まあ、当たり前のことですよね。
文章がへたでもいい小説を書く人がいるかもしれないし、という逆もあり。
いい小説とうまい小説は違うし、いい文章とうまい文章も大きく違う。
うまい文章といい小説は、もう天と地ほどに違う。
そんなことを考えていて、ちょっと思い出したことがあるんですよ。
それは、粘土による造形のこと。
その昔、高校生だった頃、僕は美術研究所(いわゆる受験予備校)に通っていました。そこで初めて粘土による彫塑の授業を受け、ちょっとしたショックを受けたのです。
最初の課題は、立方体を作ることでした。
僕をはじめとした、初めて油土を使って立方体を作ったメンツは、表面を平らにしようとして指でこすり、つるつるぬめぬめの立方体もどきを作りました。
もちろん、全て手作業で完璧な立方体なんて出来るわけがありません。
みな、作っているものは「もどき」なのです。
ただ、高校生の中に混じっていた浪人の先輩は、全然違いました。
彼はざっくり作った四角い塊の表面に定規を当てながら、小さく千切った粘土の粒を置いてゆきます。
時にはへらで大胆に削り取り、また粒を置いてゆきます。
僕らみたいに、撫でたりこすったりして整形してはいません。
それははじめ凸凹で、僕らの作っているものの方がずっと立方体というゴールに近いように見えました。
でもそれは、まるで段々ピントが合ってゆくように、かっちりした立方体になってゆきました。
僕らの作る立方体は、なんだかどうしても波打ったりバランスが悪かったりして、最後まで立方体もどきにしかなりませんでした。
そう、立方体という言葉の持つかっちりしたソリッドさを、僕らのなでくり回した油土はどうしても最後まで獲得することは出来なかったのです。
でも、先輩の作った立方体は違いました。
それはもう、どこからどう見ても立方体でした。
ところどころ穴が空いていたり、角が欠けたりしていました。でも、それは油土で作った立方体以外の何ものでもありませんでした。
それは、油土の質感すら超越していました。
なんと言ったらいいのか、そう、ブロンズの彫刻のような硬さと、重さを感じたのです。
僕らの作ったものはただの粘土の塊に過ぎません。
先輩の作ったものに感動を覚えると共に、自分たちが表面しか見ていなかったことに対してとても恥ずかしい思いが湧いてきたことを覚えています。
仏師は、木の中にいる仏様を彫刻刀で彫り出して差し上げるのだ。
よく言われることでよね。
たかが立方体でしたが、それはとてつもなく強烈な体験として残りました。
僕らの作ったもどきを見て、先生は笑いました。
「だめだよ、表面ばっかりなでくってちゃ。形を見て作んなきゃ」
小説を書いていて、同じような思いにとらわれることがあります。
ずっと文章を書いてきたので、それなりにまとまった読みやすい文章を書ける自信はあったりします。
でも、それは創作とは何の関係もないことなんですよね。
文章の中に物語が生まれるためには、表面をきれいにまとめる技術なんか助けになりません。
読者が信じてくれる物語を生み出すためには、その中にやがて生まれるはずの命が、きちんと見えていなければならないのでしょう。
こすったり、撫でたりしない。
削って、載せて、置いて、削って、押す。
そんなことを考えながら、鍛練を続けます。
今夜はこのへんで!