Category Archives: つれづれなるままに

作家は透明な存在であるべきか、色付きの存在であるべきか。

ああ、素人作家が大きなこと言ってるよ、と、
笑いながら読んでくれれば嬉しい。かな。

色のない作家の作品など、誰も寄り付きはしない。
人間味、人間性、正直さ、真っ当さ。
非人間味、非人間性、大嘘つき、悪らつさ、計算高さ。
見栄よりも、明け透けな個の開陳。
裸の個性。
頭脳と感性。

出来事にプラスされる、それらの要素──。

作家の個性の透明度はどのくらいだと良いのだろう?

アイデアなど、どうでもいい。とは言わない。
でも、
本当に個性的で誰にも思いつかないようなアイデアなんて、
そうそうありはしない。
それを追い求めることも必要だけれど、
それがなければ書けないなんてことは全然ない。
決してない。

大事なのはアイデアではない。と思っている。
そのありきたりなアイデアを、
作家というフィルターを通した時にどんな素敵な物語に昇華できるか──。
そういうことなんだろうと思う。

誰の目で読んでも、小説の文字は一緒だ。
でも、心に残る内容はそれぞれ違う。
誰の目で見ても、世界の出来事は一緒だ。
でも、その出来事が意味していることは、幾通りも幾通りもある。
それこそ、無限にある。

三題噺のように、取っ掛かりだけを用意して色んな人が書けば、当然全く違う物語が生まれるだろう。
でも、完全に同じ内容を書いても、
出来上がる物語は作家によって全く違うものになるだろう。
同じ内容なのに、
喜劇になり、
悲劇になり、
テーマも全然違ったり。
長さもまちまちだろうし、
本当に同じ内容を書いたのかすら、
分からないものも出来上がるだろう。

それが、たくさんの、
いろいろな個性の創作家が存在できる理由なのだ。

美術も、音楽も、文学も、舞踏も、ゲームも、創作と名のつくものは全て、
表現者の個性によって初めて魅力が与えられるものなのだろう。

(今日は散文だか詩だか分からない、変な記事だった──)

じゃ、また明晩!
(いよいよ、新連載開始か──!?)

貧乏くさい話。 ティッシュの話。

ティッシュの再利用はしてる?

そんなこと言われても、何のことだか分からないあなた。ダメです。資源を無駄にしてます。
────なんてね。

僕も昔はね、そんなことは考えたこともなかった。環境コンサルに務めていて人一倍地球環境に感心が高かったと思っていたけど、ティッシュは一度使ったら捨てていた。

当然────?

今は違うんだな、これが。
ちょっと鼻水を拭いたティッシュ、ちょっとだけ口を拭いたティッシュ。これはね、乾いちゃえば新しいティッシュも同じ。不潔? 病気になる?
そんなこと、気にする必要なし。

もう、きっと15年以上になるかな。発端は、妻のお祖母さんがそうしていたこと。エプロンのポケットにティッシュが入っている。ちょっとテーブルに何かがこぼれると、ササッと拭く。捨てないでしまう。
あ、そうか、もったいなかったな、今まで。そうやって気にしていると、妻のお母さんも、妻もそうしていた。
子供が口を汚す、鼻を汚す、エプロンのポケットからサッと出して、サッとしまう。そうだよ、ちょっと子供たちの鼻水を抑えたくらいで、毎回捨てていたらもったいなさ過ぎる。
だって、子供たちはどんどん汚すでしょ、こぼすでしょ、それに毎回新しいティッシュを使って捨てていたら、ゴミ箱がティッシュだらけになっちゃうし、すぐに箱が空になっちゃう。

1ケ所くらい汚れたって、まだまだ白い部分はいくらでも残ってる。ティッシュ1枚の使いでって、思ってるよりずっとあるものなんだから。丈夫だしね。

これが習慣になると、ティッシュの消費量が劇的に減りますよ。

今日も僕のポケットには、使いかけのティッシュが入っている。もちろん、自分で使うためにね。

どう?

────やってみない?

では、また明日!

