作家は透明な存在であるべきか、色付きの存在であるべきか。

ああ、素人作家が大きなこと言ってるよ、と、
笑いながら読んでくれれば嬉しい。かな。

色のない作家の作品など、誰も寄り付きはしない。
人間味、人間性、正直さ、真っ当さ。
非人間味、非人間性、大嘘つき、悪らつさ、計算高さ。
見栄よりも、明け透けな個の開陳。
裸の個性。
頭脳と感性。

出来事にプラスされる、それらの要素──。

作家の個性の透明度はどのくらいだと良いのだろう?

アイデアなど、どうでもいい。とは言わない。
でも、
本当に個性的で誰にも思いつかないようなアイデアなんて、
そうそうありはしない。
それを追い求めることも必要だけれど、
それがなければ書けないなんてことは全然ない。
決してない。

大事なのはアイデアではない。と思っている。
そのありきたりなアイデアを、
作家というフィルターを通した時にどんな素敵な物語に昇華できるか──。
そういうことなんだろうと思う。

誰の目で読んでも、小説の文字は一緒だ。
でも、心に残る内容はそれぞれ違う。
誰の目で見ても、世界の出来事は一緒だ。
でも、その出来事が意味していることは、幾通りも幾通りもある。
それこそ、無限にある。

三題噺のように、取っ掛かりだけを用意して色んな人が書けば、当然全く違う物語が生まれるだろう。
でも、完全に同じ内容を書いても、
出来上がる物語は作家によって全く違うものになるだろう。
同じ内容なのに、
喜劇になり、
悲劇になり、
テーマも全然違ったり。
長さもまちまちだろうし、
本当に同じ内容を書いたのかすら、
分からないものも出来上がるだろう。

それが、たくさんの、
いろいろな個性の創作家が存在できる理由なのだ。

美術も、音楽も、文学も、舞踏も、ゲームも、創作と名のつくものは全て、
表現者の個性によって初めて魅力が与えられるものなのだろう。

(今日は散文だか詩だか分からない、変な記事だった──)

じゃ、また明晩!
(いよいよ、新連載開始か──!?)

ここらでもう一度、予告をしちゃおう!

じゃーん、この冬の刊行予定だよ。この冬も、新刊ラッシュを敢行だ!
(予定は予定だけどさッ)

【12/6】
『フックフックのエビネルさんとトッカトッカのカニエスさん』刊行!
刊行と同時に無料キャンペーン。終了後、1週間は99円、その後は250円に。
※刊行時以外にキャンペーンを行なうことはありません!

もちろん、執筆中の『ルルルとリリリ』の連載も、ここ、淡波ログでこの日に開始!
(本当に大丈夫なのか、まだ分からない状態・・・)

【12/16】
初の詩集『猫になりたい』刊行!
刊行と同時に無料キャンペーン。終了後、1週間は99円、その後は150円に。
※刊行時以外にキャンペーンを行なうことはありません!

【12/26】
短編集『光を纏う女』刊行予定(予定!)
本編の他に掌編を2点収録。
刊行後、1週間は99円、その後は200円に。
※KDPセレクト登録不可のため、無料キャンペーンを行なうことはありません!

【1/6】
短編『ガラスたちの永遠』(仮題)刊行!
刊行と同時に無料キャンペーン。終了後、1週間は99円、その後は150円に。
※刊行時以外にキャンペーンを行なうことはありません!

【1/16】
短編『太陽のこども』(仮題)刊行予定!
刊行と同時に無料キャンペーン。終了後、1週間は99円、その後は250円に。
※刊行時以外にキャンペーンを行なうことはありません!
(1/22追記:ボリュームが増えたので定価250円としました。タイトルは『太陽の子孫』です。ここまでは予定通りこなしたよ〜!)

