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喜んでいる場合ではない!

こんな状況を良しとしているわけにはいかないのだ。やれランクインしたとか、喜んでいても仕方がない。
そりゃ、上位ランクに入れば嬉しいですよ。でも、周囲を見てみればすぐ我に返ることになるのだ。
《SF・ホラー・ファンタジー の 売れ筋ランキング》のうち無料本では、1ページ目、つまり1位〜20位までにいる著者の数は僕を合わせてたった5名。(23:56現在)

こんなに上位に並んではいるが……
こんなに上位に並んではいるが……

 

僕の本が四冊、戸松有葉さんが八冊、赤井五郎さんが四冊、ヘリベマルヲさんが三冊、日野裕太郎さんが一冊だ。この寡占状態が、KDP全体の無料《SF・ホラー・ファンタジー》本のランキングを表わしているとはとても思えない。

次のページ、つまり20位以下に目をやると、なんと、28位までで終わっているのだ。このカテゴリーには無料本が28冊しかないのだ! これが何を意味しているかというと、Amazonさんのカテゴリー分類が全く用をなしていない。ただそれだけのことなのだ。

著書を発行する際にKDPの管理ページで選択するカテゴリーは、SFの中でも多くの細目に分類されている。当然、ホラーやファンタジーは別カテゴリーだし、ファンタジーの中にもいくつもの細目がある。

SFカテゴリーの《一部》
SFカテゴリーの《一部》

 

これは、僕の管理画面で、ある著作のカテゴリー選択を行なった際のキャプチャだ。《選択されたカテゴリー》には、《スリラー>超自然》と《青少年向けフィクション>SF》が並んでいる。でも、本が出版されるとき、これは全て無視される。どこかに使われているのかもしれないが、少なくともエンドユーザー(=読者)の目に触れる形ではそれは現われない。

そして、出版後に自動分類された電子書籍は、多くのものが《文学・評論》という上位カテゴリーに大ざっぱに入れられるのだ。この中は完全に雑多な世界で、純文学から評論からロマンス、戯曲、歴史……、何でも含まれている。これ、カテゴリー分類じゃないよね。

《Kindle本>文学・評論》というのが自動分類の結果だ
《Kindle本>文学・評論》というのが自動分類の結果だ

 

こんな分類で、読者さんが読みたいジャンルの本に辿り着けるとは到底考えられない。だから、自分の本がちゃんとしたカテゴリーに、少なくとも《文学・評論》よりは細かいカテゴリーに分類してもらえるよう、著者自身がサポートに申請しなければならないのだ。《お問い合わせページ》にあるメールフォームでね。

上述したランキングは、つまり《SF・ホラー・ファンタジー》の本を無料で出版している著者のうち、このカテゴリー再分類方法を知って申請した人の数でしかない。きっと、《SF・ホラー・ファンタジー》ジャンルのとてつもなく多くの名作・力作が、カテゴリー分けされずに《文学・評論》の海に溺れてしまっているのだ。前々回の記事に書いたとおり、僕自身、ヘリベマルヲさんの記事から赤井五郎さんの記事を読んで、昨日初めてこのカテゴリー再分類に挑戦したわけだ。

エンドユーザー・ベネフィットを真剣に考えたとき、Amazonというショップはカテゴリー分類を自らきちんとやり直さなければいけないと思う。出版時の申請カテゴリーと販売時のカテゴリーが全くリンクしていないだなんて、いったい誰が想像できるだろう?

今までに読んだことのないSF作品を読んでみたいと思ってジャンルで探した読者が、この無料ランキングを見たらどう思うだろうか?
Amazonさんはそのことを考えたことがあるのだろうか?

だけど、システムを修正するなんてそう簡単にはいかないだろう。どれだけ大きなDBシステムが背後で動いているのか、素人には分からないけれど、何人かの著者が騒いだところで手を付けられるような代物ではないことくらいは容易に想像がつく。だから今は、僕らコンテンツ・ホルダーである著者自身が、どんどんカテゴリー再分類に声を上げるしかないのだ。そうすれば、このランキングが本当の出版数と少しずつリンクしてきて、いずれは本当に読まれている《そのジャンルの》本がきちんと上位に並ぶ日が来るだろう。
もちろん、最終的にはそれがAmazonさんの技術者を動かして、DBシステムがきちんと整えられることを切に望んでいるのだけれど。

だから今は、まだご自分の著作が変な分類にされてしまっているセルフ作家の方々に、僕は声を大にしてこのことを言いたいのだ!

この記事がいつか、誰かの役に立ちますように……。

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(本記事は後編の後の続編にあたります。妙なリンクですが……)

感想を書くことが困難な作品

ヘリベマルヲ作『Pの刺激』を読了した。一言で言えば、《溢れ出る奔放なイマジネーションの洪水》。
それに尽きる。(あくまでも個人的感想として)
舌を巻く描写のテクニックが随所に散りばめられ、その想像力の強さと広大さにはたじろぐほどだ。プロットも凝っているし、話の進め方も別レベルのうまさ。

「難解だ」「分かりにくい」そういう評価は、当て外れだろう。作者は、そう狙って書いているのだから。
僕も最初は戸惑った。
誰が言っているのか分からないセリフ。何のことを話しているのかが分からないセリフ。前後関係が分からない描写。それらは全て作者のテクニックの一部だ。だから3度読めば理解出来る。筆力がなくてあの表現になっているのではなく、それが溢れるほどあるからあの表現なのだ。
前置きなく、《そこにいる人たちの会話に突然割り込んだ読者》として、僕ら読者は作者の構築した世界に放り込まれる。僕らは世界を理解しようとして必死に追い縋る。でも、《世界を理解する》なんて幻想なのだ。僕らはまた放り出される。
夢中で読んだ。逃げられない。
ある意味、すごい才能だしすごいクオリティだ。メモりたくなるようなイマジネーションの宝庫だ。ボッシュだ。キリコだ。マグリットだ。
これは、作者本人が言うようなゴミなんかでは決してない。(もちろん、本当にそう思っているのではないことは、分かっているけど)

それでもなお、僕はこの作品の決着のつけ方には納得できなかったんだ。そう、それは個人の感じ方の自由だから、良し悪しではなく、僕がどうだった、というだけの話。

残念だけど、後半からの動きにはストーリー逃避を感じてしまった。作品の説明に《ダーク・ファンタジー》とあるのだから、「あり得ない!」という感想が成立しないのは承知の上だ。でもね、その作品の中での《世界の存在を信じ得るリアリティ》が、終盤のファンタジーに突入して急速に失われていくことには、どうしても頷けなかった。
夢が現実を侵食し始め……という流れにもっと説得力があったらなぁと感じてしまったあたりが、僕の読書力の限界だったのかもしれない。

