシで満たされてしまうのだろうか

心の中で私は
頭を抱えるポーズを取ってみる

いや、
それはあるまい

私は自分に答えてみる

誰も手を入れることのない荒地も
ヤブガラシだけで満ち溢れていることはない

さまざまな植物がせめぎ合って

我が土地を
我が陽射しを

勝ち取ろうとしている

私はただ敗残者として

彼らの小さな戦いを
見つめているだけなのだ

 


戦いの勝者は誰?
『奇想短編集 そののちの世界 4 フローラ』
答えはここに?

励ましの言葉に代えて

ずっと以前、セルフパブリッシングのノウハウ本を書こうと思ったことがあったんだ。
もっと、売れるようになったら出そうかな、なんて思って。
でも、なんだかそんな気持ちじゃいつの間にやらすっかりしぼんでしまった。

その本の最後に書こうとしていた文章を9ヶ月ぶりに読んでみたら、自分が少し励まされたんだ。

だからね、ちょっとだけ沈んでる表現者の皆さんが、もしかしてこんな文章を読んだら元気を出してもらえるかな、と思ったんだ。
ちょっと長いけど、良かったら読んでみて欲しいな。

「励ましの言葉に代えて」
──みんなに捧げるちょっとした本の最終章の言葉──

 あなたの作品は、前後左右どこにも陸地の見えない大海原に浮かんだ小さな小さな瓶です。その中は、とろけるように美味なジュースで満たされているかもしれません。難破して漂う遭難者を救う、生命の水が入っているかもしれません。でも、その瓶の中味は海面のわずか下に隠れています。そこに何が入っていても、その美味しさを、そしてその瓶に満たされたエネルギーを、知る人はいません。誰も。
 瓶の浮いているその場所を、知る人は誰もいません。あなただけです。
 あなたは瓶が沈まないように、波よけを立て、浮き輪を繋げなければならないでしょうし、人目につくように旗を立てなければなりません。武骨なロープでつないでは見栄えがしませんから、美しいリボンを用意することも必要です。瓶の内容を知ってもらうためには大きな横断幕を張り渡す必要があるでしょうし、そのための柱も必要です。時には花火や発煙筒や爆竹だって必要かもしれません。
 そうしながらも、飾りすぎで瓶の姿が見えなくなるリスクにも注意を払わなければなりません。花火を上げても、周囲を煙で満たしてはいけません。良い香りが漂うように、最新の注意を払い、美しい花火を上げるのです。
 あなたの瓶は、人知れずポツリと浮いています。瓶の中身を、レシピを磨き上げるのは最も大事なことですが、誰も知らない大海原にいくら浮かべていても、その輝きが誰かの心に届くことはありません。

 あなたの瓶が浮いている場所は、まだ地図には載っていません。時には目的地が分からないままに泳ぎだすことも必要ですし、そのどこかで立ち止まって別の瓶を浮かべることもまた必要です。そうしてただ必死に瓶を増やしているうちに、あなたの存在に気がつく人が一人だけ出てくるかもしれません。でも、その人はその発見を、誰にも話さないかもしれません。

 あなたは瓶の中身を生み出すシェフであって、あなたはあなたの味に絶対の自信を持っているのでしょう。でも、それだけではだめなのです。あなたはシェフであると同時に、ギャルソンであり、オーナーなのです。美味しいものを生み出す努力という投資は、それと同じくらいのエネルギーを注ぎ込んだ販促活動によって、初めて実を結ぶのです。
 嫌われることを恐れてはいけません。でも、信念にもとることを行なってもいけません。あなたはあなたの信じる価値観に従い、あなたの作品の価値を信じ、旗を立て、花火を上げ続けるのです。

 KDPにライバルはいません。皆、同じ土俵で同じ高みを目指しています。力いっぱい他人を蹴落としても得るものは何もなく、自分の魂を汚していたことに後で気が付くだけです。空しさに襲われるだけです。本が好き、読書が好き、活字が好き、タイピングが好き……。面白い作品を見つけ、高めあい、研鑽し、もっともっと優れた作品を書けるよう、書き続けるのです。

 それが、あなたの瓶を地図に載せるための第一歩になることを信じて、さあ、キラキラした瓶を、そこら中に思う存分浮かべ続けようじゃありませんか!