【1/26】
この日発売の別冊群雛のショートショート大賞に応募したよ。
縁があれば掲載されるかも!(おいおい、縁というよりは実力があれば、だろ?)と突っ込みの声……。
(1/22追記:別冊群雛、2月の初めに発売延期ですね)

【2/6】もしちゃんと終わってれば、しかも準備が間に合えば『ルルルとリリリ』を刊行。かもしれない。
お話がちょっと伸びてるので、ちょっと厳しそうな予感が……
(1/22追記:全然終わりません。暫く続きます!)

さてさて、どこまで実現できることやら……。
(未定の予定ばっかりじゃん、って言わないで)
しかも、これじゃあまた既刊の多店舗展開に割ける時間がないじゃないかぁ──。

では、乞うご期待!

山田佳江著『リーディング・ナイフ』を読んだ!

遅ればせながら、あの有名作品『リーディング・ナイフ』をようやっと読んだ。ずっと気になってたんだけど、タイミングが合わず、で。

読み終わった瞬間、固まった。で、悩んだ。ドウシテ・コンナ・オワリカタヲ・スルンダ・コノ・ショウセツハ・・・・、ってね。

何しろ凄い巧さ、面白さ、この読者を引きつける力は只モノじゃあない。もう、相当興奮して読んでた。眠いのも忘れてどんどん読んでた。
どうなるんだろう、どうなるんだろう、どうなるんだろう──って、期待に胸を膨らませて、わくわく読んだ。そして、最後にいきなりドーンって、肩をどつかれて吹っ飛ばされた感じだった。

え?
え?
え?

どう考えたらいいのか、ちょっと分からなかった。イライラしながら、そのまま寝たんだ。
朝、目が覚めたら、ずっとリーディング・ナイフのことを考えてた。
こんなに面白い小説なのに、《○ラサワ○オキ・エンディング》のはずはない。考えろ、感じるな、考えるんだ、と、僕は自分の中のブルース・リーに逆立ちをさせて、考え続けたんだ。

で、気づいた。

まず、タイムループネタって、そもそも理屈では説明不能でいいものなんだよな。タイムパラドックスとか、パラレルワールドとか、自分と出会うと世界が終わる、みたいなところを超越した土台の上に、物語が構築されている。
そして、それを納得させるための数々の仕掛けがキチンと埋め込まれていたことを、どんどん思い出した。身勝手な展開なんて何もないじゃん、この小説の世界の中で、ちゃんと、納得できる物語が構築されてるじゃんか、伏線だっていっぱいあるじゃんかと、僕は徐々に思い出した。気づかされた。

ああ〜、ダメな読み手だなあ、表面的に追いかけてたなあ、と反省しきり。
どうも最近よく反省する……。

読者がよく考えて読まないといけないお話というのはマイナスになることもあるけど、この小説の場合、それはちゃんと成功していると思う。
(僕はミステリーをほとんど読まないので、そういう読み方に慣れてないんだろう、な)
なにしろ忘れられなくて、二日間くらいずーっと考えてた。この世界はどうなってるのか、ドウシテそれが起きたのかって。現実のことを考えるみたいに、ね。
それがまた、面白かったのだ。

こうやって、読み終わった後でも読者の心を捉えて放さない物語を生み出したいなあと、強く思った。

山田佳江さん、本当に上手いですね。いやあ、参った。
本屋さんで売ってても全く遜色ないもの。変なベストセラーよりよっぽど面白い。

未読のあなた、ぜひどうぞ〜!

じゃ!

執筆モードを切り替える─2

ショートショートを書くにはモードチェンジが必要だということに気がついた。
それが昨日の話。

では、どうやって?
それが、今日の話。課題はたくさんある。

・ショートショート独特の雰囲気はどうやって出す?
・粗筋にならずに短く収めるってどうやるんだ?
・セリフをなるべく書かないで人物同士のやり取りを表現するにはどうしたらいい?

