カテゴリー別アーカイブ: イメージと現実

あわれ

つくづく、因果なものだなあと思う。

コブシの植わった庭がある。クリーム色の美味しそうなつぼみが膨らんでいる。
美しい花を愛でるために、人は花木を植える。

クリーム色の美味しそうなつぼみは、ほんとうに美味しいらしい。小鳥たちにとって。
ぼくの家の近くにあるコブシの木も、膨らみかけた蕾のいくつかがかれらの食料になった。

この家の庭の主は、それを防ぎたかったのだろう。
それはそうでしょうよ。家の庭のたった一本のコブシ。丹精込めて育てた木。

だから庭の主は、コブシをすっぽりと覆う網を掛けた。
あわれ、コブシの花は網に絡まり隠され、その美しい花姿の光を半減させた。
美しさを壊されないために、自らそれを壊す。
そんなものさと割り切るしかないのだけれど。

一方で、このユキヤナギ。
春を迎えて、小枝からはどんどん花が咲いている。
柵を越えて。
自由に、四方八方に伸びて咲き誇ってこそのユキヤナギだけれど、近いうちに剪定されてしまうのだろう。
近くには既に、柵を越えないように刈り取られた株も目につく。
歩行者の邪魔にならないことも、それはまあ、大事なことなのだ。

僕だったら全然構わないのに、むしろどんどん伸びてほしいのに!
と思う人間は、少数派なのだろうか?

あわれ。

文字から、映像が見える?

とは言っても、必ずしも〈映像を見るような描写〉ということではないんです。
映像化されたいということでもないし……、
映像を、文字で描くという感じでしょうか。

僕は、あまり「文学」という言葉じたいにはこだわりがありません。
僕の小説を読んで、いい映画、面白い映画を一本見たような気持ちになって欲しいのかもしれません。

だからといって、
映像化を前提として書いているということではないのです。

むしろ、
映像化できないイメージを文字で表現することで、頭の中にあなたなりの映像を描いて欲しいのですね。
誰かが具体的に描いた画像、映像ではなくて、具体的にどんな絵とは説明できないのだけれど、頭の中にふわりと浮かんでくるもの。
そういったものを味わって欲しいのかな、と思うのです。

「映像化されるのを前提で書くなら、小説である必要はない」
そう断言するひともいますよね。
その気持ちも分かります。
僕の作品を映像で見たいと言ってくださる読者さんもいます。

でも、
映画化された小説作品はあまり好きではない、という自分もいます。
小説できめ細かく表現された様々なイメージ、または曖昧に表現されたイメージを、万人が納得する映像に再現するのは無理、とも思います。
既読の小説が映画化されたとき、ほぼ間違いなく映画館でがっかりする自分もいます。
長大な小説を2時間程度の枠に収めるのはとても難しいでしょうし、短めの小説を、脚色を加えながら映像にするくらいがちょうどいいのかもしれません。

昔読んだ小説で、こういうものがありました。
主人公は人間ではないけれど、描写としては人間のように読める。
それがオチのどんでん返しで人間ではなかったことが分かる、という。

僕がSF雑誌オルタニアのvol.2に書いた『繭子』という物語もそんな感じでした。

いわゆる〈映像化不可能〉的なストーリー構成です。
(映像にした途端に、行間に仕込んだ謎が見えてしまうという)

もちろん、抽象的に表現するとか、語り手の姿を一切出さないなどの工夫で映像化は出来るでしょうけれど、小説を読んでいる時はきっと、読者は人間の姿を思い浮かべているのですよね。
それを、大胆に裏切るのは文字で書かれた小説ならではの醍醐味なのかなあと思ったりします。

まあ、そんなことを考えながら、今日も作品を書いています。

SF雑誌オルタニアvol.3の発売は3月です。
まだまだ、時間はありますね。
(そう思っているのは今のうち!)

では、また明晩!

また、リンゴに裏切られちゃったよ……

あ、リンゴと言ってもAppleじゃありません。本当のリンゴ。

先日、早生のふじリンゴを買ったのです。いかにも取れたてという感じで木箱に入って、美味しそうだったんですよ。初物っぽい雰囲気が出ていて。

食べた瞬間、いやあ、びっくりしましたね。これ、早生どころか去年のリンゴじゃん。って。カスカスで水分が乏しく、香りも味も抜けまくっていました。よく見ればヘタは枯れ切ってほこりっぽいし、とてもじゃないけど数週間とかいうレベルの古さではない。完全に騙されました。

もともとリンゴは長期保存がきく果物ですし、ほぼ一年中手に入りますよね。

まあ、何か事情があって保存されていたものなのか、単に売れ残りが大量にあったのか、それとももともとそうやって取っておいた昨シーズンのものを早生ものといって売るのが常套手段なのかは分かりませんが。ちょっと消費者をバカにしてるんじゃないでしょうか、ね。

食べても分からないと思っているのでしょうか?

