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執筆モードを切り替える─2

ショートショートを書くにはモードチェンジが必要だということに気がついた。
それが昨日の話。

では、どうやって?
それが、今日の話。課題はたくさんある。

・ショートショート独特の雰囲気はどうやって出す?
・粗筋にならずに短く収めるってどうやるんだ?
・セリフをなるべく書かないで人物同士のやり取りを表現するにはどうしたらいい?

答えを言えば、簡単だ。ようは、書くしかない。
書いて、失敗して、書いて、自分でスキルを獲得するのだ。

ネタフォルダをじっくり探索した。ここ何年かで書き溜めた無数のネタの中で、SFショートショートになりそうなものをピックアップする。
(あ、《無数》は誇張ですよ、念のため)
おあつらえ向きなものが、とりあえず2本あった。
頭の中で流れをざっくりと考える。

具体的にルールを決めてみる。

・多重の形容はしない
・セリフはできるだけ書かず、地の文で表現する
・説明はしない
・固有名詞、美的な描写はできるだけ省く

よし、書くぞ。

朝、電車で書き始めた。するする書ける。よし、良い調子だ。朝だけで半分、帰りの電車で半分。今度は正しい書式に流し込んだ時にがっかりしないよう、努めて短めに仕上げる。
家に帰り、Hagoromoに流し込む。数行オーバーしているが、推敲で充分に削れる範囲だ。

読み直す。案外削れるところがない。数行ってのは、結構厳しいと考え始める。
形容詞を削る。描写を削る。ストーリーがちゃんと伝われば大丈夫、と思い、肉付け部分をこそげ落とす。
1時間半ほどの格闘で、何とか収まった。時計は1時半。もう寝なきゃ、と作業を終える。

しかし、面白いという確信が全く持てない。自分のスタイルではない、肉付け部分を削った淡波文体に、果たして魅力があるのか? と自信がなくなる。いや、もともとない自信が、更にシュリンクする。

仕方がない。初めて何とか文字数に収まるものが書けたというだけなんだから。そう思い直し、次の日、また別のアイデアで書き始める。
その日は電車で書けるポジションをなかなか確保できず──つまり満員でiPadを構えることもできず──、途中までで終わってしまった。仕事で疲れてたしね、そうそう毎日書き続けられない。

そして床に入る。
ふと、新しいアイデアが降りてくる。メモりたい。でも寝たい。そこで考えた。
本当に面白いアイデアだったら、絶対忘れない。朝起きて、覚えていて、しかも面白いと思えたら、昨日の話は置いといて、先に書いてみよう。って。

何となく、昨日の話を書いている途中で、勘所がちょっとだけ掴めそうな感じにもなっていたし──。

朝、覚えていた。面白くなりそうだという感覚に嬉しくなる。脳が書きたい気持ちでいっぱいになり、興奮している。
電車に乗り、新しい話を書き始める。
どんどん書く、帰りの電車で書き終わる。家に帰り、流し込んで、文字数を調整する。また、数行溢れていたけれど、頑張って削る。

4度目の挑戦でなんとかいい形になり、ショートショートを書くのがだんだん面白くなってきた。
まだ、どうやったら上手く収まって面白く収斂させられるのかは掴めていない。もっともっと、書き続ける必要がある。
でも、こうやって目的を持って書いていると、ちゃんとそのモードが自分の中に入ってくるということが、自分の中で自信になりつつあるかもしれない。

書いたものが面白いかどうかは、読んだ人にしか決められないんだけど、ね。

では、
この記事がいつか誰かの役に立ちますように!

執筆モードを切り替える

長編、短編、お伽話。
ここ何年かで僕が徐々に獲得してきた執筆モードだ。
今、ショートショートのモードを手に入れるべく、格闘している。

星新一賞に応募するための作品を書いた時は、短編執筆モードだった。文字数制限が10,000字だったから、これまでの短編のやり方で大丈夫だったからだ。結局はなかなか10,000字に収まらなくて相当苦労したけれど、まあ、それでも何とか書き上げることはできた。

群雛の増刊号でSFショートショートの賞が創設されると聞いて、僕はピクリときた。応募してみたいなと思った。でも、応募のレギュレーションを読んでびびった。

・45字×20行を1ページとして、4ページまで

これは、僕にしてみればとんでもなく短い制限だ。文字数にすれば3,600字で、今まで書いてきた短編(しかも短い部類)の3分の1しかない。
ちょっと考え方を変えて、とにかく短く書いてみようと思った。
全編クライマックスの連続で、だれるところが一切ない、説明も描写もない、盛り上がりだけのショートショートなんてどうだろうと思って書き始めてみた。ちょうど、短編〜中編向けのアイデアで向いていそうなものがあったのだ。