BGMってよくワカラナイな

子供の頃、西城秀樹さんが言ってた。
「勉強に集中したい時は音楽をかけるといいよ。あ、あの曲を聴いてた時にやってたところだ、って、テストの問題をやりながら思い出したりするんだ」

ふーん、と思ったけど、僕は真似しなかった。音楽をかけると夢中で聴いてしまい、しかもすぐに歌いたくなって、勉強に身が入らなくなるからだ。

高校時代から大学にかけては、絵を描きながらずいぶん音楽を聴いた。というより、絵を描く時に、音楽は欠かせないものだった。
美術と音楽、脳の似た部分を使う気もする。むしろ邪魔なんじゃないかって、思ったりもする。描いているものが音楽に影響を受けすぎるんじゃないかと、思ったりもする。

だったら、勉強しながら音楽を聴けるってのは、むしろ違う部分だから良いってことか? とも思うけど、どうもよく分からない。

むかし、よく言われた。
「君の音楽は絵画的だね、情景が浮かぶよ」って。
これは、音楽と美術が互いに良い影響を与えていたのかな、なんて思う。

で、今。
小説を書きながらBGMをかけてる人の話をちらほら聞く。いや、頻繁に聞く。

僕はできないんだなあ。執筆に集中したい時は何も聴きたくないし、そもそも集中していると何も聞こえない。人に呼びかけられても聞こえなかったり応えられなかったりするし。
だから、音楽がもったいない。ごくたまにかけていても、何も聴かずにいつの間にかCDが終わってたりする。

自分が不器用なのか、音楽をやってるからなのか分からないけど。あ、音楽をやってる人だってBGMかけるよなあ。
少なくともね、歌詞のある歌は小説を書きながら聴けないな、僕は。
そうすると、音楽を聴く時間って、本当に少ないんだよな……。休日の大半は何かを書いてるし、読んでるし。
そうそう、CGを作ってる間は聴いてるかな。

音楽をかけながら小説を書く癖をつけたなら、いつか言われるようになったりするものだろうか?
「君の小説からは、音楽が聴こえる!」なんて。

どうでも良い話。

菓子パンの個数は……?

ときおり、どうしても菓子パンを食べたくなることがある。お休みの日の昼食とか、出張の新幹線の中とか。
僕は元々パンが大好きで、朝はパン食だし、昼も週の半分はパンでもいい。

で、昼食のパン。もしくは菓子パン。

若い頃は、パンを食事にする時は必ず三つ食べていた。
────いや、つい数年前まで三つ食べていた。
・チョコパン、あんパン、カレーパン
・あんドーナツ、めんたいフランス、サンドイッチ。
・レーズンパン、くるみのパン、ピザパン
・チョコデニッシュ、アップルパイ、チェリーのペストリー……

たまに、コンビニやスーパーでお年寄りがパンを買っているところを見ることがある。菓子パンをたった一つだけ、おじいさんが大事そうに持って、レジに持っていくところを眼にすることがある。
パン、一つ?
何で?
他のものを一緒に食べるんだろうな。

そう、考えていた。

が、45歳を過ぎた頃だろうか、三つ食べるのがちょっと厳しくなっていた。いや、きっと、歳のせいだけじゃなくて、運動不足や慢性疲労など、いろいろあるんだろう。
しかし、脂っこいパンや甘いパンを三つも食べると、必ずお腹を壊すようになっていた。妻は、それはストレスだよ、食べ物のせいじゃないから。と言っていた。
でも、僕にも段々自分の身体のリズムが見えてきていた。食べ終わって30分くらいすると、下腹が悲しい感じで重くなってくる。
ああ、だめだな、こりゃ。って。

そうして、僕はパンの量を二つに減らした。

歳を取るのはまだ怖い。
(それはまだ僕が充分に若い証拠だな──)

でもいつの日か、パンは一つで充分、という日が来てしまうのだろうか?

大食いの老人ってのもパワフルでいい感じ?
ステーキをがつがつ食べて、大酒飲んで、ガハハっと笑う。そんな歳の取り方も悪くない。

でもきっと、僕はそういう老人にはならないのだろうな。
慎ましやかに、たった一つの菓子パンを吟味して、大事に両手で持ってレジに持っていくのだろう。そしてゆっくりゆっくりかじり、ああ、やっぱり工場のパンは不味いな。次はちゃんとパン屋さんの焼き立てパンを食べたいな、などと思うのだ。

願わくば、そんな日がやって来るのがあと30年は先でありますように!