答えを言えば、簡単だ。ようは、書くしかない。
書いて、失敗して、書いて、自分でスキルを獲得するのだ。

ネタフォルダをじっくり探索した。ここ何年かで書き溜めた無数のネタの中で、SFショートショートになりそうなものをピックアップする。
(あ、《無数》は誇張ですよ、念のため)
おあつらえ向きなものが、とりあえず2本あった。
頭の中で流れをざっくりと考える。

具体的にルールを決めてみる。

・多重の形容はしない
・セリフはできるだけ書かず、地の文で表現する
・説明はしない
・固有名詞、美的な描写はできるだけ省く

よし、書くぞ。

朝、電車で書き始めた。するする書ける。よし、良い調子だ。朝だけで半分、帰りの電車で半分。今度は正しい書式に流し込んだ時にがっかりしないよう、努めて短めに仕上げる。
家に帰り、Hagoromoに流し込む。数行オーバーしているが、推敲で充分に削れる範囲だ。

読み直す。案外削れるところがない。数行ってのは、結構厳しいと考え始める。
形容詞を削る。描写を削る。ストーリーがちゃんと伝われば大丈夫、と思い、肉付け部分をこそげ落とす。
1時間半ほどの格闘で、何とか収まった。時計は1時半。もう寝なきゃ、と作業を終える。

しかし、面白いという確信が全く持てない。自分のスタイルではない、肉付け部分を削った淡波文体に、果たして魅力があるのか? と自信がなくなる。いや、もともとない自信が、更にシュリンクする。

仕方がない。初めて何とか文字数に収まるものが書けたというだけなんだから。そう思い直し、次の日、また別のアイデアで書き始める。
その日は電車で書けるポジションをなかなか確保できず──つまり満員でiPadを構えることもできず──、途中までで終わってしまった。仕事で疲れてたしね、そうそう毎日書き続けられない。

そして床に入る。
ふと、新しいアイデアが降りてくる。メモりたい。でも寝たい。そこで考えた。
本当に面白いアイデアだったら、絶対忘れない。朝起きて、覚えていて、しかも面白いと思えたら、昨日の話は置いといて、先に書いてみよう。って。

何となく、昨日の話を書いている途中で、勘所がちょっとだけ掴めそうな感じにもなっていたし──。

朝、覚えていた。面白くなりそうだという感覚に嬉しくなる。脳が書きたい気持ちでいっぱいになり、興奮している。
電車に乗り、新しい話を書き始める。
どんどん書く、帰りの電車で書き終わる。家に帰り、流し込んで、文字数を調整する。また、数行溢れていたけれど、頑張って削る。

4度目の挑戦でなんとかいい形になり、ショートショートを書くのがだんだん面白くなってきた。
まだ、どうやったら上手く収まって面白く収斂させられるのかは掴めていない。もっともっと、書き続ける必要がある。
でも、こうやって目的を持って書いていると、ちゃんとそのモードが自分の中に入ってくるということが、自分の中で自信になりつつあるかもしれない。

書いたものが面白いかどうかは、読んだ人にしか決められないんだけど、ね。

では、
この記事がいつか誰かの役に立ちますように!

執筆モードを切り替える

長編、短編、お伽話。
ここ何年かで僕が徐々に獲得してきた執筆モードだ。
今、ショートショートのモードを手に入れるべく、格闘している。

星新一賞に応募するための作品を書いた時は、短編執筆モードだった。文字数制限が10,000字だったから、これまでの短編のやり方で大丈夫だったからだ。結局はなかなか10,000字に収まらなくて相当苦労したけれど、まあ、それでも何とか書き上げることはできた。

群雛の増刊号でSFショートショートの賞が創設されると聞いて、僕はピクリときた。応募してみたいなと思った。でも、応募のレギュレーションを読んでびびった。

・45字×20行を1ページとして、4ページまで

これは、僕にしてみればとんでもなく短い制限だ。文字数にすれば3,600字で、今まで書いてきた短編(しかも短い部類)の3分の1しかない。
ちょっと考え方を変えて、とにかく短く書いてみようと思った。
全編クライマックスの連続で、だれるところが一切ない、説明も描写もない、盛り上がりだけのショートショートなんてどうだろうと思って書き始めてみた。ちょうど、短編〜中編向けのアイデアで向いていそうなものがあったのだ。

