Category Archives: つれづれなるままに

ヘタウマとウマヘタのあいだに

○○をどうした方がいい。っていうことじゃないんだけど。
ただ、難しいよなあと思った。
誰もが目指しているところに向かって歩いているんだけど、その道筋はいろいろある。

ではまず、表題について自分なりにちょいと定義してみる。

1.技術的にはヘタだけど、センスがあって雰囲気が出ている。なんか良いよな、と思うのが、ヘタウマ。

2.技術的には上手いけど、センスがなくて面白みも雰囲気もない。つまんないなあ、と思うのが、ウマヘタ。

3.技術的に優れ、センスも良い。雰囲気と個性も備えていて、コレは良い! と思わずにいられないのが、ウマウマ。

4.ヘタだし、センスもないよな。どんなに頑張ったってダメなんじゃないの? と思ってしまうのが、ヘタヘタ。

──お伽噺風に、図示してみる。

その旅は、どこへ向かう?
その旅は、どこへ向かう?

 

ヘタウマなひとは、自分にセンスがあることに気がつかないことがままある。

ウマヘタなひとは、自分にセンスがないことに気がつかないことがままある。

ヘタウマなひとは、うまくなりたいと思うことがある。巧くなればもっとずっとうまくいくと、思いたい。
そのままの方が良いかもしれない可能性には、なかなか気づくことができない。

ウマウマなひとは、ただ、好きで続けていたらそうなったのかもしれない。他人の目から見てどんなに努力しているように見えても、
「楽しいからやってるだけだよ」って、
たくまず、力まずに言えるのかもしれない。

ウマヘタなひとは、努力の方向がずれているのかもって、気がつけないのかもしれない。

ヘタヘタなひとは、学ぶことを忘れているのかもしれない。自分を知るには他人を知るのが近道なのかもしれないとは、思わないのかもしれない。

ヘタウマなひとは、罠に落ちやすいのかもしれない。
──巧くなりさえすれば、という罠。


さあ、今のあなたは、今のわたしはどこにいるだろう?
そして、どこへ向かって行こうとしているのだろう?

まず、それを知ることから始めてみよう──か……。
(結論も、アドバイスも何もないけれど)

じゃ、本日のざれ言はここまで!

同じ助詞の連続って……どうなの!?

例えばこんな文章があるとして。

《広場でみんなで話し合いました。》
「で」が連続しているけど、不自然な感じを受けるひとはどのくらいいるのかな?

僕はこういう《同じ助詞の連続》が好きではないので、出来る限り避けるようにしている。
最近、新聞を読んでいると、こういうことを気にするひとが減っているのかな、と思う。「の」の連続や「で」の連続は記事の中で当たり前のように出てくるし、「読み難いなあ!」と引っ掛ってしまう僕のようなタイプはあまりいないのかな、とも思う。
もちろん、例えば「の」の連続は文法的に何もおかしくないし、自然に読める場合もいっぱいある。必要があれば3回連続だって問題はないのだろうけど、僕としては出来る限り避けたいんだよね。
避けようがない場合もあるけど。

主格に続く「が」「は」、目的格に続く「に」などはさすがに連続使用されていないようだけど、どうなんだろうか。

言葉は生きているので、これは乱れとか日本語力の低下とかっていうものじゃなく、こういった表現を許容する時代になってきている。ということだったりするのかな?

でも、僕はやっぱり気持ち悪いので、解決法を考えてみたりする。
例えば、冒頭の例で見ると、こんな書き方があるかな。

・広場で、みんなで話し合いました。
 ・広場にてみんなで話し合いました。
 ・広場に出てみんなで話し合いました。
 ・みんなの話し合いは、広場で行なわれました。

最初の解決法は読点を挟むだけ。三行目は動詞「出て」を追加。四行目は順番を入れ替えて品詞の変更もしている。
(「話し合いました」=動詞 ⇒ 「話し合い」=名詞)