常日頃、SFやファンタジー作品にとって最も大事なのはリアリティだと、僕は考えている(異論の方が多数派だろうけど:そうでなければインター○テラーがあれほど高い評価を得られるはずがない)。
読者が見たことのない世界を構築して提示するのだから、そこに放り出された読者が自然に呼吸できるリアリティがなければ、それを作品として成立させるのはとても困難だ。
この作品の9割以上では、それに成功していると思う。

でも、その放り出しかたには《世界を構築した神としての責任》という潔さがもう一つ感じられなかったのだ。これは勿論、僕個人の偏った感想だから、作者には一笑にふされるだろうし、それでいい。全て綿密に計算して練り上げたプロットなのだから、そこに読者が納得しようがしまいが、それは全て作者の掌の上で起こっている事象なのだ。

僕が納得できなかったのは単に、僕の頭が固いからなのだろう。そこに納得できる《柔らか頭》の持ち主にとって、『Pの刺激』は紛れも無い傑作だろう。いや、僕にとってもたぶん傑作なんだけど。
(『山彦』のスーパーパワーにも、『ターンワールド』の摩訶不思議な世界観にも、『妄想する子供たち』の妄想世界にも、僕は“踏み外さないリアリティ”を感じていた。だからものすごく固い頭ではないはずだけどね)

ここで僕が言いたいのは一つ。
この作品を最後まで読まないで批評してはいけない。どんな作品でもそうだけど、(文章力がそもそも欠落しているものは論外として)最後まで読まなければ作品の真価は分からない。
途中で挫折したひとは、どうか、そこで評価を下さないでほしいんだ。

そしてもう一つ。今、読み終わって1日経って、改めて思ったのは、《これはいい作品だった》という感慨なのだ。(この感想文もちょっと時間を掛け過ぎて脈絡が崩れている……)

以前僕は、芸術作品には2種類しかないと書いた。

“観賞し終わって、徐々に心の中での評価が落ちていく作品と、
観賞し終わって、更に評価が上がっていく作品です。”
と。

「納得できない」とか言っておいて不思議なのだけど、なぜだか自分の中で『Pの刺激』の評価は徐々に上がっている。納得できなかったことが自分の内部にあるのではないかと思うと、それは作品の評価ではなく自分の読み方の評価なのであって……でもそれは作品を読んだことで生まれた感想であって……メビウスの環状態。

そういった意味で、(どういった意味だ?)これは無料にすべきでない作品なのだと思っている。《届くべきでない読者に届いてしまう悲劇》を避けるためには、作品紹介を読んで対価を支払いたいと思った読者の手にだけ届くべきなのではないかと思っている。

これ、感想になっていたのかなあ……。

(了)

思わぬところで見つけた《懐かしいお伽話》

それは、平沢沙里さんの『青き国の物語』。(ひとむかし前を思わせる)少女マンガ風の表紙、ラノベ調ファンタジーとも取れる作品紹介。だがその正体は、《ヨーロッパで口承されてきた昔々のお伽話》を収集した童話集で読めるようなテイストの、《懐かしいお伽話》なのだった。
今回、タイトルに作者名も作品名も入れなかったのは、表紙から受ける印象と中身のお伽話に、けっこう大きなギャップを感じてしまったからなんだ。もちろん、そう感じない読者もたくさんいるのだろうけど、この本は《童話》とか《お伽話》として紹介した方が、届けたい読者に届くのではないのかな、と、そう思ったのだ。

粗筋を言ってしまえばすこぶるシンプル。
ある呪いで醜い妖精との結婚を運命付けられた少女騎士が旅に出て成長し、呪いを解く鍵と恋を見つける、というもの。
このシンプルさ加減がいい。今時っぽいテイストが微塵もなく、それは即ち作者が書きたいものだけにフォーカスしている姿勢の表れなんだと思ったのだ。
売れたいとか、受けたいとか、気に入られたいとか、そういうズレた色気をすっきりと排除しきっていて、清々しい割り切りを感じる。文章は決して美文ではないし、人物描写が深いわけでもない。あくまでもすっきりとさらりとしていて、湿ったものが何もない。そうそう、その感じも欧風だ。
でも、そこに流れる落ち着いた気分は、冒頭で書いたようなお伽話全集に収められた小品を味わうような愉しみを与えてくれたんだ。
不思議と上品で、古風な雰囲気、そしてネーミングのセンスが秀逸だなぁと嬉しくなった。
ちょっと油断して現代語が漏れ出てきてしまうようなところもあったけど、全体は上手に抑制された翻訳調。

たまにはこんな長閑なお伽話をのんびり味わうのも、なかなか良いものですよ!

Amazon Kindle Storeで販売中

帰納法と演繹法を一度に味わう?

釣りタイトルです。済みません。
帰納法と演繹法を一度に味わうことは出来ませんね。
でも、作者としてそれらを一冊の本に詰め込むということを企んでいます。

今、準備しているのが『奇想短編集 そののちの世界』の合冊版です。全10話構成で第10話が完結編になっていますが、これ、第10話を読まないと、実は全体が関連し合っていることが分からないようになっています。(実際、ストーリー上の関連はほぼ全くないといっても良いのですが)

それで、完結編を読むと、「これまでの話って、そういうことだったのか」と分かる仕掛けです。
第1話から順番に読むと、通常の演繹的な小説として楽しめます。

そこで考えました。第10話を頭に持ってきたらどうなるか?

先に結論に至るエピソードを読み、「果たしてこれは、どのように起こったのか?」という興味をかき立てられるようなストーリーになるでしょう。即ちコレ、帰納的な楽しみ。

用紙やインクの価格を考慮しなくて良い電子書籍(&セルフパブリッシング)なら、これが簡単にできるんですね。

完結編を第1話として頭に持ってきて、その次に元々の第1話である『夜啼く鳥』を配置。第9話の『希望の船』の後に、また完結編の『未来からの伝言』を置きます。

演繹的に読みたい方、つまり、完結編を読んで初めて、そのどんでん返しに驚きたい方は、『夜啼く鳥』から読んでくださいね。そして、とにかく何が起こったか知りたくて、それからじっくり中身を楽しみたい方は、文頭から読めば帰納的に楽しめる、というわけです。もちろん、最初から読んで、最後にもう一回完結編をざっと読む。という楽しみ方もあるでしょう。
あなたはどちらの楽しみ方をしたいですか?