電車で書き始めた。
説明を省き、どんどんどんどんクライマックスだけを書いていった。ん、面白いな、こういうの。と思いながら、1日目を終えた。その時点で約2,000字。筋としては多分、全体の半分弱だ。ちょっと長いけど、まあ、削ればいいだろうと思った。

家に帰ってHagoromoに流し込む。書式を45字×20行に変更すると……、あれ? 既に5ページ目に入っているじゃないか。ストーリーの半分弱なのに、文字数はもうオーバー。

何でだろ? と考えてみた。

そうだ、20行で1ページを4ページまでということは、たった80行だ。文字をびっしり埋めれば原稿用紙8枚分の文字量だけど、改行の多いスピーディーな展開では、原稿用紙4枚分しか書けないのだ。
しかもタイトルとエンドマークで4行取られてしまえば、そこで5%は消えている。物語の転換部では空白行を入れたいし……、と考えていくと、内容は70行程度だろう。短いセリフの応酬を数回入れると、もう数分の1は埋まってしまう。

と、考えたところで撃沈だ。
この話はショートショートに向いていない。そう思って諦めた。だって、まだまだ書きたいことが山のようにあって、イメージは膨らむ一方だ。これを無理やり短く収めたって、誰も楽しめない粗筋にしかならないよ。

そうだ。

ショートショートってのは、今まで僕が書いてきたものと根本的に違うのだ。

モードを、切り替えなければいけないのだ。

(明日へ続く!)

貧乏くさい話。 ティッシュの話。

ティッシュの再利用はしてる?

そんなこと言われても、何のことだか分からないあなた。ダメです。資源を無駄にしてます。
────なんてね。

僕も昔はね、そんなことは考えたこともなかった。環境コンサルに務めていて人一倍地球環境に感心が高かったと思っていたけど、ティッシュは一度使ったら捨てていた。

当然────?

今は違うんだな、これが。
ちょっと鼻水を拭いたティッシュ、ちょっとだけ口を拭いたティッシュ。これはね、乾いちゃえば新しいティッシュも同じ。不潔? 病気になる?
そんなこと、気にする必要なし。

もう、きっと15年以上になるかな。発端は、妻のお祖母さんがそうしていたこと。エプロンのポケットにティッシュが入っている。ちょっとテーブルに何かがこぼれると、ササッと拭く。捨てないでしまう。
あ、そうか、もったいなかったな、今まで。そうやって気にしていると、妻のお母さんも、妻もそうしていた。
子供が口を汚す、鼻を汚す、エプロンのポケットからサッと出して、サッとしまう。そうだよ、ちょっと子供たちの鼻水を抑えたくらいで、毎回捨てていたらもったいなさ過ぎる。
だって、子供たちはどんどん汚すでしょ、こぼすでしょ、それに毎回新しいティッシュを使って捨てていたら、ゴミ箱がティッシュだらけになっちゃうし、すぐに箱が空になっちゃう。

1ケ所くらい汚れたって、まだまだ白い部分はいくらでも残ってる。ティッシュ1枚の使いでって、思ってるよりずっとあるものなんだから。丈夫だしね。

これが習慣になると、ティッシュの消費量が劇的に減りますよ。

今日も僕のポケットには、使いかけのティッシュが入っている。もちろん、自分で使うためにね。

どう?

────やってみない?

では、また明日!