(あ、フィクションですよ、フィクション────)

じゃあまた明晩!

シャッターチャンス、アイデア、記録と記憶。

ああ、写真を撮りたいな、と思った瞬間は、それが叶わないことが多い。外出しているときの大半は、何かしら先を急いでいるときだ。
水たまりの底に沈むタンポポのロゼット。心なしか、普段より葉を伸び伸びと広げているように見える。
地面を覆う濡れ落ち葉、艶々と光り、雨のどんよりした世界に気づきと喜びを運んでくれる。

本当は一眼レフを持ち歩けたらいいのにと思う。でも、出勤時に肩からそんなものをぶら下げているわけにもいかないし、撮っている間に電車は行ってしまう。iPod touchでパシャリとやるのがせいぜいだし、それもろくに見ないで撮るからピントすらあっていないことも多い。
接写したいときなどは、ピントの合う距離を考え出来上がりを想像しながら、とにかくどんどんシャッターを切る。10枚撮ってもピンぼけだらけで、使えるのは1枚か2枚だ(デジタル写真は「枚」と数えるのか?)

ふと、メロディを思いつく。あるいは、降りてくる。ああ、降りてきた、と思う。メモ録音しなきゃ、と思う。
できない時は、頭の中でそれをぐるぐる繰り返す。そうすると、メロディが徐々に単純化される。整理されて良くなる場合と、逆につまらないものに成り下がってしまう場合がある。
紙とペンと時間があれば、譜面に落とす。でも、これは後で振り返らずそのままになってしまうことも多い。
iデバイスとイヤフォンがあれば、DAWに入力してしまう。最近はこれも多いけど、こういったスケッチも断片がどんどん溜まってカオス化してしまうことが多い。ファイルを開いて再生し、聴き込まなければどんな曲だったかわからないし、インストはファイル名だけで作りかけメモの内容を思い出すことも難しい。

振り返って、小説のアイデアはいいね。思い付いたら、メモする。書けない時は、頭の中でそのアイデアをどんどん育てて膨らませ、掘り下げることができる。実際に書くときには考えたことと違ってしまうこともあるけど、それはそれで面白い。ただ、完全にどこかへ消えてしまうということはない。
そして、書いたものはデバイスが変わっても、時間が経っても、そうそう消えることはない。
(完全に文字化けして読めなくなってしまった詩もあったけど)
テキストはさっと確認できて、内容を後から確認しやすい。追加や修正も簡単だ。タイトルだけ見れば、割とすぐに内容を思い出せる。
こうやって、小説のアイデアはどんどん溜まっていく。書くスピードが、全然追いつかない。
せっかく書くなら、また新しく考えて書きたい、なんて思ったりもする。

まあ、何にせよ、アイデアを生む行為ってのは楽しい。それを頭の中でああだこうだこねくり回すのもね。

こうして僕は、《創作という呪縛》から一生逃れられないのだろうな、と思う。

じゃ!

子供の頃は、野良犬がいた。よね?

時折、遊歩道のど真ん中に犬のフンが落ちていることがある。明らかに、ドッグフードを主食にしているものの色だ。
そして、ふと思ったんだよね。

野良犬って、見たことある?

野良猫ならいくらでもいるけど──。
今は地域猫という言葉が主流だけど、これは去勢されて予防接種も受けていて、地域で死ぬまで面倒を見るのが前提の自由な猫で、勝手気ままに生きているノラは、ノラとしてたくさん存在しているよね。
──でも、野良犬ってのはそうそういない。

野良猫がたくさんいても、猫のフンが道端に落ちていることはない。猫はきれい好きだし、隠れた場所で用を足すからね。犬だって砂のある場所では一生懸命後ろ脚でフンを埋めようとするけれど、猫のように上手くはない。少なくとも僕が昔飼ってた犬はそうだったな。猫はきちんと埋める。埋まるまで諦めなかったりする。うちの子はそう。自分のフンの臭いがイヤなんだなーって感じがよく分かる。
(私見100% w)