さあ、ここで、合冊版の表紙を初公開です。実は、書籍のePubデータと表紙画像は、とっくに出来上がっているのです。でもまだ刊行できないでいるのは、ブック・トレイラーが制作中だからなのです。まあ、実際にブック・トレイラーで最初に僕の本に触れる人は相当な少数派だと思うのですが、それでも順番としては《予告編》による宣伝が先で、刊行はその後という流れにしたいのですよね……。

これが誰なのか、知りたくなりますね〜、完結編を先に読まずに我慢できますか!?
これが誰なのか、知りたくなりますね〜、完結編を先に読まずに我慢できますか!?

ご存知の方は一目で分かるとおり、合冊版の表紙は第10話完結編のものをベースにして、その主役を配したものです。さあ、彼女の妖しい魅力が吉と出るか、凶と出るか、キャラクターの作者としては気になるところです。

ブック・トレイラーの完成までは、まだ2〜3週間かかりそうです。各短編の価格は合計すると990円(高い!)になりますが、合冊版の価格は普通の長編一冊程度(淡波比)のリーズナブルなものになります。この記事を読んで『そののちの世界』に興味を持ってくださったあなた、どうか、合冊版の刊行をお待ちくださいね!

Amazon Kindle Store上の商品紹介で、各話の共通部分を再録しておきますね。

人類はいったいどこまで行ってしまうのか……?
どんなに奇想天外な未来でも、明日にも起こり得るのではないかと変に納得してしまうことの恐ろしさ。
科学と文明の過剰な発達がもたらすかもしれない様々な「そののちの世界」の出来事を、SFタッチで、ダークなタッチで、またはユーモラスに描いた短編集です。
すぐに読めて、でもずっとどこかに残ってしまう。ちょっと不思議でほろ苦い読書体験が、あなたを待っている!
最終話の完結編以外は各短編にストーリー上の関連はありませんので、どの回からでもお読みいただけます。

あ、ちなみに、短編をバラで何冊かお買い上げいただいてから合冊版を入手しても、全冊の価格よりずっとおトクだったりしますよー。
この各短編作品の表紙がズラリと並ぶ著者ページはこちらです!

それでは、お楽しみに!

電子書籍ってやつを、改めて考えてみた−4

さて、気を取り直して第四回目(いったん最終回にしますよ)の今回は、「価格」「保管・保存性」について、電子書籍と紙の本のそれぞれを考えてみよう。でも、価格については考えれば考えるほど、調べれば調べるほど難しい問題。僕みたいな立場の人間が簡単に語れるような問題ではないな。結論なんて出せるわけもないし。
だから、ここはさらっと書かせてもらっちゃう。

9.価格

《電子書籍》

・ある程度自由に価格設定できる
→特に自己出版の本は、下限と上限の範囲内で好きな価格にできる。(時に、信じられないような強気価格に出会ったりもする)
→配信元の判断で、キャンペーンやセールなど、価格をある程度柔軟に変更できる。
→原価と売価のバランスだけではなく、紙の本を保護したい度合いなども加味した価格設定をしているように思われる。あまり安く設定してしまうと、紙の本が売れなくなってしまうというバランスも?

・基本的には古本や再流通がないため、販売者の決めた価格で消費者の手に渡る。
→KDPでも作者の意向と関係のないキャンペーンによる安売りがあったりするけど、安売りしたくない(=作品の価値を安く見せたくない)作者にとってはマイナスにも……。

・基本的には紙の本より安い
→そうでないものもある。
→製造にかかるコストを考えると、遥かに安くできるのではないかと考えがち。でも配布の想定量が桁違いに少ないから、そこは単純に比べられない。
電車の中を見回した時、文庫本や新書、ハードカバーを読んでいる人は毎日必ず見掛けるけど、KindleやKOBOを持っている人はめったに見掛けない。タブレットで読んでいる人も見るけど、絶対数は少ないかな。
→洋書では圧倒的に安いケースが多い。でも、翻訳の文庫本より洋書の電子書籍の方が高い場合もある。

・数多くの無料本が存在する
→古くは青空文庫プロジェクト・グーテンベルク。ネット上には著作権切れや作家が自主的に提供した書籍など、無償の本が大量に存在する。(WEB上の小説は別カテゴリーとして)

《紙本》
・書店での安売りは、基本的にない
→再販制度で守られ、新刊本が安売りされることは(今のところ)ない。
価格要因で売れ残った本を安く捌くことができないという弊害もある?
市場全体で見ると、返本するより売り切った方が良い場合もあるのではないか。
→「特価本市場」というものも存在するらしい。新古書として流れる「ゾッキ本」というやつ。
これは限りなく新刊に近い形のものが安売りされるが、あまり一般的とはいえないだろう。

・古本に関しては自由度が高い
→出版社にも著作権者にも1円も入らないから、「本の価格」とはまた別か。
しかし、電子書籍との比較で言えば、これは紙本の利点。

・図書館に配本されていれば無料で読める
→前回も書いたとおり。

 

いかがでしょう?

商業書籍における電子書籍の価格設定はまだ迷走しているようにも思えるし、だからこそ戦略的な値付けをした者がいきなり大ヒットを生み出すことがあったりする。逆に、紙の本と同じ価格の電子書籍でも、ちゃんと売れているケースもある。
要は、価格設定ではないんだな。電子で読みたい人はそっちで買うし、紙で読みたい人はそっちで買う。理由はそれぞれだし、電子書籍はかつて考えられたブレイクを迎えられないながらも、なんとか紙と共存している。という状況なのか。紙が、でなくて、電子が紙と。
電子書籍は安い。ってイメージがあるけど、それは一概には言えないと思う。個々の価格設定はケースバイケースだし、商業的に流通している本を、「所有欲を満たさなくて」いいなら、上述の図書館とか、紙の本の方がずっと多用な方法で読めるんだしね。(電子書籍を借りるってのもあるけど、読み終わらないうちにデータが消されちゃうこともある)
10.保管・保存性