電車で書き始めた。
説明を省き、どんどんどんどんクライマックスだけを書いていった。ん、面白いな、こういうの。と思いながら、1日目を終えた。その時点で約2,000字。筋としては多分、全体の半分弱だ。ちょっと長いけど、まあ、削ればいいだろうと思った。

家に帰ってHagoromoに流し込む。書式を45字×20行に変更すると……、あれ? 既に5ページ目に入っているじゃないか。ストーリーの半分弱なのに、文字数はもうオーバー。

何でだろ? と考えてみた。

そうだ、20行で1ページを4ページまでということは、たった80行だ。文字をびっしり埋めれば原稿用紙8枚分の文字量だけど、改行の多いスピーディーな展開では、原稿用紙4枚分しか書けないのだ。
しかもタイトルとエンドマークで4行取られてしまえば、そこで5%は消えている。物語の転換部では空白行を入れたいし……、と考えていくと、内容は70行程度だろう。短いセリフの応酬を数回入れると、もう数分の1は埋まってしまう。

と、考えたところで撃沈だ。
この話はショートショートに向いていない。そう思って諦めた。だって、まだまだ書きたいことが山のようにあって、イメージは膨らむ一方だ。これを無理やり短く収めたって、誰も楽しめない粗筋にしかならないよ。

そうだ。

ショートショートってのは、今まで僕が書いてきたものと根本的に違うのだ。

モードを、切り替えなければいけないのだ。

(明日へ続く!)

( )と。の位置。

正解があるのかというと、きっと正解はある。でもそれを調べてしまうとつまらないので、相変わらず私見だけで書くことにしてしまう。
(書いたあと、こっそりいろいろググってみようと思っている)

本日のテーマは、括弧と句点の位置。だ。

Aさんがこう言いました(それはこういうことだって)。

恐らくはこの書き方が正解だ。

本文、括弧、句点、だ。

ただ、どうしてもこの書き方ではしっくり来ないことがある。

Aさんがこう言いました。(捕捉するとすれば、こういうことでもある)

こんな場合だ。つまり、最初の文章に意味合いとして含まれる直接的な捕捉というより、第三者的な立場で指摘するように括弧内を書く場合だ。
やっぱりここでは、“言いました”の直後に句点を置きたい。どうしても置きたくなる。そして、別の文章として括弧以下を書きたいのだ。
本文と括弧内の文章量にもよると思うけど。

もう一つ。

Aさんがこう言いました。(捕捉するとすれば、こういうことでもある。しかしこれはある意味で、こういうことなのかもしれない)

こうやって括弧の中に長文が入ってくると、やはりその中には句点も含まれるようになる。括弧閉じの前にも句点を打ちたくなるけど、まあそれは我慢。小学校の教科書的には、打っても良いんだよね。公用文としては、《明らかにここで文章が終わっていると分かるので、句点は不要》となるから入れないんだけど。

でもね、

Aさんがこう言いました。(捕捉するとすれば、こういうことでもある。しかしこれはある意味で、こういうことなのかもしれない)。

こうやって、更に句点を打ったりすると、何となく落ち着いた感じがすることもある。括弧内の文章が長くなればなるほど、最後に句点を打ちたくなる。

まあ、本筋を言えば、《括弧で説明しなきゃならないような文を書くなよ》ということになるんだけど、ね。
いろんな書き方があってもいいんじゃないか、という気持ちも、あったりするのだ。

小説はルールじゃない。
表現なんだから、《自分の表現したいものを文字に、文章に落とすためにはどうすれば一番良いのか》、それを考え続けることも大事なんじゃないかな、なんて。
(新人賞に応募するときなんかは、やっぱり公用文のルール通りに書くのが定石なんだろうけど)

今日は、そんなお話でした。
(あ、正解はご自分でググってね!)

この記事が、いつか誰かの役に立ちますように!