だから何だっていうことはないんだけど、ちょっと表現の単調さに囚われてしまったり、助詞の連続で読み難くなってしまった時には、案外色んな書き換えが出来るんだなぁ、という小さな感慨。
僕の場合、(心の中で)音読して読み辛い文章があると、こうやっていろいろな案を出してみたりする。前後関係や文脈や文体を鑑みて、一番しっくりするのはどんな表現かなっていうことが、いろいろと書いてみることで見えてきたりする。
勢いだけで書いてしまった時、内容は面白いのにつまらない文章になってしまった時には、こんなやり方があるかなあ、なんて、自分への覚書として──ね。

僕は若い頃、公的な文章(役所に出す分厚い報告書の類い)を毎日毎日書いたり校閲・校正したりしていたことがあるので、きっと細かいことに目が行ってしまいがちなんだろうと思う。それにプラスして商業印刷物の制作にも深い立場で長いこと携わっていたし──。

まあ、気にしない人、気にする人、いろいろでいいんだと思うけど、と思う今日この頃(過去のトラウマが染みついているだけだったりするのか……?)

ははは。

じゃ、また明晩!

あるひととの会話と。

ちょっと前に、「内輪って分からない」とつぶやいたことがある。僕は何十人ものセルパブ作家さんたちと、この一年半くらいで知り合いになり、本を読み、楽しみ、笑い、泣き、苦しみ、喜び、充実した時を過ごしてきた。だからといって、そのひとたちとぐるりと小さな環を作って閉じこもろうとなんて思っているひとはいない。

偶然知り合ったひとたちは、何かの必然を持って繋がり合ったのだと思う。内輪とか、なれ合いとか、そんなものでは断じてない。

リアルの友達は、こんなにたくさんいない。セルパブ作家同士が友達といえるかどうかはまだ判らないけれど、ある領域で理解し合い、尊敬し合い、高め合い、リアルの友達からは望んでもなかなか得られないものを貰ってきた。

と、思う。心から思う。

でも、リアルの世界と同じように、いや、顔が見えないだけそれ以上に、人間関係は難しいのかもしれない。

僕がセルパブ作家さんの本を読む時、結構ドライな取捨選択をする。つまらなければ、途中で止める。最後までどころか、数ページしか読み続けられない本もある。そういう本は、読み終わっても黙っている。良いものにもっと注目を集めたいという気持ちは、面白くなかったものを面白くなかったと言いたくなる気持ちより遥かに勝るのだから。
(これって、先日のラノベの話と矛盾する? いや、そんなこともないんだ。まだ判断がつかないし、読み終えるまで読むつもりだから。それに、その作品が今後読者を得るための邪魔にはならないようにと思ってる。好きか嫌いかなんて僕の中の問題であって、作品を悪く言うつもりは、決してないし)

あまりにもたくさんの面白い本が、いい作品が、あちこちに埋まって、隠れてる。だから、出来るだけたくさん読んでみたいと思うけど、そうもいかないし、読書傾向が偏らないようにすることも難しい。

それはそうだ。人には好みがあるし、それはそれで仕方がない。

そんな風にしてやってきた中で、何人かの大好きな作家さんができた。新作が出たら必ず読みたいと思う作家さんが何人かいる。もちろん積ん読の数も半端じゃないから、そうそう読めるものではないけど──。

 

自分の作品は、自分で宣伝するしかない。電書ちゃんやぽっきゅんや、日本独立作家同盟のお世話にはたくさんなっているけれど、それだって、まずは自分が動かなければ誰も気づいてはくれない。

そんなセルパブ作家をつないで文脈を作り、少しでも大勢の目に触れるようにいろいろな人が努力している。なかなか上手くいかない試みもたくさんあるけれど、その熱量ときたら、たいしたものだ。

セルパブ作家同士は確かに相互の読者であって、共依存の関係かもしれない。でも、誰だって本当は、世間の普通の本好きのひとに自分の本を届けたいはずだ。だから逆に、同じことをやっている人とは関わりを持ちたくないという人もいるのだろう。

せっかく尊敬できる仲間に巡りあって、様々な刺激を受け、もっといい作品を生み出したいと思っているのだから、そのエネルギーを使って、どうにかして一般読者に本を届けたいと思う。