ではまたね!

謝り続けた日

謝り続けた日
言い訳の言葉も尽き

あらゆる詫びのバリエーションが出尽くしても

まだ、

謝り続けなければならない日

声が震え
憐れみを誘う目で

終わりに引きずり込まれないためだけに
全人生をかけて

謝り続けた日

責任の所在など
解決の糸口など

どこにも転がってなどいない

ただ、

それを全身で受け止めること以外

何もできない日

マジック・オブ・セブン

効果を得たかったら、同じことを7回繰り返すのだ!
(でも、全く同じじゃダメだよ)

今回はそういうお話。
これは、ずっとずっと前から書きたかったテーマの一つなんだ。

ラッキーセブンとか、そういう話ではない。
7という数字が科学的に根拠のあるものかどうかは知らないのだけれど、この話は割とあちこちで聞く。恐らくはアメリカ発の話だから、《何回も何回も》という意味で7なんじゃないかと思っている。これが古来から日本にある考え方だったら、きっと8になっているだろうし。

最初にこれを知ったのは、英単語を覚えるための参考書だった。もう十五年くらい前かな。もちろん、同じことを何度も復習すれば効果が高まるっていうのは当然だけど、7回は多過ぎないか? と思っていた。実際、参考書を7回も通読するのは困難だから、結局3回くらいで挫折してしまったし、1冊丸々の英単語を覚えてやろうという試みも失敗に終わったわけだ。

そして、有名なあれ。
《教科書を7回読んだだけで司法試験を突破して弁護士になった女性の話》
内容を見てみると結構頷ける内容で、繰り返しっていうのは大切だよなあと感じていた。

今日、書きたいのは勉強の話なんかじゃない。
プロモーションだ。

ハンドレタリング・アーティストであり起業家支援をしているSean McCabe氏がSeanwes Podcastで繰り返し言っている。僕も彼の名前を度々出しているから、《またその人の話か》と思われるかもしれない。

「あなたの発信したもの(ブログ、Twitter、podcast、WEB、Youtubeなどなど)を、最初からずっと知っていて追いかけている人なんかそうそういない。今、このpodcastを聴いてるあなただって、第199回のこのshowが、初めて聴いたものかもしれないよね。だから僕は、僕のことをもう一回説明するよ、僕は──」

こんな調子で、同じ話をしょっちゅうする。大事な話ほど何度も何度も繰り返す。ずっと聴いている人にとっては、またあの話か、とも思えるけど、これはとてもいいリマインドになるのだ。何となくうろ覚えしていることを、初めて聴く人を相手にもう一回話してくれる。「あ、これは第○回のshowで話したことだから、詳しく知りたい人は聴いてね」と捕捉して。

そこで彼がよく言う言葉がMagic of Sevenなわけ。
人は忘れる。人は見過ごす。繰り返し言っても、うるさいと思われるより、忘れかけてたと思われるものだ。だから、大事なことは繰り返し繰り返し言わなきゃいけないんだ。

ちなみに、《毎日発信しよう、それを2年間続けるんだ、そうすれば必ず効果が上がる》っていうことも、彼が繰り返し言い続けていることの一つだ。

作品のプロモーションもそう。

ただし、それは自分の言葉でなくちゃいけないし、ボットによる機械的なリピートではダメ。それこそ、既に知っている人からは無視されるだけになってしまうし、うるさいと思われることにもなる。定期自動ツイートなんて、もってのほかだ。(完全に初めて見るひとに対しては良いかもしれないけど、ね。2回目にそれを見たら幻滅されてしまうかもしれない)

同じことに、少し違う側面から光を当てる。
少しだけ表現を変えてみる。
新たな見せ方を少し加えてみる。
それだけで、既に知っている人から反感を持たれないものになるし、逆に好感度が上がることにもなるのだ。

自分の作品・商品を宣伝するのは大変だ。
嫌がらるんじゃないかと気になってしかたがない。
でも、知ってもらわなければ広げることはできない。

勇気を持って、繰り返し宣伝しよう。
ただし、工夫を凝らして。

ラクして売れる魔法なんか、どこにもないんだから。

参考に、Seanwesのギャラリーを紹介しておこうかな。クリエーターにとって、とても勇気づけられる言葉が美しい手描きレタリングでつづられているこのサイト、僕からの強力おすすめです。

この記事が、いつか誰かの役に立ちますように!