《電子書籍》

・ひと昔前の神話として、電子書籍は永遠なんてのがあった
→冗談言っちゃいけない。電子データの永続性なんて、いまや誰も信じちゃいない。
コンピューターの世界では、たった20年前のデータでも全く読めないことが頻発するなんて常識だ。フォーマットの変化もあるし、OSの構造変化によって、データ自体を受け付けないことだってある。
汎用的なフォーマットだと信じられていたものでも、気が付くとどのソフトでも開けなくなっていた。なんてことも起こるしね。

・書棚データはクラウドにあるから、端末が壊れても買い替えても安心だ
→これも神話程度だ。一度購入した本でも、出版元の都合で読めなくなっちゃうこともある。だいたい、電子書籍のデータは購入者が所有権を持っていなかったりする。《読める権利を買う》ということらしい。
だから、そのデータの永続性なんて保証する必要もないらないし。
これはひどいな。
→プラットフォーム自体がなくなってしまう危険性も大きい。
つい最近も、一つ消えたし。

・もし、データが1文字でも壊れたら、その書籍データはおしまい
→そんなことがあり得るかどうか分からないけど、データってそういうもの。電子書籍端末を狙ったウィルスが作られれば、全ての本がダメになることもあるだろう。クラウドにまともなデータがあっても、DLした瞬間に読めなくなるウィルスとか、簡単に作れそうだ。(あ、もちろん僕にはそんな難しいことは出来ませんよ)
何しろ、タグが1文字壊れれば開けなくなっちゃうんだから。

・濡れてもいい端末もある
→KOBOにはお風呂で読める端末があるらしい。これはメリットか。

《紙本》
・ちょっとした不注意でページが破れてしまうことがある
→それでも、紙の本は読める。なくしてしまわない限りはね。もし破れたページをなくしてしまったとしても、他のページは全部読める。だから、ちょっと破けたくらいで紙の本の価値はあまり損なわれない。

・ずっと本棚に入れておくと陽射しで灼けたり、埃が積もる
→ちょっとクシャミを我慢すれば、その程度の経年劣化は問題にならない。今どきの本は中性紙だし、少なくとも自分が生きている間に読めないほど劣化してしまうことはないだろうし。

・汚れる、傷む、燃える
→火事にあったら、それはまずアウト。床上浸水で泥だらけになったら、アウトのケースもあれば、復活できるケースもあるかな。

 

ちょっと前から流行っているデジタル・アーカイブ。電子化すれば、文化財級の書籍もずっと後の世に残すことが出来る。彫刻や美術品もそうだ。でも、電子データの永続性を証明できた人はいない(と思うんだ)。
コンピューターはどんどん形を変えるし、読めなくなる昔のデータは増える一方だ。

そうではない、どんどん変化しても問題のない汎用的な形式にすればいい?

それも、まやかしに近いのではないかと、僕は思う。汎用的なデータは固有の機能を保ち難い。電子書籍だって、ePub形式が素晴らしいのは、現在のWEBの技術と極めて近しい構造だからではないかと思う。柔軟で、汎用的で。
でも汎用的なフォーマットにすることで、捨てざるを得ない機能はたくさんある。
だから、例えば昔の書籍をそのままの状態で全て保存したいと考えたなら、採用する形式はePubではない。形、色、質感も含めて保存するなら、きっとスキャン画像を元に立体化したCGデータになるのだろう。とんでもなく重いデータになるし、そもそも完全に復刻可能なデータなんて作ることは不可能だ。今のところ、臭いや触りごこちまで含めて完全な書籍そのものの情報をデジタルデータに閉じこめることは不可能だからね。CGの専門家が言うんだから、間違いない。(ということにさせておいて欲しいな。ここでは)

何とかそれなりに深い書籍情報をデジタルに閉じこめたとして、そんなデータが百年後の世界で通用すると思う?

きっと、元にした現物が残っている間に、デジタル・アーカイブのデータは使い物にならなくなるだろう。そのデータが使い続けられるように、技術革新を続ければいいのだと考えるかもしれない。でも、そうすると過去の古びた資産を切り捨てることが出来なくて、とんでもなく冗長なシステムが積み上がっていくことになる。今後もHTMLやCSSのバージョンはどんどん上がっていくだろうし、下位互換はある程度保たれるだろう。でも、ずっと下位互換を保つということはない。
例えばHTML1.0で作られたデータをモダンなブラウザで表示すると、やっぱり当時とは見栄えが変わっているはずだ。変わらないものもあるだろうけど、当時の技術をぎりぎりまで使い倒して作ったデータなんかは、どうしようもない。
現在、既にテーブルをレイアウトに使うことは非推奨とされているし、当時あれほどもてはやされた、テーブル・レイアウトでデザインされたページは、崩れてしまうことがある。やがては、ぐちゃぐちゃにしか表示されない時代も来るだろう。

少々ずれ始めたかな。
そろそろ、結論めいたものを書いておきたい。
(僕には何も決められないし、そもそも判断すら出来ないのだけど。それを前提に、個人的な、私的な意見として、ごく簡潔にまとめてみたい)

・電子書籍は便利だけど、まだ紙の本には全然かなわない。
・電子書籍のメリットがデメリットに勝つケースでは、活用が進む。これまでのように。
・将来的にも電子書籍が紙の本を駆逐するとは考えられない。少なくとも僕らが生きている間には。
・電子データだって、紙の本だって、永遠に保管なんてできない。それは複製されて、内容が残されていく。固定されたものとしてではなく、コンテンツという情報がかたちを変えて残されていくのだろう。

だから、電子書籍と紙とはどちらが優れていて、どちらが残るという議論は不毛なんだろう。
(そんな結論、何年も前からとっくに出ていたよ、って言わないで。僕は自分の考えをまとめたかっただけなんだ)

僕はこの先もKindleを持ち歩くだろう。じっくり家で読みたいものは紙の本でも読むし、その場で買いたい方を買うだろう。書店に行って本を見るのも好きだし、松丸本舗がなくなったときはとても寂しかった。

セルフ作家の本は電子書籍じゃなきゃ読めないケースが大半だし、Kindleがなかったら、僕はきっと小説を世に出すことが出来なかっただろう。
それがなくても、書くことだけはあっただろうと思う。とても若い頃から、僕はきっと本を書くという予感がずっとあった。でも、機が熟していなかった。僕はバリバリの作家志望ではないけど、電子書籍が出るずーっと前からちょこちょこと文章は書いていた。でも、本を書いたとしても、それが出版社に認められて世に出るかと言うと、それは決してなかったはずだ。
処女作がいきなり認められるような突出した才能はない。何冊も書いてきて、だんだん人に読んでと言えるようなものが書けるようになったんだから。

電子書籍には感謝している。好きだ。でも紙の本も同じように好きだ。
それでいいじゃないか。

まだまだダメな電子書籍だけど、ずっと付き合って行こう。
縁あってこれを読んでくださったあなたは、きっと電子書籍を読んだことのあるひとなのだと思うから、あなたもずっと、付き合ってくださいね。
(電子書籍に触れたことのないひと、スマホやタブレットで、一度も本を読んだことのないひとも、たくさんいるんだよなあ。e-Ink端末以外は目がとても疲れるから、あまり勧められないんだけどね)

さて、この記事が、いつか誰かの役に立ちますように!