あ、フンの処理の話じゃなくって、野良犬に話を戻そう。

子供のころは、野良犬がいた。首輪をしていない犬がほっつき歩いていた。──多分。
道端に落ちてるフンも多かった気がする。──多分。
これ、飼い主がきちんと片してなかっただけかもしれないね。昔の話だから。

野良犬がいない理由は、狂犬病防止で見つかればすぐに処分されてしまうとか、そもそも凶暴化しやすいとか、捨てられると長く生きられないとか、いろいろ理由はあるのだろう。
そもそも、猫のほうが生命力、繁殖力共に旺盛なんだろうか、ね。

まあ、特に結論とか、考察とかがあるわけではないんだけど。

過剰な清潔志向社会とか、責任追及社会とか、過保護教育社会とか、そんなものが、都会に於ける《飼いならされていない動物(野生ではない)》たちを生き難くしてしまっているんじゃないかな、とは思う。

人間のね、動物としてのパワーっていうのかな、そういうものって、動物との関わりの中で育って行くものじゃないのかな。それがね、ちょっと淋しいような気もする。

地方はどうなのかな、なんて思ったり。人が侵食し過ぎていない土地がたくさんある場所では、野良犬くんたちものびのびと生きていたりしないかな。
なんて思ったりして、ね。

今日はそれだけです。

じゃ!




お茶の間のアイドル、ネコのミーム。人気はCMに始まり、ミームをあしらったチョコレートは飛ぶように売れ、テレビもネットも可愛いネコで溢れていた。さらにどういうわけか、時を同じくしてハリウッドからはネコが主役の映画が同時に2本も届けられた。世界は、ネコの一大ブームに沸いていたのだ。
降って湧いたネコブームに乗り、俺の会社もついにネコ業界へと乗り出したらしい。街を散歩する犬の姿が眼につかなくなった頃、世界の歯車は、大きく狂い始めたのだった。


手指の保湿、どうしてます?

いきなり創作とは何の関係もないタイトルだけど、実は結構関係があったりするのだ。
この季節になると空気が乾燥して、ちょっとした切っ掛けで指先の荒れがひどくなり、辛くなってくる。
先日もたまたま宅配の段ボールを開けるときにテープを力任せに引っ張ったりしたら、その後で急に指荒れがひどくなった。翌朝、気がつくと指先の皮がとこどころ剥けて、全部の指先が赤くなっていた。ひりひりと痛む。
手のひらにもすぐに影響が出始める。放っておくと、物を触るのも辛くなってしまうのだ。

年のせい?
まあ、そうなんだろうけどさ、《年寄り嗤うな行く道だ》って言うでしょ(笑。そんな年じゃねーよ!)

医者でもらった保湿クリームをいやいや擦り込み、肌に馴染ませる。とても気持ち良い。もう、それだけで治った気がしてくる。

しかし、ここからが問題だ。
ワセリンベースではないのでべたつきはあまりないけど、やはりクリームだから油分はあるし、トゥルッとしている。
何か物に触るときに、いちいち躊躇する自分がいるのだ。特にiPad。画面が油分でドゥルドゥルになってしまう。画面が見づらくなるし、指の滑りもちょっと悪くなる。その油分がスマートカバーに付いてしまうのもイヤだ。
Macのキーボードは表面処理がさらりとしているので、それほど気にはならないけど、それでもクリームの油分がくっつくのは気になる。一生懸命指紋の谷間にクリームを擦り込み、少しでも表面に油分が出ないようにして、キーを打つ。

それでもまあ、指がもっと痛くなるよりはいいかと思う。
が、トイレに行ったりして手が濡れるとクリームがとろけてぬるぬるになってしまうので、一度クリームをふき取り、手を乾かしてからもう一度クリームを擦り込む。
それの繰り返し。これが冬の間中続くかと思うと、ブルーになる。

ね、皆さんはどうしてますか?
(若いからそんなことねーよ、って言わないでさ!)

良い方法があったら、コメントくださいね〜。

では、また明晩!

挨拶しよう
声を掛け合おう
世間話をしよう

イデオロギーは
心の中にしまっておこう

宗教は
家に置いてこようよ

愛し合い
認め合い
赦し合い
慈しむ

それは、
あらゆる宗教の
根本原理なのではないのか?

