先週と同じヒメエニシダの写真だけど、これは偶然。別の日に撮ったものだよ。
と、いうことで、ガーデニングを始めたばかりの人にとっては恐怖を伴うこの言葉「緑の手、茶色の手」。
簡単に説明しておくと(出所は知りませんが)、こんなこと。
・世の中の人の手は、二つに分類される
それは、緑の手と茶色の手
・緑の手を持つ人は、植物に愛されている。世話を焼く植物はその愛情に応え、美しく育つ。
・茶色の手を持つ人は、植物に愛されることがない。どんなに一生懸命育てたつもりでも、枯らしてしまう。
いや、そうではない。茶色の手を持つ人は、植物を愛することが出来ないのだ。愛したつもりでも愛していない。だから枯らしてしまう。
僕はずっと昔に一人暮らしをしていた頃、この言葉を知った。誰か、友達に聞いたのだと思う。
殺風景だったアパートの一室に、ゴールドクレストという杉の仲間の観葉植物を買ってきた。それから僕の部屋は、なんだか素敵な空気を身に纏ってくれたような、気がした。当時はまだネットもなく、どうやって育てればいいのかよくわからなかったけど、園芸好きな自分の母親がやっていたことを何となく思い出しながら、水やりをしていた。水やりしすぎると根腐れを起こすから、足りないくらいの方がいいだろう。とか、自己流で。花も実も付けないものだから、肥料もいらないだろうと思っていた。
でもたった二三ヶ月で、ゴールドクレストは枯れてしまった。
「樹」なのに!
強いと思っていたのに!
枯れ難いと思っていたのに!
それから僕は、自分の手の茶色さ加減に嫌気が差して、もう植物を育てるのはやめようと思った。
(たった一度の失敗なのにね。若かったのだ)
その後結婚し、やがて庭のある家に住むことになった。
庭いじりをして、「茶色の手」を克服するのが一つの夢だった。
何年かして、あの言葉が嘘だと言うことを知った。たしか、やはりガーデニングの好きな妻のお母様から聞いたのだと思う。
誰だって、植物を育てれば枯らしてしまうことがある。好きな人ほどたくさん育てるから、枯らす量も多い。
いつでも緑に囲まれているのは、枯れたら新しいのを植えるから。だから、枯れたものが目に付かないだけだ。
──と。
冒頭の写真は、別の意味で「緑の手、茶色の手」という言葉が事実でないことを裏付けるものだ。
僕は、このヒメエニシダを育ててはいない。肥料は勿論、水もやってはいない。
庭を手に入れた最初の何年かは、夏になると必ず庭の水まきをしていた。やっぱり、乾燥して植物が枯れてしまうと悲しいからだ。
ところが、庭の植物は僕の考えよりずっと強かった。
水が足りなければ根を伸ばすだけだ。勿論、それで枯れてしまうものもあるけど、どっこいどいつもこいつも結構強いのだ。
写真のヒメエニシダは庭の別の場所にある親木からタネが落ち、勝手に生えてきた子供だ。
あんなに大きくなっていることに気がつかないほど、僕は庭仕事から遠ざかっていた。水やりも全然していないし、雑草取りもジャングルになってしまう寸前までやっていない。毎週毎週、週末にせっせと雑草をむしるだけのエネルギーが、体に残っていないのだもの、仕方がない。
それでも木は伸び、花はどんどん咲き、柚子はたわわに実を付ける。今年のライラックは素晴らしく美しい。
植物は、強い。
僕らの手の色なんか、全然関係ないのだ。
人類はいったいどこまで行ってしまうのか……?
どんなに奇想天外な未来でも、明日にも起こり得るのではないかと変に納得してしまうことの恐ろしさ。
科学と文明の過剰な発達がもたらすかもしれない様々な「そののちの世界」の出来事を、SFタッチで、ダークなタッチで、またはユーモラスに描いた短編集です。
第三話の本作は、『フローラ』
歩きながら、歩道の脇に眼をやる。アスファルトとコンクリートの間、ほんの僅かな隙間から、イネ科だろうか、雑草がびっしりと生えている。大半は薄茶色になって枯れていたが、その間からは緑色の新しい芽が伸びている。
「植物こそが真の主役、ね……」
本当にそうだろうか?
「あれえ?」
作業員の上げた素っ頓狂な声は走り去る潤の耳には届かなかったが、他の作業員の一人が何事かと目を剥いて半身を起こした。