遅過ぎる、遅過ぎる(藤崎さんごめんなさいw)

リビングで2時間:3日間で0文字。
(本日の記事は言い訳全開です。何書いてるんでしょうね……ほんと)
 →これ書いてる時間に小説書けよ、って言われそうですが、そんな脳ミソ状態じゃないのですわ。
 《記事公開直前に追記:電車で2枚、書きましたよ!)

この連休は執筆三昧の予定だった。そして今日はいよいよ『フックフックのエビネルさんとトッカトッカのカニエスさん』テーマ曲のヴォーカル録りをする予定にもしていた。

ところが、先週の木曜日に会社で泊まりがけの仕事になってしまって以来、全ての予定が崩れてしまった。本当は今ごろ『ルルルとリリリ』のクライマックスを書いている筈だったのだけれど、お恥ずかしい話、まだほんの冒頭部分までしか筆が進んでいない。徹夜の影響で──仮眠は取ったけどね──、土曜日は家事手伝い以外何もできず、ひたすら寝ることになった。そして日曜日はまた出勤、夕食が終わって落ち着いたのは22時過ぎだ。さらに今日も出勤となった。
午前中、かろうじて2時間ほどMacに向かう時間が取れたけど、価格改定の影響でまだあれこれと片づけなきゃならない雑務が残っていて、それをこなす時間にしなければならなかったのだ。

出版社名を変えたということは、表紙を差し替えなければならなくて、昨夜、ケプラーズ5213のランディングページの価格をはじめとした各種情報をアップデートしたのに引き続いて、今日は作品ページ(このページからリンクしているこれ)の表紙を全差し替え(サムネと実寸画像の両方)して、試し読みのEPUB内にある表紙画像も差し替えて……とやっているうちに時間切れ。

今日までで『フックフックのエビネルさんとトッカトッカのカニエスさん』のまとめ読みページは消えることになっているのだけど、さて、その差し替え作業をする時間をこの後取れるかどうかは、まだ見えないのだ。
もともとは第五話までの試し読みを用意しようと思っていたんだけど、物語の切れ目と興味の引きを考えて、第七話目まで読めるようにしようと考えを改めた。一応EPUBとPDFは作ったので、多分、大丈夫なんじゃないかなあと思っている次第。

テーマ曲の方は、結局何も進行していなくて、ヴォーカル録りどころかバックトラックも途中段階──。

まあ、そんな淡波ですが、今後もお付き合い頂けたら嬉しいなあ、と。

ではまた明晩!

反省と後悔が船を進ませるのだ

Twitter、そしてこのブログを始めたのは、《読者に価値を提供する》。それが目的だった。Twitterを始めたばかりの頃、とにかく価値ある呟きだけをしようと思っていた。だから、1日1ツイートするのが精いっぱいだった。なんだか、金言集みたいな、良い言葉集みたいな、そんなものじゃなきゃ《作家のツイート》として意味がないんじゃないか、と思い込んでいた。そして、そんな言葉たちが潜在読者を生み、タイムリーな宣伝が著書の売上げに結びつくのだ、と思っていた。

まあ、全くの間違いということではないけれどね、それは著名人とか、既にフォロワーさんがたくさんいる人とかね、そういう場合に喜ばれる類いのものだ。

誰も知らん無名の素人作家が、
「ね、これってためになるでしょ?」
的な呟きをしても誰も興味がないのは当たり前だし、そもそも、誰の目にも止まらないのだった。

以前、ここにも書いたけれど、誰もフォロワーがいないまま《価値のありそうなことを頑張って呟く》というスタイルをしばらく続けていた僕の呟きは、読者を増やすこともフォロワーを生み出すこともなかった。