これはきっと、そんな思いの流れる短い会話──。

「例えば似たジャンルの本に手を広げる時を思い出すと、面白かった本のあとがきで触れられている本には興味が湧きますね。それから、同じ出版社の同じシリーズの別作者。これは、出版社の編集部がキュレーションをしていた(今のことは分からないので過去形ですが)と考えると、納得できる気がします」

「僕たちがどうやって知り合いになって、互いの本を読むようになったのか。そこにヒントがあるような気がします。僕らは自分自身で自分の読みたい本をキュレーションして、自分の本棚に並べているようなものですよね」

「ジャンルや内容は違っても、そこにある共通の何か。次々と読みたいと思わせてくれる何か。ですよね。僕らがもっと周囲の人たちの本を読みたいと思うのは、やはり面白いと思うから。本屋で売っている本と遜色のない喜びを与えてくれるからなんだと思います」

「もっと具体的な何かがないと、読者には伝わらないですが、もっと、考えます。。」

もっと考えて、もっと考えて、届けたい。

ジャンル?

ジャンルってなんだろう?
カテゴリーってなんだろう?

学生の頃、バンドに付けようと思っていた名前がある。
Noccu。
なぜだか結局この言葉は、一度も誰にも言うことはなかったけど。

No One Can Categorize Us
誰もおれたちをカテゴリーに当てはめることは出来ないぜ!
そんな意味を込めようとしていた。

これは、ポジティブであって、しかしネガティブなメッセージでもあった。自分がカテゴライズされないタイプの音楽を作るアーティストだという自負と、基本を知らない、歴史を知らない、ジャンルもカテゴリーも知らない感覚野郎に過ぎないという暴露を含んでいるからだ。
それを証拠に、僕がミュージシャンだった頃の音楽には、いとも簡単に《渋谷系》というレッテルが貼られ、それを構成する無名無数のミュージシャンの一人という分類がなされた。
自分では、「(少なくとも日本じゃ)これまでのどんなジャンルの音楽にも属さないぜ!」なんて心ひそかに思っていたのにも関わらず、ね。
──それは、ただ自分が無知だっただけなのに、ね。

小説を書いている今も、そこから脱皮することは出来ていない気がする。

家族小説、近未来SF、古代悲劇ファンタジー、遠未来SF、近未来SF、エロティックサスペンス、お伽噺、詩集、ロマンティックSF……。これまでに自分が書いてきた物語に勝手なジャンル名を付けて時系列で並べるとこんな感じだ。
でも、別にそれぞれの世界が著しくかけ離れているわけでもない。
(エロティックとお伽噺だけはどうにも遠すぎるけど──)

まあ、ジャンルなんて、カテゴリーなんて、ショップで分類するのに必要だから存在するだけ。もちろん、読者さんが好きな作品を探し当てるための検索やリコメンドは重要だけど。
有名作家の作品が、リアル書店でジャンルごとにばらばらの棚に置かれているなんてことはないし、分類は、出版社か作家かどちらかだろう。
今、ジャンルで分類されるのは、電子書籍の利便性とネット書店の検索性のためだろう。
それから、自分が全くの無名であることも含めて。

淡波亮作の作風が確立されて、やがて売れて、知名度が上がり、名前になにがしかの意味が生まれてくれば、きっと僕の作品を分類するジャンルにはもう意味がなくなっているのだろうから。

そんな日が、いつか来ることを願って──。

最近、かなりカオスになってないか?

最近、かなりカオスになってないか?
この淡波ログって……
統一性やスマートさより《情報量の多そうなゴッチャリ感》を優先しているというわけでもないのに、どうもごった煮的になって久しい。

そこで淡波は考える。

ブログには、何だって書いていいんじゃないか?

