「諸君、カネだ! 大金が目の前で野ざらしになっているぞ」ヘリベマルヲ氏が人格OverDriveでそう書いたのにも大きく頷ける大傑作。それがヤマダマコト氏の第2作目、『山彦』だ。
僕は上中下の3冊とも有料で入手したけれど、この内容、ボリューム感で考えると非常にお得な買い物だったと断言できる。書店で買えば、三千円は下らない商品価値があるだろう。
度肝を抜かれるようなどんでん返しや突如として足元を掬われる大仕掛けはあまり用意されていないけれど(いるよ、とも言える)、物語のうねりそれ自体が圧倒的な熱量で膨らみ、押し寄せてくるのだ。凡ゆる不可思議な出来事をごく自然に納得させられる筆力が、それを可能たらしめている。
物語が進行するに従い、超常現象の数々が、ごく自然なリアリティを持って眼の前に提示される。読者は主人公の須見と同化し、それらの現象を《現実のものとして》信じざるを得ない状況になる。そこには超常現象を単なる小道具として用いた小説に見られるチープさは微塵もない。須見のジャーナリストとしての“自分”はそれを否定したいが、それを実際に目撃してしまった以上、疑いを挟む余地はない。他の人間にしてもそれは同じだ。一般人も警察官も、そして読者も、眼の前の現実を淡々と受け入れるしかない。
だが、それでこの小説が荒唐無稽なSFやファンタジーに変質することはない。良質なファンタジック・ミステリーとしての軸がしっかりと保たれている。世界にパラダイムシフトを起こすことはなく、超常現象やそれによる事件は世の中に《よくあるゴシップ》として消化されていく。その流れの作り方が秀逸で、あ、これならたしかに現実世界が一変するようなことにはならないなと、安心させてくれる。だが、そのしっかりとしたリアリティを保ち続けたままで、物語は非日常へと逆に激しく突き進んでいくのだ。
そして最終章、消化されていった非日常に、物語の傍観者でしかなかった主人公の須見が戦いを挑むことになる。その結末は記されないが、不安の中にワクワクする期待感を潜ませながら、物語は終焉を迎える。奇しくも、別の軸で物語を支えた警察官の橿原は、『自分は傍観者でしかなかったのだ』と感慨を抱えながら事件の終息を客観視していた。
一方で須見は、山彦と同じ視点を持つことによって、最終的には傍観者でいることを許されないのだ。ただの巻き込まれの構図とは異なる、ポジティブな須見の行動が、不思議と爽やかな感動を呼んだ。
エダカであるフミの変化、色々な意味での開眼も効果的だ。ふくよかな余韻は、フミの変化によるところが大きいだろう。(何しろフミがたいへんに魅力的だ。あとがきによれば、最初、この人物は男の子だったそうだ。女の子に変更したのは大成功だったろうと思う)
改めて、ヤマダマコト氏、ただものではない。この1作で小説家としての存在を確固たるものにすることは間違いがないだろう。ただし、商業出版関係者の目に留まれば、だが。