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人称代名詞の広大な世界

日本語は面白い。人称代名詞だけ見ても、こんなに表現が豊かな言語はそうそうないのではないかと、外国語の知識が貧弱な僕は思ってしまう。
今日は、一人称の話。

男の一人称:ぼく、おれ、わたし、わたくし、あたし、おいら、じぶん、おら、あちき、こっち、うち、わし……
まだまだありそうだ。
そして、日本語の特徴である表記の多様性がある。
僕、ボク、俺、オレ……と掛け算で増えて行く。

女の一人称:わたし、わたくし、あたし、あたい、おら、うち、こっち、わし……

そう、男女で別の一人称もあれば、一緒のものもある。そこもまた面白い部分。

さらに、「私」は面白い。辞書的に言うと、正しくは「わたくし」と読むのだろう。でも、これは「わたし」と読んでしまうひとが大いに違いない。「あたし」と読ませてもいいし。
んん、どんどん広がる。

小説で言えば、一人称の選択だけでその人物の性格の一端を表わすことが出来てしまう。一方で現実を見れば、人はTPOとか感情の起伏によって、それを自在に(無理やりに?)使い分けている。
なんと深い世界だろう。(当たり前だよ、と突っ込む声が聞こえたけどw)

おっと待った。英語にも色々あるじゃない、I, My, Me, Mineとかさ。
そう思った人、ブーッ!

英語は助詞がくっついた状態で人称代名詞になってるだけだから、「自分」を主語として一人称で言う手段としては、Iの一種類しかないのだ(古語は考慮せず)。
俺が(は)、俺の、俺に(を)、俺のもの、というのを一単語にまとめただけに過ぎないわけだけど、言語構造の違いを感じて面白い。単純に、相当する言葉を訳して置き換えても意味が通じないのは、こういうところにも一因がある。言語圏が全く異なれば、その構造自体も、思考の構造自体もそもそも違うのだ。
だから、自動翻訳というのもなかなか意味をなさないのだよな、と思ったりもする。

要するに日本人は、目の前にいる対象によって、自己表現を変化させるのだな。目上のひとに対して「俺」ってのは使い辛いし、仲間内で「わたくし」って言うのも不自然だ。話をする相手との関係性によって、良く言えば柔軟に、悪く言えば優柔不断に自己表現を変化させるわけだ。そうやって、なめらかな人間関係を形作るのが日本人らしさの現われの一つ、というわけかな?

でも、たまにいるよね、そうやって振る舞わない人、振る舞えない人。KYって言ったりしてしまうけど、どうしてその人がそうやって振る舞うのか、それは自己表現の一環なのか、それとも傍若無人なだけなのか、はたまた謙虚過ぎるだけなのか、そんなことを考えたりしても面白いな。作品に生かせるかもしれないな、などと思う、今日の淡波。

ではまた!