ブログ指南の記事にはこんなことが書いてあった。
「全てのブログはレビュー。あなたの一番興味のあることにフォーカスして書くべきだ。一番詳しくて、一番書いていて楽しいことを書くべきだ。よく分からないことがあれば調べ、勉強し、更に詳しくなるのだ。それが、読者を惹きつけるコツだし、そうでないことを書けば読者は離れていく。ブログ記事を10本書くなら、8本までは同じカテゴリーのことを書くべきだ」

それはもちろん、基本的に正しいと思うんだけれど、じゃあ自分たちのような《自称作家》は、何を書けばいい?
文学論? 書評?
どうもしっくり来ないし、もしそういうものばかりを書き続けられたとしても、そこに自分の小説の読者となり得る人が来てくれるかどうかなんて分からない。
少なくとも小説が嫌いな人は対象じゃないかもしれないけれど、ガチガチの小説好きだけが対象の小説を書いているわけでもない。
どちらかと言えば、《映画やコミックが好きで、小説もマア読むよ》。というタイプの人に、僕の書いている作品は向いているんじゃないのかな、と思ったりもするし。

僕は素人作家に過ぎないけれど、ブログにはどんな内容の記事だって書いていいんじゃないかと思う。それこそ、いろんなことを知らないと、考えないと小説なんて書けないし、狭い世界に固める必要なんてない。
書く小説のジャンル・内容が決まっている作家もいるだろうけど、僕はあまりジャンルを固定していないし、とにかくいろんな人に読んで欲しいのだ。絶対楽しめるんだから!
だから、自分のジャンルから外れてしまう恐れなんて、抱く必要はない。
だから、入り口は広いほどいいんじゃないかって、ね。

最近ちょっとCG関連の記事が多いかもしれない? なんて思いながらも、週に一本程度だから、CGに興味がない人を邪険にしてるってこともないよね。
そもそも自分自身が仕事でCGを作っているのにも関わらずそれとは関係のない小説を書いているわけで。
SFやファンタジーを好きな感性と、CGを好きな感性とは通じるところがあると思うし、絵や写真やCGの表現のこと、詩や小説、いろんなこと……

誰だって、たった一つのことだけに興味があるわけじゃないし、いろいろなことに興味を持つ中で面白そうな小説を見つけてくれたら、それでいいんじゃないだろうか。

なんてね。
何が言いたいんだかよく分からなくなってきたけど……。

──カオスもまた良し。ってことかな。
(最近、カオスマガジンっての、発刊されましたよね、『雑誌なんか』だったっけ? 全部は読んでないけど、なんだか相当カオスだったし、それがまた面白いんじゃないかと──ね)

じゃ、また明晩!

アップに耐える、の嘘

「アップに耐える」という言葉があります。
アップで見ても、
「大丈夫」
「魅力を損なわない」
「見ていられる」
「目を背ける必要がない」

そんな意味でしょうか。

高校生の頃、
「アップに耐えられるのって、アイドルで○○くんだけだよね〜」っていう言葉を女の子から聞いたことがありました。
そうか、カッコいいとか言われてるアイドルタレントでも、テレビでアップになると見ちゃいられないということか。
そんな風に思ったものです。

先週の「今週の1枚─015/写真の嘘?」にも通じる話なのですが、《アップ》というのは本当は嘘がつけるものなのですよね。
ただし、うまく嘘がつけるのは《どアップ》(トリミングの妙による嘘ってのもありますが)。全体が見通せないほどアップにすれば、アップに耐えられる限界を超えることが出来るんですよね。
今回は、そんな話。

この話はずっと書こうと思っていてネタ帳に眠っていたのですが、先日Facebookのプロフィール写真にある友人女性が顔写真を載せたことでちょっと仲間内の話題になり、思い出した次第で──。

その時に、自分の実名FBのプロフィール写真の話から、《どアップ》ネタの話をしてみたのです。
自分の写真は見せなかったけれど、今日は思い切って載せてしまおうかな。《どアップの嘘》としては一例に過ぎないですが……。
(すぐに消すかも知れないですよ!)
スクリーンショット 2016-05-21 18.34.06

この写真をプロフィールに載せたとき、こんな反応があったのです。
「睫毛が長い!」
「目がきれい!」

ね、アップの方がごまかせると思いません?
これは、ただのおっさんの目の写真であって、別にきれいでも何でもない。
強いていえば、コントラストを上げてディティールを飛ばして白黒写真風に加工してあるから、肌の汚さなんかがまったく分からないですし、接写レンズで撮っているので一部にしかピントが合っていなかったりします(というか全体ボケボケとも言えますが……)。
でかく写っているので、相対的に睫毛が長く見えるわけです。それだけなのに、長い睫毛という印象になってしまう。

トリミングの妙によって目がどこまで続いているか分からなくして、さらに絵のバランスを整え、目のイメージを強調していたり。
本当は鼻の一部まで写しているけど、今回はそこもカットしてしまいました。

そう。
写真も、絵も、文章も、そんなところがあると思いませんか?