BGMってよくワカラナイな

子供の頃、西城秀樹さんが言ってた。
「勉強に集中したい時は音楽をかけるといいよ。あ、あの曲を聴いてた時にやってたところだ、って、テストの問題をやりながら思い出したりするんだ」

ふーん、と思ったけど、僕は真似しなかった。音楽をかけると夢中で聴いてしまい、しかもすぐに歌いたくなって、勉強に身が入らなくなるからだ。

高校時代から大学にかけては、絵を描きながらずいぶん音楽を聴いた。というより、絵を描く時に、音楽は欠かせないものだった。
美術と音楽、脳の似た部分を使う気もする。むしろ邪魔なんじゃないかって、思ったりもする。描いているものが音楽に影響を受けすぎるんじゃないかと、思ったりもする。

だったら、勉強しながら音楽を聴けるってのは、むしろ違う部分だから良いってことか? とも思うけど、どうもよく分からない。

むかし、よく言われた。
「君の音楽は絵画的だね、情景が浮かぶよ」って。
これは、音楽と美術が互いに良い影響を与えていたのかな、なんて思う。

で、今。
小説を書きながらBGMをかけてる人の話をちらほら聞く。いや、頻繁に聞く。

僕はできないんだなあ。執筆に集中したい時は何も聴きたくないし、そもそも集中していると何も聞こえない。人に呼びかけられても聞こえなかったり応えられなかったりするし。
だから、音楽がもったいない。ごくたまにかけていても、何も聴かずにいつの間にかCDが終わってたりする。

自分が不器用なのか、音楽をやってるからなのか分からないけど。あ、音楽をやってる人だってBGMかけるよなあ。
少なくともね、歌詞のある歌は小説を書きながら聴けないな、僕は。
そうすると、音楽を聴く時間って、本当に少ないんだよな……。休日の大半は何かを書いてるし、読んでるし。
そうそう、CGを作ってる間は聴いてるかな。

音楽をかけながら小説を書く癖をつけたなら、いつか言われるようになったりするものだろうか?
「君の小説からは、音楽が聴こえる!」なんて。

どうでも良い話。

菓子パンの個数は……?

ときおり、どうしても菓子パンを食べたくなることがある。お休みの日の昼食とか、出張の新幹線の中とか。
僕は元々パンが大好きで、朝はパン食だし、昼も週の半分はパンでもいい。

で、昼食のパン。もしくは菓子パン。

若い頃は、パンを食事にする時は必ず三つ食べていた。
────いや、つい数年前まで三つ食べていた。
・チョコパン、あんパン、カレーパン
・あんドーナツ、めんたいフランス、サンドイッチ。
・レーズンパン、くるみのパン、ピザパン
・チョコデニッシュ、アップルパイ、チェリーのペストリー……

たまに、コンビニやスーパーでお年寄りがパンを買っているところを見ることがある。菓子パンをたった一つだけ、おじいさんが大事そうに持って、レジに持っていくところを眼にすることがある。
パン、一つ?
何で?
他のものを一緒に食べるんだろうな。

そう、考えていた。

が、45歳を過ぎた頃だろうか、三つ食べるのがちょっと厳しくなっていた。いや、きっと、歳のせいだけじゃなくて、運動不足や慢性疲労など、いろいろあるんだろう。
しかし、脂っこいパンや甘いパンを三つも食べると、必ずお腹を壊すようになっていた。妻は、それはストレスだよ、食べ物のせいじゃないから。と言っていた。
でも、僕にも段々自分の身体のリズムが見えてきていた。食べ終わって30分くらいすると、下腹が悲しい感じで重くなってくる。
ああ、だめだな、こりゃ。って。

そうして、僕はパンの量を二つに減らした。

歳を取るのはまだ怖い。
(それはまだ僕が充分に若い証拠だな──)

でもいつの日か、パンは一つで充分、という日が来てしまうのだろうか?

大食いの老人ってのもパワフルでいい感じ?
ステーキをがつがつ食べて、大酒飲んで、ガハハっと笑う。そんな歳の取り方も悪くない。

でもきっと、僕はそういう老人にはならないのだろうな。
慎ましやかに、たった一つの菓子パンを吟味して、大事に両手で持ってレジに持っていくのだろう。そしてゆっくりゆっくりかじり、ああ、やっぱり工場のパンは不味いな。次はちゃんとパン屋さんの焼き立てパンを食べたいな、などと思うのだ。

願わくば、そんな日がやって来るのがあと30年は先でありますように!