神という概念は
それを分かりやすく
形にしただけではないのか?

権力と欲望
金銭と欲望
名声と欲望

曖昧でとてつもなく大きな
神という概念に
人の名前を与えたのは

のちの人間の
邪な欲望にほかならないのだろう

排斥
孤立
非難
差別
憎悪
暴力

決して、
隣人への愛からは
生まれてこないものたち

忘れよう

損や得や
嫉妬でものごとを判断することは

忘れよう

世界の覇者などという概念は
経済の観念に於いてさえ
本当は存在しないのだから

あなたがたは負けてはいない
あなたがたは勝ってはいない

忘れてはならないと
心を頑なにするだけでなく
内向きになるだけでなく
心に壁を立てるのでなく

忘れよう
赦すために

忘れよう
愛するために

愛する者たちが
より愛されるために

愛する者たちを
守るために

愛する者たちを
もっともっと
心から
愛するために

混じり合う

締め出すのでなく
混じり合えばいいのにと

移民や難民を
どんどん受け入れて

若い人たちは
異文化の中に
どんどん飛び込んで

世界中で、あらゆる民族や
あらゆる文化がどんどん混じり合い

欧米化でなく
米国化でなく

本当に地球規模の
均質化が起これば

敵も味方も
分からなくなるだろう

民族同士の
そして
異文化間の調和が

やがて
新しい価値観を
産み落とすだろう

きっと

便利だから、
簡単だから、
事実上の標準だなどと言って
一つの言語を押し付けるのでなく

互いに意思を疎通し合うための新しい言語が
自然に、次第に生まれるだろう

その人たちがまた混じり合えば
次の世代ではまた

新しい言語が生まれるだろう

いく世代かのちの世界の人々は
無数の方言を持つ共通の言語で

繋がることができるかもしれない

それは
どんな言葉だろう

未来の人々は
どんな顔をして
どんな文化を持っているだろう

もし

人々が
混じり合うことを
認め合うことが

できたなら



 

『Imagine』以上に夢物語だな、とは思う。

《難民を装ったテロリストが多数入国していた》とか聞くと、もう何をどう考えたら良いのか分からなくなる。自分の信じる正義のためには何をしても良いというのか?

Macbook Proのバッテリーを換装

メインマシンとして使っているMacbook Proでなく、主に子供たちが使っている一代前のMiddle 2010なのだけど、とうとうバッテリーが完全にオシャカになってしまったので、換装した。今回はその報告とちょっとしたTips(というほどでもないけど)を。
ユニボディのMacBook Proは分解できないらしいという話を以前聞いていたので、最初はお店に持って行って交換してもらおうかと思っていた。
でも、もしかしたら自分でできるかもしれないというスケベ心が出て、ちょっとサーチしてみた。
すると、出てくる出てくる。《自分でMacBook Proのバッテリーを替えてみた》系のページが。どうやら、分解できないというのは完全な思い違いだったらしい。
分解できるなら、今度はAmazonだ。バッテリーにも結構いろいろな種類がある。当然、対応しているものしか使えないので、説明やレビューなど読みながら品定め。
やっぱり純正がいいだろうなと思いつつ、レビューを読み込む。

ふむふむ。なるほど。
どうやら、純正品とうたってAmazonで売っているものの中には、かなりの頻度で偽物があるらしい。そりゃ、Apple自体はAmazonに品物を出していないのだから、推して知るべしなわけだ。

で、選んだのがこれ、

Lizoneのバッテリー。(出典:Amazonさんより直リンク)
(出典:Amazonさんより直リンク)

 

もちろん、ちゃんとうちのMacBook Proが対応していることを品番で確認済み。これは重要。説明文の中にある機種名ではよく分からなかったけど、製品写真の中に、バッチリ品番が載っていた。

このLizoneのバッテリーはMacだけでなくいろんなPCに対応しているし、バッテリーとしての基本性能がきちんとしているようだ。
(届いてから知ったのだけど、ちゃんと保障も付いている。しかも18ヶ月もだ!)