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広告の広告の…の顛末

「淡波うざっ!」
電書ちゃんに叱られたのが嬉しい。
いや、まじで、まぞでなく。
真面目な話、僕の間違いをストレートに指摘してくれたのがとても嬉しい。
それは、電書ちゃんの「愛」だからね、あ、僕でなく個人作家全体への。

僕はそもそも、広告が嫌い。だから自作を広告するのも結構な葛藤とストレスの中で行なっている。広告しないと知られないから、何とか頑張っている。

僕は美大のグラフィックを出ている。回りはみんな、電通とか博報堂なんかに就職することを絶対の価値観に置いていた。そうでもなかったかもしれないけど、人付き合いの下手な僕にはそう思えた。僕は広告が大嫌いだった。
だって、自分で良いと思っていない商品を、まるでそれが「最高の逸品」であるかのように見せなきゃいけないんだよ。それが自己表現の一つだなんて、とても思えなかった。
十代の頃、《芸術とデザイン》について、青臭い議論を夜中までしたものだった。

そう、僕はとても青臭いやつだった。今でもそうだ。
僕は広告関連の授業は一切履修しなかったし、当然、広告代理店への就職活動なんて考えたこともなかった。(いや、就職活動自体しなかったんだけどね)

だから、WEB上に載る広告も嫌い。コマーシャルも嫌い。
日常的にテレビを全く見ないので、時々何かでテレビが点いていると、どうしてもコマーシャルに目が行ってしまう。物珍しいし、コマーシャルは人の注意を無理やり引きつけるテクニックに長けているからね。つい見入ってしまい、ちょっと自己嫌悪したりする。

優れた商品を紹介する優れた宣伝は、もちろん認めます。(偉そうな意味でなく)
アップルの一連の広告戦略は素晴らしいと思うし。(初期からの、ね)

ちょっとそれました。

誰もがそうであるように、WEBに掲載されているバナーは鬱陶しくて嫌いだし、アフィリエイトっていうんですか? 自分のWEBサイトに広告を載せているのも、実は好感を持てない。あ、作家がAmazonや楽天の広告を載せているのはアリだと思う。これは、反感を買わないし、それなりにリコメンドがはまることもある。
(自分で売り上げチェックなどのために作品の販売ページを頻繁に見るわけだけど、やたらと自分の作品がリコメンドされるのには苦笑する。もっと賢くなれよ、リコメンド・エンジンよ!)

世界的に見ると(あ、私見ですよ)、WEBサイトに広告を一切載せないというのが、今後の主流になると思っている。少なくとも企業でなく、個人経営のサイトでは。
そういうサイトは、優良な有料会員から定期購読費を取ったり、物販することで収支を成り立たせることになる。
広告が閲覧体験を阻害しているという考えは、多くのひとが言っているし、自分はバナー広告は絶対に載せないと言って実行している人もいる。(Sean Wes MacCabe氏、Ben Toalson氏、Andrew Price氏、、)
僕はその考えに大賛成で、これまで運営してきたいろいろな自分のサイトで、一度も広告を載せようと思ったことはない。

待てよ!
ここで皆さん声を合わせて、「淡波うざいっ!」

そう、矛盾してるよね、自分のサイトには載せないのに、自分の広告は出すなんてさ。
前々段落に書いたとおり、特定の興味を中心にして人が集まるサイトに、そのベクトルの広告が掲載されるのは、広告の正しい姿だと思う。そこまではうざくないんだ。

僕は、電書ちゃんの真意を分かっていなかった。電書ちゃんねるをスタートにして、他の外部サイトにも広告を掲載してもらうという近未来図を、理解していなかった。つまり、個人電子出版と無関係のサイトに、将来はでんでんアドネットの広告が配信されるであろうということだ。
そこでは、誰かの閲覧体験を阻害するという事象が必ず発生するんだな。もちろん、電書チャンネルだったらアニメがオッケーかというと、それも怪しい。やっぱり、閲覧体験を阻害されたと思う人が出てしまうのだろう。

今回の件、僕が全面的に間違っていた。
一つ言い訳するなら、「目立てばいい」「目立ったもん勝ち」なんてことは、全く考えていなかったんだ。ただ、自分らしいバナーってなんだろう、と考えた末のGIFアニメという結論だったんだ。

電書ちゃん、ありがとう。
僕は目を開かされた。
(それに結局は日刊電書チャンネルにアニメ広告を載せてくれましたね。)

(見本はこのページの頭に
ではこれで!

この記事が、いつか誰かの役に立ちますように!

読書前感想文という荒業

さて、読書感想文→読書中感想文、と来たら、当然次は読書前感想文ですね!
行きまっせー。

発売前に商品のプロモーションを行なうのは商売の基本ですが、インディー作家たる者、作品のプロモーションをどこまで商売として考えるのかは難しいところ。
宣伝宣伝せず、売らんかなという感じを与えないで、でもそれとなく作品をアピールしつつ、新しい読者を呼び込むために個性的なトピックもちりばめつつ。あぁ何て難しいんだろう!