(あ、フィクションですよ、フィクション────)

じゃあまた明晩!

文体と作風

《文体》っていう言葉をよく聞くけど、これは他の芸術における《作風》とはちょっと違うのかな、と思っている。
そうそう、文体と作風ってのは似ているようで別物なのだろうかな?

例えば、「美味しそうなりんご」。
これを、「美味しそうなりんご」という言葉を使わずに文章で表現しろと言われれば、きっと、人によって千差万別の書き方が生まれるだろう。
だけど、「りんご」自体の書き方は、漢字・カタカナ・ひらがな・英語、せいぜいフランス語止まりで数種類しかないだろう。日本語の文章の中で、日本人が共通認識として理解できる表現としては、ね。

そこが、きっと文学という芸術の特殊性なのではないかな、と思う。

しかも、だ、電子書籍に限って言えば、書体も色もそのサイズも、何も決めることができない。読者の環境によってさまざまだから、青くて硬い書体で「りんご」と書こうが、赤くて優しい書体で「りんご」と書こうが、読む人には関係ない。まあ、ある場合もあるけどさ。
だから、文章で個性を出そうと思ったら、内容で差をつけなければならないわけだ。

美術で考えてみる。
「どんな」と言わなくたって、「りんご」は多種多様なものになるだろう。それこそ、技術の巧拙も含めて、全く同じりんごの絵にはなかなか、いや、決してお目にかかれないだろう。
ある程度上手い人に対して画材を指定し、どんな風に見えるかを指定し、描き方すら指定しても、同じりんごには決してならない。
“ある程度”上手い人の絵は“ある程度”似てくることがあるけど、それを超えた人たちの絵はまた異なってくる。それが、自分の画風を獲得するということでもある。

音楽もそう。
もちろん、同じ楽器を使えば(特にデジタル楽器)、ある程度似た表現にはなるだろう。が、まあそもそも音楽でりんごを表現することはできないから、比較するとすれば歌になるのかな?
(インストの音楽で「りんご」を感じさせるように表現するのは至難の業だろう)
歌は、それこそ人それぞれだよね。声が全く同じ人は一人としていないし、元の声が似ていたって、歌い方、声の出し方、音程……、もう、全然違うものになるための要素が山ほどある。

そして、文学だ。
文学では、りんごを書かなくてもりんごを感じさせることができる。りんごについて書くことができる。
でも、直接「りんご」と書いてしまうと、そこには個性も何もない、誰でも同じになってしまう。
そこが一つの、文体作りのヒントなのかもしれないね。

作品によって、それを表現するための作風によって、それを書く文体をコロコロ変えられる天才みたいな作家がいる。作風と文体は密接にリンクしているけど、イコールではなさそうだ。
(ああ、文学を学んだ人に笑われそうだな──)

僕の文体は、どんな話を書いてもそうそう変わらないような気がする。そんなに器用じゃないしね。でも、作風は、書くジャンルによっていろいろ変えられるような気もする。
(まあ、ハード風のSFと童話を同じ作風では書けないよね)

素人作家が自分の個性を確立していくために、文体を作っていくことはとても重要なのだろうなと思う。でも、それをどうすればいいのかは分からない。
(ああ、文学を学んだ人にとっては「基本のき」だったりするのかな? いや、それはきっと、永遠のテーマなんだろう。美術や音楽だってそうだもの)

書き続けて、読み続けて、書き続けて、直し続けて、また読んで、書いて、書き続けて……。そうやって少しずつ、自分のスタイル(=文体)を獲得していくのだろうか、な?