翌日には配送され、早速MacBook Proを分解。

今まで数々のMacを分解してきたので、各種トルクス・ドライバーや精密ドライバーの類はいろいろと揃っている。ただ、気になったのがY字ドライバー。これは持っていなかった。
でも、Amazonに掲載されている写真を見る限り、商品に同梱されているらしい。レビューを見ると、写真はあるけどドライバーは入っていませんよ、と書いている人もいた。
ちょっと不安だったが、まあ、入っていなければホームセンターに買いに走ればいいし、急いでもいないからな。と

で、バッテリーの箱を開けたら、なんとドライバーが4本も入っていた。もちろん、Y字ドライバーもあり(Y字以外の精密ドライバーは全然径が合わず、使えなかった。無駄にトルクスも入ってた)。

これが裏面の写真。周囲にあるネジをどんどん外す。
2015-11-09 17.32.21
(ネジは2種類あり、ヒンジ近くの右寄り3本は長いものになっている。まあ、間違えることもないだろうけど、一応わかるように分けて置いておくと安心)
ネジを外すと、簡単に蓋が取れる。さすがユニボディ、歪みやたわみもなく、パカっときれいに。

そう、実は分解しているときは夜ご飯の前で急いでいたから、写真は何も撮っていなかった。これは後で撮ったもの。

蓋を外すとバッテリーは手前のすぐに分かる位置にある。このバッテリーを留めているネジを外せばいいわけだ。ここに、例のY字ネジが使われている。
ここで一つ、注意点。
このLizoneのバッテリーに同梱されているY字ドライバーは、少々径が小さい。MacBook Proだけでなく、いろんなPCに対応しているのだから、まあそれも仕方がない。油断するとネジ山を削ってしまうので、ここは集中。ネジにドライバーをぐっと押し付け、ゆっくり、あくまでもゆっくりと緩める。ここで焦りは禁物。ちょっとでもミスると、ネジ山が削れて回らなくなってしまう。

バッテリーはこんな形。結構巨大だ。
バッテリーはこんな形。結構巨大。奥側の3本だけがY字で、これを外すときには特に注意が必要だ。

無事にねじが外れたら、今度はバッテリーと本体を繋いでいるコネクターを抜く。これもちょっとくせ者だった。
バッテリー換装の解説ページには、コネクターを《上に》引っ張って外す。とあった。コネクター形状を見ただけでは、どうやって差し込んであるかはよく分からない。ここは解説を信じて、そーっとコネクターを引っ張る。
びくともしない。狭い隙間で指がすべる。
仕方がない、ドライバーを突っ込んで、テコの原理でエイヤッと力を入れてみる。
あれれ? まったく動かない。しかも、マザーボードがぐぐっと動いた。
これはさすがにあり得ないでしょう、と思い。じーっとコネクター形状を見る。

ん?
これ、ひょっとして手前に抜くんじゃないの?
そうだ、と思いつき、交換するほうのバッテリーを袋から出し、コネクター接続部を見る。
ほら、間違いない。これは手前に抜くんじゃん。

コネクター部。どう見ても手前に抜き差しする形状だ。
コネクター部。どう見ても手前に抜き差しする形状だ。

爪を立てて、よいしょっと引っ張ってみる。ぬるりとコネクターがずれる。
よしよし、もっと力を込める。また、ぬるりとコネクターが動く。
そして、すーっと外れた。
ふー。結構汗かいた。

後は工程を逆に辿って、コネクターを差し、ねじを締めて、蓋を閉じるだけ。昔のMacと違い、ネジの種類が少ないし、とにかく構造がシンプルで、すこぶる分解はしやすい。
分解を始めてから全て終了するまでに約30分。
こんなに簡単とは思わなかった。

バッテリーには、購入時15%ほど充電されている。説明書によると、まず残り容量5%程度になるまで放電し、それからフル充電するといい。となっている。それを忠実に守り、まずは起動してアップルのトップページなど表示しておく。自動的にいろいろ動いてくれるから、良い感じにバッテリーが減っていく。

そしてフル充電。

いやあー。新品みたいに元気に生き返った。
非常に充実した30分でした、よ。
(ちょっと冷や汗をかいた場面もあったけどね!)

では、この記事がいつか、誰かの役に立ちますように!