その後、著名人や憧れのひとではなく、《同じ志を持つひとびと》をフォローするようになって、Twitterとの付き合い方ががらりと変わった。呟きも、本当にただの呟きが多くなった。もちろん、誰かのためになれるようなものを呟きたいな、という気持ちも、自分の作家としてのブランドを確立するための呟きをしなきゃ、という気持ちも変わらずにあったけど、もっと地に足のついた外の世界との付き合い方こそが《コンテクスト》なのだ、ということも学んだ。

毎朝、「おはよー、おはよー」と呟いている人がいた。
セルフ作家の広橋悠さんだ。そのツイートを目にし始めた頃、とても違和感があった。でも、広橋さんの作品に触れ、Twitter上でいろいろと話をさせていただくようになって、その呟きが、とても嬉しいものに変わっていった。朝、「おはよー、おはよー」を目にするだけで元気づけられた。
「推敲中!」
「執筆中!」
そんな呟きがとても身近になっていた。

Twitterを覗くのがとても楽しくなって、大勢の方と仲良くさせてもらうようになった。(決して多くはないけれど、友達がほとんどいなかった僕にとっては、とても大勢に思えるんだ)
バカだじゃれやおやじギャグ、どうでもいい下らない呟きをするようになって、でもそれで、多くの方たちの優しさや楽しさに触れることができた。
セルフ作家さんの本を読むようにもなって、本当に数えきれないほどの素晴らしい無名の小説があることを知った。

楽しい時間が、時間を忘れさせ、目的を忘れさせていた。

もう、当初の目的は意味がなかったと割り切っても良かった。

でも、ある時、ふと思ったんだ。

この呟き、たまたま僕の小説を読んでくれた読者さんが初めて見たら、どう思うのかな? と。
もちろん、《作家 淡波亮作》として《これはあかんだろ》というラインはあるし、最低限それは守ってきた。でも、《セルフ・ブランディング》と考えたとき、どう考えてもマイナスにしかならない呟きが、タイムラインを埋めていることもある。

後悔先に立たず。

ダメなところや恥ずかしいところ、おバカなところも含めて自分なんだから、それはそれでいいんだけど──。
実際、おバカな呟きを繰り返す○○さんや△△さんの作品が素晴らしいことを僕は知っているし、おバカな中にも知性や優しさが感じられたりするのだから、それはそれでいいのだ。悪いことじゃないのだ。

そんなことを思いながら、少しでも意味があって、誰かが楽しんでくれて、僕の小説に興味がわくような呟きを、していきたいよな、なんて思ったりするのだ。

そもそも人間は、矛盾を抱えた生き物なんだから。

反省しながら、後悔しながら、そして楽しみながら、こうやって先へ、先へと進んでいくのだ。
少しずつ。半歩ずつ。

ね。

これからも宜しくお願いします!

この記事が、いつか誰かの役に立ちますように!

iPad mini4の調子は?

もうね、因縁なんてどうでもいいや。快適。ひたすら快適。さよなら、iPod touch。

と、言うわけにもいかないのだ。やっぱり大きいもの。ポケットに入れておいて、ちょこっと出してSNSを確認したり、LINEで電話を掛けたり、という用途には、ポケットに入らないサイズの端末は向かなかった。当然だ。Podcastや音楽を聴くのも、iPad miniよりiPod touchの方が快適だし、ね。

では、これは良かったぞ、という使い勝手はどんなもの?

まずは作曲に愛用しているMusic Studioから。

・作曲するときの効率が大きく上がった!
同時に見えるトラックの数が全然違うから、全体の構造を把握しやすいし、調整もやりやすい。

トラック表示画面:iPad mini
トラック表示画面:iPad mini
トラック表示画面:iPod touch
トラック表示画面:iPod touch

 

・キーボードが大きいから入力しやすい!
Music Studioは画面のサイズが自在に拡大縮小できるから、常に最適な大きさにスケールして使える。iPad miniの画面なら、二オクターブ半くらい表示できる。これだけあれば、大抵のフレーズは収まる。もう少し大きく表示すれば、コード弾きだってそこそこ出来てしまう。

キーボード:iPad mini
キーボード:iPad mini

 

これまでは、収まる範囲のフレーズだけ引いて、付け足し付け足ししていく必要があったのだ。

キーボード:iPod touch
キーボード:iPod touch

 

キーボード表示は2段にも出来るんだけど、iPod touchだと指同士がぶつかってしまって、あまりメリットを感じなかった。これもiPad miniのサイズなら、充分に実用的。

iPad miniならキーボードを2段にしても充分な大きさ
iPad miniならキーボードを2段にしても充分な大きさ

 

・何といっても一番恩恵を感じたのはピアノロールという編集画面の大きさだ!

