牛野小雪さんの新作にして大作『ターンワールド』を読了しました。牛野さんらしく淡々と捩れていく世界にからめ捕られ、仕事で猛烈に疲れていても読むのを止めることが出来ませんでした。
読書中も気持ちは盛り上がり、その世界にどっぷりと浸かり、最後まで気を抜けない作品でした。
“が、”
ただ面白いというのではなく、これを読了した自分と、どう折り合いをつけたら良いのか悩む作品なのでした。作家仲間の新潟文楽工房ヤマダ氏も仰っていましたが、『ターンワールド』は読み手によって全く解釈の変わる作品だと思います。
一言で言えば、《自分(という思い込み)を捨てに行くロードムービー》のような小説です。僕も若い頃、バックパッカーをしていたことがあります。数ヶ月間、テントとギターを持ってヒッチハイクの旅をしたものです。泊まるところがなくて野宿し、野犬(僕の場合はディンゴ)の恐怖に怯えたことも、雨の中、心優しい牧場主に救われたこともありました。だから、主人公の旅が、とりわけリアルに迫ってきました。
でも、主人公が旅に出る先は、不思議に不思議さのないパラレル・ワールド。捩れた旅は、どんどん捩れていきます。
僕は自分のことを“感覚派”だと思っていますが、小説を書いていると、どんどん理詰めになっていきます。アイデアを膨らませたり普通に執筆する時は感覚の命ずるままに、登場人物の喋るままに話が進みます。でも、一旦物語の構成に意識がいくと、まるで理系の研究者のように、何もかも合理的につじつまが合っていないと気が済まなくなり、架空の時代考証やイメージ内のSF考証にやたらと時間をかけたりしてしまいます。きちんと納得の出来る世界を構築できるまでは、どうしても筆を進められなくなってしまったりします。
『ターンワールド』を読んでいて、この手のワナに何度もはまりそうになりました。この作者はこの世界をどうやって構築しているのだろうか、このエピソードの裏には何が潜んでいるのだろう、この不思議な世界の成り立ちはどうなっているのだろう、と。実は、自分の中では牛野さんの提示するこの世界は“こういう事情で出来上がった世界である”と半ば想定しながら読んでいました。SF作家の悪い癖です。(あ、もし僕がSF作家なら、ですが)
ところが、物語は理詰めの解決を見ることなく、どんどん、どんどん、ひたすら先へと進みます。伏線だと思っていたあれこれが、次々に裏切られていきます。あれよあれよという間に物語の終盤が迫り、そして、意外な結末を迎えるのですが、その結末は僕にとって、本来は受け入れ難いタイプのもののはずでした。
しかし、読後感は極めて良いものでした。充実して、感動とすら言える強い感情がじんじんと沸き立ちました。
僕は、芸術作品には2種類しかないと思っています。
観賞し終わって、徐々に心の中での評価が落ちていく作品と、
観賞し終わって、更に評価が上がっていく作品です。
『ターンワールド』は、間違いなく後者の作品です。これは、古典だ。文学だ。そして、傑作です。僕はそう思います。セルフ作家と商業作家という垣根は、もう存在しないのかもしれません。
いえ、最初から存在しないのでしょう。
読者にとっては、ね。
タイトルを見て、ちょっと笑ってしまいました。普段私が考えている通りのことですから。
以前から知っている人は知っているのですが、私は夏目漱石に多大な影響を受けているんですよ。だから物語の源泉は明治時代の19世紀からなんです。超古い。
物語の筋もやはり二世代は古い気がします。こちらは少年ジャンプとハリウッド映画(全盛期の頃の)でしょうか。
書いている人間だけが新しい。それだけをアドバンテージにしてがんばっております。
素敵な感想をありがとうございました。
牛野小雪より
p.s
海外で旅をされていたんですね。凄い。
実は次作はヒッチハイクで物語を進めようとしているのですが、泡波さんに底の浅い知識を看破されないか不安です。
古典とは書きましたが、古い感じは全くしませんでしたよ。スタンダードという意味の古典ですね。
ヒッチハイク、楽しみです。僕も書きたいテーマの一つです。でも作家の想像力は時に(常に?)現実を超えるものですから、心配はないでしょうね!