でも、それは《アップの嘘》──

例えば、自分の詳しいことを細かく描写するのは比較的簡単ですし、細かく、詳しく書いてあると説得力もそこそこ出せたりします。でも、それは《どアップ》にすることで本来の姿を見えなくするごまかしのテクニック
そういう描写からは、本当の描写力は分からないんじゃないかと思うのです。

そんな罠にはまらないよう、得意分野や詳しいことを書くときは気を付けなきゃいけないな、と思う、今日この頃。

どうでしょうか、ね?

じゃ、今日はここまで!


(イメージや思い込みの嘘を疑え、と言えばこの本!)

主人公佐山哲夫は、就職内定後にM&Aで世界的な工業食品コングロマリットに買収された陽山食品工業に就職した。
俺は知ってるんだ。本当に旨いものなどもう、──少なくとも外食産業や一般に流通している食材を見る限り──どこを探したって見つからないってことを。
ある小さな事件をきっかけに、佐山は自らの目に見えていた世界が、本当の世界ではなかったことに気付き始める。

最近のインプット

読書をしていないので、最近インプットしたものを少々。
(こうやってインプットしたものを全部報告していると、最近の自分が参考にしたものなんかが全部バレてしまうという恐怖……)

■映画
例のAmazonプライムにて2本の映画を鑑賞しました。
(敬称略w)

「パプリカ」
日本のアニメ映画、ですね。僕は知らなかったけど、知らない人がいないくらい有名な作品とのこと。ですよね?
音楽は元P-Modelの平沢進さん。主題歌がとても素晴らしかったです。
残念ながら、映画自体はあまり楽しめなかったかな。手描きの絵とCGを混ぜて使ってあるのだけど、CGの使い方がどうにもコストダウン重視というか、「この表現のために3Dを使ったぜ!」というのが見えなかった。職業柄、手抜き的な使い方ばかり目に付いて痛かった。
3Dで表現した方が効果的だろうと思うものが手描きだったり、手描きの方がいいんじゃないのかと思うものがCGだったり、どうも作り手の丁寧さを感じられなかった。よく言われる委員会方式の弊害ってやつなのだろうか? 監督の意向よりスポンサーや予算の関係、それから関係者や船頭が多過ぎることで表現以外のことが大事にされるというやつ。かなあ?
ストーリー的にも「?」だった。どうも、変に端折られているような、映像美重視で、原作の流れとはきっと違うのだろうな、と。これは筒井康隆の原作を読まねば評価できないかなあという感じ。

「復活の日」
日本のSF大作映画、ですね。今ではこういうタイプの実写の映画を日本で作るのは難しいだろうなあと思う力の入り具合だった。
突っ込みどころはあるとしても、これは、とても面白かった。小松左京の原作も、きっと良いバランスで活かされているのだろうな、と。
登場人物の半分以上が外国人で、セリフのほとんどが英語というのも世界を意識していていいな、と。人類滅亡(と再生)をテーマにした物語で日本だけが舞台だと醒めますし(あ、僕の作品でも日本しか出てこない同様のテーマの短編もありますけど、ね……)。
若き日の草刈正雄とオリビア・ハッセーの美しさだけでも見る価値があるなあ、とも。

■音楽
これはまあ、いろいろですな。
やっぱりAmazonプライムで、いろいろ聴けるので。
偶然見つけたもので良かったのはこれ。
(他の人を検索していて、たまたま結果に出てきたものを聴いてみた)
「Hymns/Kele Goodwin」
とても優しい感じのシンプルで静かな大人フォークロック。

あとは、前述の平沢進さんとか、Enyaの「Amarantine」を聴いてました。台湾の「Manic Sheep」も良かったなあ。

今日は、こんなとこ。

じゃ、また明晩!