で、その好例となっているなあと思ったのが、新潟文楽工房ヤマダ氏のこのブログ。ご本人はきっとプロモーションの積もりはなくて、身辺雑記としての新作進捗報告。きわめてプライベート感溢れる記事が、好感を呼びます。そして、一見関係のない記事から自作へと引っ張る滑らかな足場作りが効いています。

・まずはあれですね、値段付けに悩んでいるという記事が意外に面白い。分冊化という話で「これは大長編だな」感も演出。
その悩み方がまた合理的で、しかも「いい人」であることがバレバレ。
ここで、さりげなくサンカ小説という言葉が登場してます。(さりげなくてスルーしてました)

・通常記事としての読書レビューでもサンカ小説に触れ、「何、そのジャンル?」と興味をそそります。
(もちろん、僕は「山窩」という言葉自体が初耳で、ヤマダさんが当たり前のようにその言葉を使っていることに、「俺って無知? やばいの?」感を募らせるわけです)

ちゃんとタイムラインに沿ってブログを読んでいれば、最初のサンカ小説レビューで新作がサンカ小説であると分かるのですが、そこはほら、あっちを読んだらそっちを読んで、というのがブログ読みのお作法で。僕の場合はまず「サンカって何?」から入りましたから。

・で、記事を追っかけていくと、ヤマダ氏の新作がサンカ小説であるという記述にぶつかったわけです。
「あ、面白そう」と思わされてます。

・さらに、その雰囲気を表現するのに表紙画像を作っているという記事でビジュアルでも責めます。(あ、これはほぼTwitterでしたが、苦手な画像処理に一生懸命になっている姿に、僕なんぞもう……)

・そして、リリース告知記事と直後の無料キャンペーン記事。
「読もう」と思っていただけに、じゃ、無料キャンペーン開始前にポチってしまえ!
と、まんまと術中にはまってしまいました。(改訂後なのでご安心を)

今日は、なんのことはない電子書籍ショッピング記事でしたねえ。

僕はいつも新作発表の前には表紙画像について色々とブログに書いていましたが、肝心の小説の内容をロクに告知していなかったなあ、と反省しきり。
同ジャンルの本をレビューして、ジャンル自体に興味を持ってもらうというのも離れ業だなあと感心しました。
値付けもそう。一般的にはKDPで460円(三冊合わせてだけど)というのは《強気》と思われてしまいがちな金額。これを、ブログ読者が納得できるように、悩みながら書いているのがいいですね。しかも、僕の『孤独の王』より10円高いのに、なんだかお得にすら思えてしまう。
この感じ、後の人の参考になりそうですよね。(って思うでしょ?)

あ、最後に紹介しておきましょうね。新潟文楽工房ヤマダマコト氏の新作、『山彦』発売中ですよ!

 

(今回は何の役にも立たなかったかな……。「淡波、これでブログ読者を失う」とはならないことを祈って!)

電子書籍ってやつを、改めて考えてみた−3

このシリーズも三回目を迎えました。項目立ても7つめとなります。さ、いよいよ少しずつ核心に迫っていきましょう。
今回のお題は【コンテンツ】。

7.入手性

《電子書籍》
・欲しいと思った本はすぐに読書端末から購入、読み始められる
→電子版がなければ、そもそも入手不可。待ってもだめ
→Amazonには電子化リクエストのボタンがあるが、これは「出版社に伝える」だけ。当然、電子化に向けた進捗も分からないし、どれだけの意味があるのかユーザーには全く見えない
→書店で欲しいと思った本の電子版があるとは限らない
→読書できる端末を持ち歩いていなければ、お金を持っていても買えない、読めない

・一旦電子化されれば、廃刊になることはほぼない。と思われる。
→データを提供しているプラットフォーム自体がなくなれば、そこに依存する全書籍は購入不可能に

《5/22 追記:
日本独立作家同盟の鷹野陵さんから、ご指摘が入りました。

鷹野さん、どうもありがとうございます!
商業出版の厳しさを垣間見た思いです。
具体的にどんなケースがあるのか教えてもらわなきゃ!》

・データのコピーは困難
→DRM保護のデータは言うまでもなく、保護されていないデータでも独自形式になっていることが多く、簡単にはコピーできない
→著作権のあるデータはコピーされないことが前提なので、デメリットにはならない
→形式、プラットフォームによるが、(法律で許容される)引用の難しいケースも

《紙本》
・書店にあれば、すぐに買える
→営業時間に、欲しい本の在庫がある書店に行ければ……
→携帯端末を何も持っていなくても、お金さえあれば買って読める

・行きつけの本屋さんを作れば、取り置き、取り寄せも融通がきく
→支払いの自由度もありますね。月末にまとめて払ったり
→新刊が出たことを知らなくても、好みの作家さんを覚えていてくれる本屋さんもあったり!
→カバーとか、キャンペーンのプレミアムなどのおまけを付けてくれることも
→雑談相手にもなったり!

・WEB上の書店で購入すれば、概ね翌日に配達される。コンビニや駅でも受け取れる
→Amazon Primeのように即日配達の仕組みもある

・電子化を待たなくても発売日に入手できる

・いずれ廃刊になる可能性が高い
→廃刊になっても書店に在庫があれば買える
→中古市場が成熟しているため、廃刊本でも手に入れられる可能性はある
(ただし、古本で価値のあるもの)

・図書館にある
→なければ購入リクエストも出せる
→高価な本も無料で読める

・コピーするという入手方法もある
→読みたいところだけ、コピーを取っておける
(図書館、友達、など:法律で許容される利用範囲にとどめましょう)

うむ。電子書籍が圧倒的に有利かと思って書き始めましたが、意外にそうでもないですね。功罪取り混ぜて、一刀両断には出来ない複雑さがありますし。

 

8-a.品質(ものとして)

《電子書籍》
・製本や製造に起因する乱丁、落丁はない
→制作者のミスは論外として!
→論外でも、制作者のミスに起因する乱丁、落丁を防ぐシステムはない。読者からの指摘を待つのみ

・他人の手垢が付いていたり、立ち読みにより傷むことがない
→ずっと読んでいても、自分要因の劣化もない。データは常に新品同様

・ディスプレイのドット抜けがあると読書体験を阻害
→それほどのドット抜けがあるという話は聞いたことがありませんが
(あ、これはHWですね、コンテンツではなかった……)

・どんなに長い本でも1台の端末に収まるし、端末の重さも変わらない
→当たり前だ
→辞書も内蔵されていたりするし!

《紙本》
・時に乱丁、落丁がある
→逆に希少本として価値が出ることも

・お菓子をこぼしたりして一旦汚れると、きれいな姿には戻らない
→図書館で借りた本にはありますね
→一方で、自分で汚した場所は、そこに思い出が宿りますね

・長い本ほど重くなる、大きくなる、字が小さくなる、冊数が増える
→700ページ超のハードカバーを持ち歩くのは大変!
→大辞典系も持ち歩きは無理!

好き嫌いもありますが、若干電子書籍が有利?
8-b.品質(中身)

《電子書籍》
・まさに玉石混交。商業作家とセルフ作家の作品が並列で
→商業作家と変わらないクオリティの小説がある一方で、小学生の作文レベルのものも置かれている
→最低限の審査システムがあった方が良いのではないか、との声も
(ex.KDPやKWLの担当者が、必ず1ページだけ読んで確認するとか……?)

