ども。
今晩は、創作におけるコピーとカバーについてちょこっと考えをめぐらしてみます。
バンドなんかをやってると、コピー(=ある曲をそっくりに演奏する)っていう行為がとても日常的なものなんだろうと思う。
でもね、僕はほとんどこのコピーってやつをしたことがないのだ。
好きな音楽、自分で演奏したい音楽はいっぱいあるけど、そっくりにやろうとすること自体がもう、面倒くさくなってしまう。
それじゃあかんと思っている。何のためにコピーをするかっていうと、それは自分で演奏してみたいから、ではない。
それは、絵画における模写と同じで、勉強なのだよね。
若い頃、音楽に関しては(ん? 何に関しても?)練習も、勉強も嫌いだった。
耳コピもほとんどしなかったから、音感も発達しなかった。アレンジの勉強のために、一曲丸々を完コピすると相当ためになるらしいというのは理解できたけど、その根性もやる気もなかった。
その代わり、僕は好きな曲を結構カバーした。
好き勝手に、自分ぽく演奏した。
でもそれは、自己満足でしかなかった。せっかく尊敬する先達たちの名曲を演奏しても、自分のテクニックや感性の範疇に閉じこめてしまっていたのだ。
すっかり大人になってしまった今となっては、それがよく解る。
──後悔は、決して先には立たない。
文学で完コピってのはどうなんだろう?
尊敬する作家の名作を、そのままワープロで打つ、あるいは手で書き写す。
(──写経か?)
これはひょっとして、何度も何度も繰り返し書くといいのかもしれないな。短い作品を。長い作品なら一度でいいのかな?
その作家のエッセンスとか、文体とか、自然に自分の中に入ってくるのかもしれない。でもそれは逆に、その作家に染められてしまうことかもしれない。
まあ、それは音楽の完コピや絵画の模写も同じことかな。だから、やるのなら徹底的にたくさんやったほうがいいのかもしれない。
「守破離」の「守」ってのは、結局そういうことなのだろうし。
学生の頃にちょっとだけドラマーをやってたことがある。あの時は、バンドで演奏する課題曲をとにかく聴きまくって、ドラムのフレーズを完コピしようとした。あれは、やっぱり勉強になったと思うのだ。その後、ウチコミで作る曲にも、その頃学んだことが顔を出したりする。でも、それは基本的なドラミングだけだ……。
どうしてその経験をもっともっと後に活かさなかったのか、それが若さってやつの限界なのか……。それは、人まねしたくない病の永遠罹患者である僕(ネガティブな意味で)の、限界だったのだ、な。
そんなこんなで、時々熱病のように「完コピしなきゃ」という気持ちがぶぶっと湧いてくることがある。そうすると、その対象作品をずっと研究し続けたりする。
だけど、それで満足しちゃうのだな。形にしなくてもいいか──って。
それが、いかんのだ……!
まあ、なんかね、それでもやっぱり本当はちゃんとそういう基本をやっておきたいよなあと、しみじみ思ったりする今日この頃でした。
(オチがつかなくて失礼!)
じゃまた!