あぁ、やっちまったぁ……

久し振りの《やっちまった記事》でございます。

2年間、毎日ブログの記事を更新する目標を達成すべく、日夜頑張り続けてきた淡波ですが、はい、やっちまいました。1年経たずに。
ちゃんと日数分の記事を用意していたのにも関わらず、予約公開のスケジュール設定を間違えて、先週の金曜日には何も記事が公開されないという空白日をとうとう作っちまいました。とほほ。

スクリーンショット 2016-05-08 17.35.53

これを見た瞬間に「あれっ?」と思い、ツイート時間を見て、「あれ」が「しまったぁ!」に変わりました。次の日の記事のはずなのに、ツイートしてからの時間が同じ。つまり、土曜日の同時刻に2本公開されていたわけです。
道理で、金曜日のアクセス数が妙に少ないと思ったんですよねえ……。
(いや、そんなこともないか、その前の火曜日の方がもっと少ないし)

火曜日のManuel Labの記事が小アクセス数なのは、織り込み済み。これは、情報が必要な人が検索して辿り着く記事なので、公開時には少なくても良いのです。時間をかけて徐々にアクセス数を稼ぐはずなので。なので!(たぶん……)
火曜日のManuel Labの記事が小アクセス数なのは、織り込み済み。これは情報が必要な人が検索して辿り着く記事なので、公開時には少なくても良いのです。時間をかけて徐々にアクセス数を稼ぐはずなので。なので!(たぶん……)

しかし、毎週毎週、綱渡りをしているのは確か。日々、記事を更新している時間はとても取れないので、土日に一気に7本書いてしまうのが今のスタイル。これ、実はかなりヘビーなんですよね。土日の執筆時間がこれによってかなり削られてしまうもの。

今回の記事はGW中に書いてしまえばいいと高を括っていましたが、これがまた『ルルルとリリリ』の挿し絵でほとんどの時間を食いつぶしてしまった上に、後半、息子の風邪を貰うというあり得ないアクシデント。
もう、ボロボロですわ……。

ちょっとのアクシデントで更新が止まってしまうというのは、辛いよなあと思うのですが、他に解決策もなく。それこそ毎日記事を書くスタイルにしようとしたら、きっとウィークデーは5分の4.5くらいの確率で落としますからね。宣言。

まあ、そんな言い訳をしても、記事を落とした事実は変わらない。で、どうなのよ? って考えますよね?
一日抜けたくらいで、毎日更新の効果がちゃらになるのかな?
いやいや、そんなことはないはず。いやいやいや、結局のところ、まだ毎日更新の効果なんか出ていないし、効果が出るのは2年後なんだから……そんなこと誰にも分からないですよね。神様じゃないんだから。
実際問題として、ツイッターやFacebook、G+には顔を出してますし、存在のアピール自体は継続しているわけで。とにかく、引き続き、たゆまぬ努力ってやつを続けるしかないわけであります。

ちなみにこの記事、《恥ずかしい内容のほうが読まれる》原則に照らし合わせると、そこそこ読まれる可能性を秘めているのではないかと、思ったりもするんですが、どうなんでしょ?
(結果はすぐ出ますね……)

じゃ、また明晩!

Amazon Prime会員になっちゃったよ

3月、ちょっと急ぎで取り寄せたいものがあって、AmazonのPrime会員のお試しを申し込んでみた。
実際、急ぎで欲しいものがAmazonからの直接販売ではなかったりして、必ず「お急ぎ便」に出来るということでもないのだけれど、マーケットプレイスのお急ぎみたいなものもあるし、そこそこ便利な感じがした。
(ただし、その日のうちとか、次の日に絶対に届いていて欲しいものなんて、そうそうあるものではない。通常のAmazonの配送で、ほとんどの場合は全く問題ない。というか、通常でも早過ぎるくらいだ)