この色の付いた四角が音符と同じで、横幅が広ければ長い音、色は音の強さ(紫は弱く、緑は強い)を示している。左にある鍵盤が音の高さ。
この画面上をドラッグして音符を選択し、音程・強さ・長さ・位置を調整するんだけど、今までは画面が小さかったから、細かい音譜を選択するにはいったん画面をかなり拡大して、編集する必要があった。でもそうすると、全体が見えないし、再生するとすぐにスクロールされて音符が見えなくなってしまっていた。画面が大きいと、拡大させ過ぎる必要もないし、再生で画面が動いても音符を追っかけやすい。と、まあ、いいことずくしだった。

ピアノロール:iPod touch
ピアノロール:iPod touch
ピアノロール:iPad mini
ピアノロール:iPad mini

 

さて、次。大事なのは執筆環境だ。

Plain Text2の画面比較をどうぞ。

iPod touch:縦位置での全体表示
iPod touch:縦位置全体表示

 

iPod touch:横位置での入力画面。四行しか見えない
iPod touch:横位置入力画面。四行しか見えない

 

iPod touch:横位置で変換候補を出すと、入力中の文章は見えなくなる。
iPod touch:横位置で変換候補を出すと、入力中の文章は見えなくなる。

 

では、iPad miniを。

iPad mini:広い!
iPad mini:広い!

(これ、最初に電車で書いてたバージョンなので、公開版とはちょっと違いますねえ)

iPad mini:前後関係が充分つかめる
iPad mini:前後関係が充分つかめる

 

iPad mini:入力中の文章はちゃんと見えてる
iPad mini:変換候補がたくさん表示されていても、入力中の文章はちゃんと見えてる

 

まあ、画面が大きいのだから全て当然のことなんだけどね、やっぱり実際に使ってみると、その違いは大きいなあ。

指紋認証も世間で聞くような「いまいち」とは思わない。ちゃんと指を当てれば、認証できないことは今まで一回もなかったし、これはとても便利。

カメラの解像度が8Mピクセルに上がってるのも相当ポイント高かった。(iPod touch 5thは5M)
しかもレンズ周りの性能もいいようで、3Mピクセルの違い以上に撮ったものはきれいになっている。特に、僕は新聞のスクラップを頻繁に撮るのだけど、今までは数段までしかキャプチャ出来なかった記事が、大抵のものは記事全体をキャプチャしてもちゃんと読めるものになる。これは相当助かったなあ。(お奨めアプリはGenius Scan。パース補正に明るさ自動補正〜二値化、ページにして整理するところまで一括で出来る。まあ古くからあるアプリだから、最近はもっと良いものがあるかもしれないけど)

お絵描き系のアプリも、これから使うのが楽しみ。
デメリットと言えば、やっぱり重いことかな。iPod touchはたった88gだったから、もう、持っていることを忘れるくらい軽かった。どんな姿勢で持っていても重さを感じることはなかったし、イヤフォンのケーブルを挿したままぶらーんとぶら下げてケーブルの捩れを直せたり、落としても画面が割れることもなかった。(だから、iPod touchはケースもカバーもなしで使っている)iPad miniは落としてしまえば壊れてしまうだろうから──まあ、落とさないとは思うけど──Smart Coverを付けている。これ、70gくらいあるみたいで、感覚的にはカバーだけどtouchの重さくらいあるという……。

寝転がって頭上に持つと、iPad miniは結構重い。長い時間は使っていられないしね。

なんだかまたつまらない記事を長々と書いてしまった……反省。

では、また明日も更新できますように……。

ニッチな、とてもニッチな層向けのお話ですがね。

はい、ちょっと開きましたが、それでは《公募に出しました記事》の続きです。

最近は、星新一賞のようにデータで応募できるものが増えてるのかな?
僕はほとんど応募経験がないのでよく分からないのだけど、今後Macでウェブ応募する人の参考になりそうなことがあったかもしれないのだ。
というお話。