ニッチな、とてもニッチな層向けのお話ですがね。

はい、ちょっと開きましたが、それでは《公募に出しました記事》の続きです。

最近は、星新一賞のようにデータで応募できるものが増えてるのかな?
僕はほとんど応募経験がないのでよく分からないのだけど、今後Macでウェブ応募する人の参考になりそうなことがあったかもしれないのだ。
というお話。

星新一賞では、応募可能なフォーマットは「ワード」「RTF(リッチテキスト・フォーマット」「テキスト」だったかと思う。縦書き・横書きは自由。もちろん、僕の愛用するHagoromo形式はNGだ。

僕はいつも小説を書くとき、できるだけ完成した書籍のイメージに近い環境でやっている。縦書きで、フォントはもちろん明朝体。行間にも気を使うし、紙の色もちょっと暗めにしたりする。まあ、これは目が疲れにくいってのもあるけどね。

これがオリジナルの表示状態。この見栄えのまま執筆している。
オリジナルの表示状態。この見栄えで執筆。(アレの応募作ではありません!)

 

さて、今回もHagoromoを使って完成イメージに近い状態で書き進めたわけなんだけど、応募するためのファイルに書き出す段階で、ハタと立ち止まったのだ。
自分が見ているこの状態に近い見かけで入稿したいと思っても、所詮、世間はWindowsが標準だ。Windowsのワード(&標準フォントに標準設定)で書いた小説をワード形式で応募するなら、まあほぼほぼ誰の原稿でも同じような見かけになるかもしれないけど、Macの場合はそういうわけにはいかない。

せっかくのWYSIWYG環境(なんて懐かしい言葉だろう!)も、プラットホームが異なればまるで役には立たない。

RTFは書式を保ってくれるんだったよな、と思い、ちょっと書き出してみる。
それをHagoromoで読み込んでみた。結果は下記の通り。

・ルビ:再現不可
・行揃え:再現された
・文字サイズ:再現不可(妙に大きくなっていて読みづらい。どこかの設定だけが生きてしまうのだろう)
・縦中横:再現不可
・圏点:再現不可
・文字飾り:太字は再現された(他は未使用)

次にiText proで読み込んでみる。
上記に加え、縦書きも再現不可だった。これは意外。用紙も横位置で、これは読みづらい。

次、ダブルクリックして、Mac標準のText Editで開く。うむ、意外に近い。今度は字が小さくて文字数が多めになる。一行も長いし、これも読みづらいな。
(ちなみに、ルビありで書いた文書を書き出したrtfは、Text Editで開くことがが出来なかった)
フォントはいずれの場合もきれいな明朝が保持されているけど。

そうそう、一応、Macのワープロといえば、Pagesもある。あはは、読み込むことすらできなかった。RTFには対応していないのだった……。

次だ。
ワードで読まれるケースが多いのではないかと思い、Libre Officeで読み込んでみた。iText proと同様の状況。

続いてOpen Office。こいつにの明朝体は信じられないくらい読みづらい書体だった。

Open Officeだと書体がこんなことに
Open Officeだと表示がこんなことに

 

元々の書体設定は「ヒラギノ明朝プロ」。それが、Open Officeでは「Hiramin Pro」と表示されている。略称だよな、同じ書体の筈だよな、と思いつつも、信じられないほど汚い。文字間と行間がベタ組みになってしまい、こんな表示では絶対に読みたくない! って強烈に思わせるものだったんだな……。
きっと、Microsoft互換のための処置なんだろうなと思いつつ、うむむ、これはかなりリスキーじゃないかと考え直したのだ。
RTFで出したところで、それがWindowsのワードで開かれたときにどんな風に見えるのか、全然分からないのだからね。きっと、ワード上もしくはワードからプリントされた紙で読まれるのだろうし。

結局のところ僕は、縦書きすら諦めることにした。何の設定もない、改ページも文字寄せもない、プレインテキストでデータを提出することに決めたのだ。

EPUBで出せればいいのになあ〜と思いつつ、それはそれで後のデータ流用が大変だし、印刷もね……とも思うわけで。

まあ、そんな当たり前のところにたどり着くまでに時間がかかったという、アホなお話なんだけど。

結論を言うと、
「Macで執筆しているあなた、文学賞にデータで応募するときは、プレインテキストが良いんじゃないかと思いますよ」
と、いうことでした。

では、この記事がいつか誰かの役に立ちますように!
(立たないだろうなあ)

で、結局《アレ》には送ったの?