実は、僕自身はずっと前からPrime会員になってみたいなあと思っていたのだ。
もちろん、Primeの特典である「Kindle本が月1冊無料で読める」が目的で。
※Kindle端末を持っていることが条件

ところが、無料お試し期間には本を借りなかった。借り方が、何だかよくわからなかったのだ、な。
分からないから面倒くさくなって、
「読みたい本はいろいろあるけど、『積ん読』本もまたたくさんある。そもそも、新たに借りても読まないんじゃないの?」
なんて思ったり。
「借りるなら価格の高い本の方がお得感があるし、自著を見ても価格の高めの本が借りてもらえてるよな」とも思った。
で、お得感のある本を選ぼうとしたのだけど、やっぱり借り方がさっぱり分からなかった。

Kindle端末で本を借りる用のページ(「プライム会員月1冊無料ページ」)に行くと、ずらっと借りられる本が並んでいる。100万冊以上ある。
そこで、自分の読みたい本を検索すると、検索結果はKindleストアの画面に遷移する。そうすると、そこはもう借りられるか借りられないかは関係なくなっている。借りられない本なら、借りるボタンは出ない。そこで、罠にはまったのだった。どうして借りるボタンが出ないのか分からなくって、思いつく本をいろいろ試してみる。それが、対象になっている本かどうかも分からないまま。
何度試しても同じ。
借りたい本を探せないこのシステムは、何だ? と、イラッときた。

いやいやいやいや、そんなことはないはず。
みんな普通に借りて読んでるじゃん。
僕の読みたいKDPセレクトの本には「プライム会員月1冊無料ページ」のリストからは辿り着けないんだから、何かしら検索できないと困るだろ? と思いつつ試行錯誤。
──ダメ。
(そろそろオチに行かないと、怒り出す人がいそうなので、オチに行きます……)

答えは簡単。普通に検索すると、検索結果一覧に小さく「プライム」マークが付いているのだ。そこに気付かず、マークのない本の販売ページに飛んでも借りられるわけがなかった。
だから、ただ自分の読みたい本を検索して「プライム」マークがあるかどうかを見るだけで良かったのだった……。
その本のページに行けば、「無料で読む」ボタンが出る。ただ、それだけだった。嗚呼、無駄な労力よ、虚しさよ。
こんなアホなことをしてるのは僕だけだろうなあ。

はい、次。

で、1冊も借りていないのに、どうして無料期間が終わってもプライム会員になっていたかというと、音楽なのだ。
Primeミュージックにある曲なら、完全に聴き放題だし、「Amazon Music」アプリでダウンロードすれば、いつでもオフラインで聴ける。これは便利。
自分の好きなタイプの音楽はそれほどPrimeミュージックにはないんだけど、それでも母数が100万オーバー。いろいろと検索すれば、意外なものがあったりするのだ。

最初のお試し期間だけで10枚くらいのアルバムをダウンロードして、アプリで聴いてた。
例えば、レンタルCDで1枚100円で借りたって、もう1000円分じゃん! なんてお得なんだ!
それに、映画だって観られるんだよね。やっぱ凄いわ。
先月、一本だけ観始めた。おすすめに出てたので『ロボコップ』。オリジナル版は結構好きだった。で、無料だし、ほとんど思考しないままポチ。
しょっぱなから銃撃シーンが多くて、いやになっちゃって観るのを止めてしまった。で、映画はそれっきり。
本当は映画観たいんだけど、好きなんだけど、まとまった時間を2時間確保するのって大変。細切れに観るなら頭を使わないタイプの方がいいか、なんて思いながらも、そのまんまだった。

結論。

最初の1年間で音楽を聴きまくろう。
で、聴きたいものがなくなったとき、また考えよう。1冊無料が気に入れば続けようかな。そんな感じ。
お急ぎ便も、1冊無料も、映画借り放題も享受していないけど、今のところ音楽だけでもメリットがあるかな。
(もちろん、「1冊無料」に関しては、これからじゃんじゃん利用していくつもり。KDP本を借りれば、作家さんには売れるよりメリットが大きいしね!)
既に、アルバムにして50枚ほどDLしてしまった。もちろん、試聴のつもりでDLしたもの、DLしたとき以来全く聴かないものもある。でも、レンタルCDだって借りられないもの・お店にないものが多いし、実はそれよりも選択肢が多かったりするかも。

愚にも付かない話を長々と、済みません──!