・紙で出版できない長さのものもじゃんじゃん発行できる
→数十ページ程度の掌編小説でも1冊として出版できる
(前項と似てますが……)

・内容に対する審査が存在しないため、どんな内容の本でも出版可能(?)
→差別表現、著作権の侵害なども基本的にノーチェック?
→暴力や性描写の激しいものが(米国で)出版停止になったという話は聞いたことがありますが
(これは、表紙や紹介文から「危ないな」と思われたものを運営サイドがチェックしているのでしょうか?)

《5/22 追記:
こちらにもご指摘いただきました。

鷹野さん、ありがとうございます!
その通りでした。楽天で出版するとき、あとがきや著書紹介にAmazonへのリンクが貼ってあると、出版されないことがあるようですね(iBooksや他のストアは未経験なので分からないのですが)→この追記を書いた後に上に貼った鷹野さんの別のツイートに気付きました……。
僕の『孤独の王 分冊版』では、楽天とAmazonで発売中という表記にして、双方ともリンクを入れました。この場合は、問題なく出版されました。出版したい全プラットフォームへのリンクを並列で入れるのはどうなんでしょうか?
でもきっと、アップルの審査は通らないのだろうけど……》

・内容のメンテナンスが可能
→出版社が発売する電子書籍の場合は、やはりデータ修正〜出版に至るコストが無視できないほど大きいため、めったなことでは修正版が出ることはない
→個人が発売するものの場合は、間違いに気が付けばすぐに修正し再出版可能。内容のアップデートも可能。
(ここに大きな可能性がある!)

《紙本》
・書店売りの本は出版社の厳しい目を通して売り出される商品
(もちろん、自費出版本は除く)
→だからといって、どんな作品でも面白いとは限らない
→著名作家でもとんでもなく酷い本がある
(それでも売れてしまうのか!)

・有名作家のものは多大なコストを掛けて出版・宣伝を行なうため、優良誤認がはびこる
(そのコストを回収しなければならないので)
→売ってしまえばつまらなくても勝ち、という価値観が売る側にあるのか?
→これはどんな商品にでも当てはまることですが、ね

・差別表現、著作権侵害など、倫理的に許されないものは基本的に出版されない
→出版社側が意図して行なう場合もある

・内容のメンテナンスは困難
→「改訂○版」が出るのは、よほど売れている本で修正が必要になったか、内容が社会的に(会社的に)まずかったものに限られそう

さあ、どうでしょう?
これは皆さんが考えてみてください、ね。
すっかり長くなってしまいました。まだまだ話題は尽きませんが、今回のメリデメ合戦はこの程度にして、ちょっと考えをまとめてみます。
「これまでの記事とあんまり関係ないじゃん」というリアクションが聞こえてきそうですが、気にしないことにします。
あくまでもセルフ作家視点でのお話ですが、電子書籍を盛り上げたいのは出版社さんとも変わらないかな、という思いで、以下のまとめを書いてみましたよ。
そうでもないかな……。

【中間結論】

電子書籍は玉石混交。特にセルフ作品は「所詮素人の書いたもんでしょ」と思う人が多いのも事実。せっかくクオリティの高い本があっても、そこに消費者を注目させるのは本人の自助努力に委ねられています。
また、内容が素晴らしくても誤字脱字が多ければ、その素晴らしさもレベルダウンが必至。商業小説が遵守している“日本語の書き表し方の一般ルール”すら知らないで書かれている小説も多いでしょうし、「そんなもの不要だ。小説はもっと自由なんだ」との主張を頑なに守っているセルフ作家もいます。確かに言葉は生きていますし、時代につれてどんどん変化しています。でも、同時代を生きる読者に、無名作家が作品を問うのですから、まずは同じ基礎(地面)の上に立っていなければならないのではないかと僕は思います。

電子書籍全体のイメージアップのためにも、セルフ作品の品質の底上げが必要ではないかと思いますし、内容の推敲までは作家に任せるとしても、校正のレベルでは他者の目が欲しいものですね。

僕が思っている解決法の一つは、セルフ作家同士が発売直後に(理想的には発売前に)相互に作品を読んで、校正をし合うものです。それが運営側からシステムとして提供されるのが本当の姿ではないかと思うのですが……。出版社が校正マンを雇う経費を考えれば、遥かに小さな費用で構築できるのではないでしょうか?
実際に作業をするのは作家同士、運営側はシステムを提供するだけです。

電子書籍は作家に入る印税率が大きいことで注目されますが、運営側に入る印税も決して小さな割合ではありません。多くの世界で、原価は売価の3割程度と言われます。製造から販売までの経路が3段階あれば、各工程の原価は売価の1割程度でしょうか。
例えばAmazonKDPでは売価によって3割〜6割5分を運営側が得ているわけです。つまり、自ら製品を製造しているメーカーと同じ以上、または通常の販売店の売り上げを上回る利益率です。(必要経費はきっと小さいのでしょう……)
商品開発・積極的営業も不要で、作家自らどんどん作品を販売棚にのせてくれますしね。

そこで、サイト上にセルフ作家だけがアクセスできる発売前の書棚領域を確保し、そこから各人の端末にDLして校正するというのはどうでしょう。アクセスの履歴を残し、作家同士が自発的にやり取りして校正し合えば、運営側の負荷は僅かなものになりますよね?
技術的にはあまり具体的なアイデアではありませんが、現在のシステムを少しだけ拡張すれば、充分構築可能なのではないかと思います。(米国Amazonでは何だかそれに似た(?)システムがあるような、ないような……)

電子書籍について、というより、“電子書籍によるセルフ出版について”になってしまいましたね。
さて、まだ続きますよ。次回は【価格】【保存性・保管性】で火花を散らしてみましょう。

この記事が、いつか誰かの役に立ちますように!

では!