と、その前に、言っとかなきゃならないことがあった。9月30日を最後に大幅値上げすると言っていた淡波有料本ですが、諸般の事情で数日延びてます!(本業が忙しくて時間が取れなかっただけですが……)

で、ストアの更新作業をするのは明日の昼頃になりそうだから、早くて10月3日の夕方くらいでしょうか、新価格になるのは。
10月から値上げしますよっていう告知をディジィーさんがブログで紹介してくださったりツイートしてくださったお蔭さまで、9月29日、30日の二日間は、今までにないほど売上げがあったんです──と、言っても一桁──が、10月に入ってからがくりと落ちて……(あれ、やっぱりこういう話をするときはですます調でないと違和感ある)。

まだ、もう少しの間は現状の価格ですからね、このページの右側に並んだ著作にもし気になった本があれば、無料本からちょこっと読んでみてはいかがでしょ。で、新価格になる前に有料本を読んでね、というお誘いだったりして。
(その日のうちに両方に手を伸ばしてね、という強引さも、時には必要なのだ)

では、次の話題、メインの話題に行きましょ。
《アレ》の結論はと言うと、もっちろん送ったのだ。星新一賞。
何とか3,200字あまりを削って書き終わった後、校正しながら読み直してたんだけど、文字数がいったん規定以下になると、それから先の修正はそれほど辛くないということが分かった。

これはちょっとした収穫だったかな。いつもは文字数を気にしないから、こういう制約も悪くない、ってね。
ちょっと書き足してはちょっと削る、の繰り返しで、徐々にバランスをもう一回整え直すことができたのだ。

まあ、美味しいところはかなり削ってしまったけど、それはそれ、そもそもあの文字数の短編に盛り込むには無理のあるエピソードなんだからと思って割り切ることにしたら、気が楽にもなったりして。

作品に自信の程は?
あ〜、ないない。全然ない。下読みは通るかな、せめて。というくらい。
そこそこ理系で、アイデアは悪くないとは思ってるけど、まあ、使い古されたネタだし、ちょこっとだけ視点が新しくて、ITっぽい概念を作ってみたりしたくらいかな。つまらなくはないと思うけど、《賞》って言うとね……。
うーん、普通に短編集に入れて、面白いとは思ってもらえそうかなというレベル。
「99円ならぜ〜んぜん損はないぜ、むしろすげーおトク!」って感じ。
読んでくれた人が面白がってくれたらいいなあと思いつつ。

とまあ、そんな感じです。
前回の記事を読んだ人は、当然出したでしょ、と思ったでしょうしね、わざわざブログで記事を立てるほどのことでもなかったなあ。

ところでところで、公募と関連してちょっと書いておきたいことが一つ出て来たんですよ。最近の公募って……、

はい。時間切れ。

では、続きは明日!

(ますます盛り上がる『フックフックのエビネルさんとトッカトッカのカニエスさん』もよろしくねッ!)

ところで公募の「あらすじ」ってのは、何のためにあるんだろう?

調べれば分かることかもしれないけど、そうすると記事を書くモチベーションが落ちてしまうのでね、まずは自分の思うところを書き連ねてみようと思う。

あらすじは、客観的な概要を短くかいつまんで書くものだよね。
だから、作家の個性はほとんど現れない(表れない?)のではないかと思っている。文体とか、さ。

僕の考えた用途は、以下の四つくらい。

・受賞後に、または途中経過発表で作品の紹介に利用する。
・応募者が自分で客観的に内容を把握し直せるよう、応募前に考えさせる。
・下読み、または審査に回す時、それぞれの方に合うような作品を抽出しやすいように。
下読み後の作品は、審査員全員が読むのでしょうか? 応募数にもよるだろうけど。
・下読みの、または審査の負担を軽減するため、あらすじだけを先に読む。
それでつまらなそうなら、本編は読まない。

四つも可能性が思いつけるなら、まあ必要なものなんじゃないかとも言えるけど、最初に思ったのは、やっぱり四番目のものだった。これ、もしそうだったら止めていただきたいものだ。

僕の書くものは決してはそうではないと思うけれど、それをやられちゃうとどうにもならんというタイプの作品があると思うんだ。素晴らしい文体、美しい描写、深い人物造形に哲学的な掘り下げ、など、あらすじの文章からは想像できない魅力ってのがたくさんあるよね。
でもそれを、応募作のあらすじに書くわけにはいかないもの。キャッチコピーじゃないんだからさ。

特に純文学系の作品などは、あらすじなんかじゃ絶対に分からないと思うし。
でしょ?

作者の力量は、1ページ読めばそこそこ分かると言われてる。
であれば、作品をちゃんと読むかどうかを決めるのにあらすじは不要だ。最初の1ページを読めばいい。そこをおろそかにしてる応募作はないだろうし、審査員にとっても読む時間は変わらないだろうしね。

まあ、ちょっとした独り言、だけど。
だけど、ってね。

ではまた明日!
エビネルさん、盛り上がってるんだから)