星新一賞では、応募可能なフォーマットは「ワード」「RTF(リッチテキスト・フォーマット」「テキスト」だったかと思う。縦書き・横書きは自由。もちろん、僕の愛用するHagoromo形式はNGだ。

僕はいつも小説を書くとき、できるだけ完成した書籍のイメージに近い環境でやっている。縦書きで、フォントはもちろん明朝体。行間にも気を使うし、紙の色もちょっと暗めにしたりする。まあ、これは目が疲れにくいってのもあるけどね。

これがオリジナルの表示状態。この見栄えのまま執筆している。
オリジナルの表示状態。この見栄えで執筆。(アレの応募作ではありません!)

 

さて、今回もHagoromoを使って完成イメージに近い状態で書き進めたわけなんだけど、応募するためのファイルに書き出す段階で、ハタと立ち止まったのだ。
自分が見ているこの状態に近い見かけで入稿したいと思っても、所詮、世間はWindowsが標準だ。Windowsのワード(&標準フォントに標準設定)で書いた小説をワード形式で応募するなら、まあほぼほぼ誰の原稿でも同じような見かけになるかもしれないけど、Macの場合はそういうわけにはいかない。

せっかくのWYSIWYG環境(なんて懐かしい言葉だろう!)も、プラットホームが異なればまるで役には立たない。

RTFは書式を保ってくれるんだったよな、と思い、ちょっと書き出してみる。
それをHagoromoで読み込んでみた。結果は下記の通り。

・ルビ:再現不可
・行揃え:再現された
・文字サイズ:再現不可(妙に大きくなっていて読みづらい。どこかの設定だけが生きてしまうのだろう)
・縦中横:再現不可
・圏点:再現不可
・文字飾り:太字は再現された(他は未使用)

次にiText proで読み込んでみる。
上記に加え、縦書きも再現不可だった。これは意外。用紙も横位置で、これは読みづらい。

次、ダブルクリックして、Mac標準のText Editで開く。うむ、意外に近い。今度は字が小さくて文字数が多めになる。一行も長いし、これも読みづらいな。
(ちなみに、ルビありで書いた文書を書き出したrtfは、Text Editで開くことがが出来なかった)
フォントはいずれの場合もきれいな明朝が保持されているけど。

そうそう、一応、Macのワープロといえば、Pagesもある。あはは、読み込むことすらできなかった。RTFには対応していないのだった……。

次だ。
ワードで読まれるケースが多いのではないかと思い、Libre Officeで読み込んでみた。iText proと同様の状況。

続いてOpen Office。こいつにの明朝体は信じられないくらい読みづらい書体だった。

Open Officeだと書体がこんなことに
Open Officeだと表示がこんなことに

 

元々の書体設定は「ヒラギノ明朝プロ」。それが、Open Officeでは「Hiramin Pro」と表示されている。略称だよな、同じ書体の筈だよな、と思いつつも、信じられないほど汚い。文字間と行間がベタ組みになってしまい、こんな表示では絶対に読みたくない! って強烈に思わせるものだったんだな……。
きっと、Microsoft互換のための処置なんだろうなと思いつつ、うむむ、これはかなりリスキーじゃないかと考え直したのだ。
RTFで出したところで、それがWindowsのワードで開かれたときにどんな風に見えるのか、全然分からないのだからね。きっと、ワード上もしくはワードからプリントされた紙で読まれるのだろうし。

結局のところ僕は、縦書きすら諦めることにした。何の設定もない、改ページも文字寄せもない、プレインテキストでデータを提出することに決めたのだ。

EPUBで出せればいいのになあ〜と思いつつ、それはそれで後のデータ流用が大変だし、印刷もね……とも思うわけで。

まあ、そんな当たり前のところにたどり着くまでに時間がかかったという、アホなお話なんだけど。

結論を言うと、
「Macで執筆しているあなた、文学賞にデータで応募するときは、プレインテキストが良いんじゃないかと思いますよ」
と、いうことでした。

では、この記事がいつか誰かの役に立ちますように!
(立たないだろうなあ)