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あるセルフ作家さんへのラブレター

Twitterでたくさんのセルフ作家さんをフォローしています。(僕はあまりたくさんフォローしていない方だと思いますが)
作品を気に入った作家さんも何人かいて、「もっと読まれていい小説だ」「もっと知られていい作家さんだ」と常々思っています。僭越ながら勝手に校正のようなことをしたり……(ウザいと思われちゃうけど)

自己出版の人気を底上げし、そのクオリティを知らしめたりクオリティアップに僅かでも助けになろうとすることは、結局自分に返ってくるとの思いもありますから。

さて、今回の記事は、あるセルフ作家さんへのメッセージ。でも、それは一人宛てではなく、この記事を読んでくれた方に、「自分も当てはまるな」と思って頂ければいいなと思って書く記事です。だから、具体的に作品名や作家名は出しません。
(でも分かりますよ、きっと→これで分かるということは、その作品の知名度が大したものだ、ということですよね。ある意味裏山)
なぜ、これを書こうと思ったかというと、「あ、これをこうすればもう少し読まれるんじゃないか?」という気付きがあったからです。それがその作家さん個人だけに当てはまることなら、TwitterでDMを送れば済むのですが、よくよく考えると、これは他の方にも当てはまることかなと。

内容です。前置きが長くなりました。

あなたは自分の作品に略称を付けていますね。とても良いことだと思います。真似したいですが、まだそれに相応しい作品がないので。。
『壁色のパステル』→『カベパス』間抜けすぎ
『さよなら、ロボット』→『サヨロボ』間抜けすぎ
『孤独の王』→『コドオ』意味なし
『ケプラーズ5213』→『ケプ5』なんか吐きそうでしょ
『そののちの世界』→『ソノセカ』あ、これはOK? でも作品イメージにはそぐわないなあ。
(あ、ぜひ呼びたい、と思ったら、使ってみてくださいな)

で、その作品は略称で親しまれているし、ご自分でもそう呼んでいますね。僕は昨晩たまたま、Amazonでその略称を検索しました。結果、なんとその作品が検索結果に出てこないのです。これ、だめでしょ。せっかく浸透している愛称を、検索ワードに入れないと損ですって。
これが一つ目のメッセージ。是非、略称・愛称を検索ワードに登録してください!

第二点。
あなたのブログでは、よく自作について言及していますが、一つ大事なポイントが抜けていることに気が付きました。きっと、全てがそうではないと思いますが、最新の記事では抜けていました。(さあ、どなたかお気付きでしょうか?)
このブログでは、どなたかの作品に言及する時は必ず(抜けもありますが)その作品の販売ページや紹介先へのリンクを埋込みます。記事に数十件のアクセスがあれば、必ずそのリンクを踏んでくれる人がいるからです。
そして、《できる限り手動で外部リンクを埋込むこと》はWEB記事の基本ですよね。これが今どきのSEOの基本だとどこかで読みました。検索エンジンでヒットしやすくなるコツの一つですよね。

そうです、あなたのブログでは、せっかくの紹介にリンクが張られていませんでした。僕はあなたのAmazonページに飛ぶ時、「あ、あそこにリンクがありそう」と思ってブログを訪れ、そこで振られました。そして略称で検索し、振られました。もちろん、著者名で検索すれば一発なんですが、たまたまあなたの作品の表紙に魅かれ、略称に目を留めた人が販売ページに来てくれる確率が、確実に少しだけ下がってしまうのではないかと心配しているのです。

作品名にはすべてリンクを埋めましょう。きっと、踏んでくれる人がいますよ!

いかがでしょうか?

もし、少しでもお役に立てれば幸いです。

あなたの作品が、もっと多くの読者に届きますように!

では!

これは古典だ、傑作だ

牛野小雪さんの新作にして大作『ターンワールド』を読了しました。牛野さんらしく淡々と捩れていく世界にからめ捕られ、仕事で猛烈に疲れていても読むのを止めることが出来ませんでした。
読書中も気持ちは盛り上がり、その世界にどっぷりと浸かり、最後まで気を抜けない作品でした。

“が、”

ただ面白いというのではなく、これを読了した自分と、どう折り合いをつけたら良いのか悩む作品なのでした。作家仲間の新潟文楽工房ヤマダ氏も仰っていましたが、『ターンワールド』は読み手によって全く解釈の変わる作品だと思います。

一言で言えば、《自分(という思い込み)を捨てに行くロードムービー》のような小説です。僕も若い頃、バックパッカーをしていたことがあります。数ヶ月間、テントとギターを持ってヒッチハイクの旅をしたものです。泊まるところがなくて野宿し、野犬(僕の場合はディンゴ)の恐怖に怯えたことも、雨の中、心優しい牧場主に救われたこともありました。だから、主人公の旅が、とりわけリアルに迫ってきました。

でも、主人公が旅に出る先は、不思議に不思議さのないパラレル・ワールド。捩れた旅は、どんどん捩れていきます。
僕は自分のことを“感覚派”だと思っていますが、小説を書いていると、どんどん理詰めになっていきます。アイデアを膨らませたり普通に執筆する時は感覚の命ずるままに、登場人物の喋るままに話が進みます。でも、一旦物語の構成に意識がいくと、まるで理系の研究者のように、何もかも合理的につじつまが合っていないと気が済まなくなり、架空の時代考証やイメージ内のSF考証にやたらと時間をかけたりしてしまいます。きちんと納得の出来る世界を構築できるまでは、どうしても筆を進められなくなってしまったりします。

『ターンワールド』を読んでいて、この手のワナに何度もはまりそうになりました。この作者はこの世界をどうやって構築しているのだろうか、このエピソードの裏には何が潜んでいるのだろう、この不思議な世界の成り立ちはどうなっているのだろう、と。実は、自分の中では牛野さんの提示するこの世界は“こういう事情で出来上がった世界である”と半ば想定しながら読んでいました。SF作家の悪い癖です。(あ、もし僕がSF作家なら、ですが)

ところが、物語は理詰めの解決を見ることなく、どんどん、どんどん、ひたすら先へと進みます。伏線だと思っていたあれこれが、次々に裏切られていきます。あれよあれよという間に物語の終盤が迫り、そして、意外な結末を迎えるのですが、その結末は僕にとって、本来は受け入れ難いタイプのもののはずでした。

しかし、読後感は極めて良いものでした。充実して、感動とすら言える強い感情がじんじんと沸き立ちました。

僕は、芸術作品には2種類しかないと思っています。

観賞し終わって、徐々に心の中での評価が落ちていく作品と、
観賞し終わって、更に評価が上がっていく作品です。

『ターンワールド』は、間違いなく後者の作品です。これは、古典だ。文学だ。そして、傑作です。僕はそう思います。セルフ作家と商業作家という垣根は、もう存在しないのかもしれません。

いえ、最初から存在しないのでしょう。

読者にとっては、ね。