そうだ、美術における画風とか、音楽における作風なら、僕にも少しだけ分かることがある。
とても若い頃、それは作るものではないと思っていた。
「そういう風にしかできないから、それがその人の作風になる」
そう思っていた。

だけど、それはそうじゃない。
上手い絵を描けば描けるけど、一見下手な絵を描く人がいる。それはなぜだろう?
目立ちたい?
人と違うものを描きたい?
────いや、それはちょっと違う。

自分の表現したいものは何か?
どうやって描いたら、自分の表現したいものに近づけるか?
それは、そのスタイルは、《今まで自分が好きになったもの》、《触れてきたもの》、《考えたこと》、そういったことの全てが、自分の心の奥底に働き掛けて、生まれてくるものなんだと思う。
いや、自分で生み出していくものだと思うんだ。

待っていても勝手に自分のスタイルは出来上がらない。
だからと言って、闇雲に「こうしよう」と思っても自分らしさが欠けてしまう。
そういうものだ。
それは、自分の心とずっと対話し続けて、《目指すもの》と《できること》が一致した時にこそ生み出せるものなのかもしれない。

誰の役にも立たない、困らせるだけの記事──。
だったかな?

じゃあまた明晩!

シャッターチャンス、アイデア、記録と記憶。

ああ、写真を撮りたいな、と思った瞬間は、それが叶わないことが多い。外出しているときの大半は、何かしら先を急いでいるときだ。
水たまりの底に沈むタンポポのロゼット。心なしか、普段より葉を伸び伸びと広げているように見える。
地面を覆う濡れ落ち葉、艶々と光り、雨のどんよりした世界に気づきと喜びを運んでくれる。

本当は一眼レフを持ち歩けたらいいのにと思う。でも、出勤時に肩からそんなものをぶら下げているわけにもいかないし、撮っている間に電車は行ってしまう。iPod touchでパシャリとやるのがせいぜいだし、それもろくに見ないで撮るからピントすらあっていないことも多い。
接写したいときなどは、ピントの合う距離を考え出来上がりを想像しながら、とにかくどんどんシャッターを切る。10枚撮ってもピンぼけだらけで、使えるのは1枚か2枚だ(デジタル写真は「枚」と数えるのか?)

ふと、メロディを思いつく。あるいは、降りてくる。ああ、降りてきた、と思う。メモ録音しなきゃ、と思う。
できない時は、頭の中でそれをぐるぐる繰り返す。そうすると、メロディが徐々に単純化される。整理されて良くなる場合と、逆につまらないものに成り下がってしまう場合がある。
紙とペンと時間があれば、譜面に落とす。でも、これは後で振り返らずそのままになってしまうことも多い。
iデバイスとイヤフォンがあれば、DAWに入力してしまう。最近はこれも多いけど、こういったスケッチも断片がどんどん溜まってカオス化してしまうことが多い。ファイルを開いて再生し、聴き込まなければどんな曲だったかわからないし、インストはファイル名だけで作りかけメモの内容を思い出すことも難しい。

振り返って、小説のアイデアはいいね。思い付いたら、メモする。書けない時は、頭の中でそのアイデアをどんどん育てて膨らませ、掘り下げることができる。実際に書くときには考えたことと違ってしまうこともあるけど、それはそれで面白い。ただ、完全にどこかへ消えてしまうということはない。
そして、書いたものはデバイスが変わっても、時間が経っても、そうそう消えることはない。
(完全に文字化けして読めなくなってしまった詩もあったけど)
テキストはさっと確認できて、内容を後から確認しやすい。追加や修正も簡単だ。タイトルだけ見れば、割とすぐに内容を思い出せる。
こうやって、小説のアイデアはどんどん溜まっていく。書くスピードが、全然追いつかない。
せっかく書くなら、また新しく考えて書きたい、なんて思ったりもする。

まあ、何にせよ、アイデアを生む行為ってのは楽しい。それを頭の中でああだこうだこねくり回すのもね。

こうして僕は、《創作という呪縛》から一生逃れられないのだろうな、と思う。

じゃ!

淡波亮作の作り方