(プライム会員になろうかどうしようかと迷っている人には、役に立つ記事かも知れないよ! と思いつつ)

では、また明晩!

今週の一枚─013/ナガミヒナゲシ

2016-04-26 07.58.08

初めて見たのは十数年前だったと思う。この十年くらい、こいつのはびこり方は異常と言ってもいいくらいではないか。
心配したほど「際限なく増える」ということもなかったけど、何しろもう、この季節にこの花を見ない場所はないのではないかと思われるほどだ。植栽がきちんと手入れされた土地以外では。

それで何が言いたいのかというと、別に「ナガミヒナゲシを追放せよ!」と言いたいわけではない。もちろん、あんまり増え過ぎるといやだし、決して好きではないけど。

最初に日本で確認されたのは1960年代だというけれど、僕が子供のころはもちろん見たこともなかったし、こんなに増えてしまったのはここ15〜20年くらいなのではないかと思う。
だからなのか、【近年はびこった厄介な外来雑草】というイメージがかなり強い。在来種を脅かし、枯らしてしまう悪者のイメージだ。
でもきっと、生まれた頃からこの花に親しんでいる子供たちのイメージは、きっと違うのだろうなと思う。

例えば、「侵略的外来種ワースト100」に入っている植物の中で、きっと今の大人世代にとって子供のころからどこにでもあった普通の雑草にはこんなものがある。
・セイヨウタンポポ(既に在来種は片隅に追いやられてしまったというのは有名な話)
・ヒメジョオン、ハルジオン(いわゆる貧乏草ってやつだ)
・オオオナモミ(とげとげの実を服に投げつけ合うやつ)
・セイタカアワダチソウ(空き地に高々と伸びる黄色い花の)

これらは駆除しようとしたってもう完全に無駄な努力にしかならないくらい、どこにでもあるし、もう「日本の雑草(雑草という言い方の善し悪しはさておき)」になってしまっている。
ナガミヒナゲシは、このリストには入っていない。ロゼットで冬を越すので、ちゃんと駆除しようとすれば出来るからなのかもしれないし、根が強力なわけでもないので抜くのは簡単だ。実を付ける前に抜けば、その場所からは駆除できるかもしれない。もちろん、一つの花に1000以上のタネが出来るから、どこからでもまたタネはやって来るけど。
(wikiで見ると、在来種に対しては相当な悪さをするらしい。まだリストに入っていないだけで、ワーストの植物に匹敵するかそれ以上の悪者のようだ)

きっと、今の大人はこのナガミヒナゲシに嫌な顔を向けるけど、今の子供たちが大人になった頃、きっと普通の雑草として受け入れられているのだろうなと思うのだ。陽当たりの良い場所で咲いていると、花の色が鮮やかになって、それなりにきれいだったりする。そもそも、園芸種のヒナゲシとも大きな違いは感じられないし(素人目では)。

僕らは今、セイヨウタンポポに嫌な顔を向けない。
あの黄色い花を見ると、あ、春だな。と思う。花が終わると、綿毛をふうっと吹きたくなる。

ナガミヒナゲシの花が終わってタネが熟れると、中に入っている無数の黒いタネが案外美しい。指でつまんでみると、そのシャリシャリとした手触りも心地いいものだ。あんパンなんかについているケシの実と似た感じだ。これもケシの実だから。
あれ? ひょっとして食べられるのかな?
(もう一度検索。どこにも食べられるとは書いていないので、食べられないのだろう……)

この、無数に入っていていくらでも出てくる感じが、子供のおもちゃとしては面白いんじゃないか、と思ったりする。
(タネをばらまいちゃダメだけどね)

時代は変わり、植物は生きている。
──世界は、徐々に混じり合う。

まあ、そんなことを考える、春。

じゃ、また明晩!