分かりやすさに重点を置いているのは、凡庸に陥りやすい罠なのか?
そう思うことがある。
個性。逸脱。突飛。
発想の飛翔。展開の拡大──。
難解な詩を好んで読んだことがある。
好んで?
いや、無理やりだ。
これっぽっちも解らない。
解らなくていい、感じるんだ。
残念残念無念無念。
解らないことは感じられないね。
凡庸の極み。
──それとも単に、頭の回転の鈍さか?
大事なのは肌感覚だ。
そう思っている。
視点だ。
作者の創造力と読者の経験が重なり合う瞬間に、何かがやってくる。
作者の創造力が読者の想像力を凌駕し、覆いかぶさった瞬間に、何かが得られる。
難解にはしたくない。
できない。
わかって欲しいもの。
言葉遊びをするつもりなんか毛頭ない。
ああ、分かってるさ。
難解な詩は、小説は、難解さが目的なのではない。
言葉をもてあそんでいるわけではない。
それが、その作者が追求し獲得したスタイルであり、表現方法だ。
明らかに凡庸な作品からは、美しさを感じ取ることが難しい。
明らかに非凡な作品からは、美しさの断片を感じ取ることくらいしかできない。
僕には。
美しいことは、ものは、言葉は、できごとは、限りなく存在する。
世界にも、心の中にも。
感じ取り、捕まえて、発酵させて、
叩きつける。
そっとそっと、丁寧に刻みつける。
今日も
どうにもならない凡庸さに陥る恐怖と闘いながら、
リアリティとか、肌感覚とか、
共感とか、常識的とか、
練り込みながら、悶えながら、
イマジネーションの虜になりながら、
イマジネーションの虜になりすぎないように振り返りながら、
一行一行、
一文字一文字、
魂を縫いつけてゆく。
いやいや、
そんな大業なもんじゃない。
考えすぎないように、
心の奥にいる誰だか知らない自分と対話を重ねながら、
ただ、ひたすらキーを打ってゆくのだ。
歌うように、歩くように、呼吸するように。
じゃ、また明晩!