(これだけの長期保存ものは特殊な冷蔵倉庫に入っているはずですから、単なる売れ残りではないんでしょう)

とても残念でしたが、そのリンゴくんたちは食べ切れず、さよならしてしまいました。

こんなネガティブな記事で済みません。だって果物大好きなんだもの。悲しかったんだもの……。

リベンジとして(いや、もとからの予定なんだけど)、妻が新鮮な紅玉できれいなリンゴジャムをたくさん作ってくれました。美味しいです。

今夜はここまで。

じゃ、また明晩!

ジュースとソーダ

ずっと、《正しいジュース》しかジュースとは言えないと思っていた。

「ジュースは果汁を搾った飲み物という意味。だから、果汁100%のものだけをジュースって言うんだよ」
たしか、昔英語を習っていたオーストラリア人の先生からだったと思う。そう聞いたのだ。

なるほど、と思ったし、昔はそれが当たり前のことだったのだ。
果汁を搾ったものを飲む。それがジュースの起源なんだろうから。

それをずっと信じて、自分でも人にそう言っていた。
「30%果汁の飲料は、本当はジュースじゃないんだよ!」
とかってね。

この写真を見てびっくらした。
juice2

これはアメリカの情景。
最近ちょっと話題になった《ソーダ税》についての新聞記事にあった写真だ。
最初は、《ソーダ税》という訳語自体が誤訳なのかと思った。だが、そうではなかった。訳は正しい。《砂糖入りの炭酸飲料などに対する税》がソーダ税だ。
だからこれは本来、ジュースとは正反対の飲み物が対象のはずだ。
コーラとか、オレンジ香料ソーダ水とか、そういったものに課税せよという話だ。
理由も、《健康に悪いから》と書かれている。果汁を搾った100%ジュースが健康に悪いとは考えにくいぞ。

でもここには、はっきりとJuicesと書かれている。
アメリカではいまや、100%果汁でないものをジュースと言うことが普通になっている。
────ということなのだろうか?

こっちが新聞記事のほう。

(朝日新聞より)
(朝日新聞より)

まあ、こうやって言葉は変わっていくのだな……。
ううむ。

そして、
こういう飲料ばかりに親しんだアメリカの子供たちが、たまたま何かの拍子に100%ジュースを口にしたら、
「わ、なんだコレ! ジュースなのに酸っぱい!」
「なんか果物の味しかしない!」
とかって思うんだろうかな……。

時代は、変わるんだから、これはもうそういうものだと割り切るしかないんだろうか。

やんぬるかな……。

じゃ、また明晩!

植物の大きさって?

tsubaki

この写真、何の木だか分かりますでしょうか?

そう、椿の木です。

椿の高さって、僕は「人の背丈よりまあまあ高いくらい」ってイメージがありました。
何となく、3mくらい。
僕の家の近所には、たくさん椿の木があるんです。住宅街で見られる椿の木って、普通は庭木ですよね。
だから、まあ邪魔にならないように3m前後に選定されていたりします。
それが、庭ではなく公園や共有空間に植えられていたりすると、かなり育っていたりすることがあって。
写真左の椿は、2階の屋根を優に越えるくらいの高さがあります。高さで言うと、5〜6mは軽く超えているでしょう。
(街灯は手前にあるので、写真上で比較はできませんが)

以前から、すごいなー、大きいなーと思っていたのですが、最近もう一つ気がついたことがありました。
近所の遊歩道にある植え込みに、見慣れた実が成っているのを見つけたのです。
──そう、椿の実です。

恐らくは、この両者は同じ頃に植えられたものです。

かたや、伸び放題に伸びて5〜6mを超え、かたや、毎年毎年きちんと刈り揃えられて、膝丈ほどの植え込みとして生きている。
哀しきかな、面白きかな、あわれかな……。
人は植物をコントロールしようとし、植物は順応して生き延びているのですね。

ここで、wikiを調べてみました。
通常は、5〜6m程度で、18mにも及ぶものがあるそうです。
18mと言えば、6階建てマンション程度の高さ。巨木の部類に入る……。すごいですね。
自分の近所で言えば、ケヤキやクスノキよりも大きいくらい。
あの大きさで、赤い花をいっぱいにつけていたら、さぞ壮観でしょうねえ!

今日は、そんなとこ。
じゃ、また明晩!


今日は、この本を紹介しないと、ね……。

歩きながら、歩道の脇に眼をやる。アスファルトとコンクリートの間、ほんの僅かな隙間から、イネ科だろうか、雑草がびっしりと生えている。大半は薄茶色になって枯れていたが、その間からは緑色の新しい芽が伸びている。
「植物こそが真の主役、ね……」
本当にそうだろうか?
「あれえ?」
作業員の上げた素っ頓狂な声は走り去る潤の耳には届かなかったが、他の作業員の一人が何事かと目を剥いて半身を起こした。

今週の一枚──あれ? そうだったっけ……

NumberPlate

きっかけはこの上の車のナンバープレート。
信号待ちでぼんやり見ていたら、「?」が点灯した。

上の行の小さな3と8、下の行の大きな3と8、書体が違わないか?
よーく見直すと、明らかに違う。しかも微妙に。
3は上の弧と下の弧で大きさのバランスが全然違うし、真ん中の突き出し方も微妙に違う。8は下の丸の縦横比が違う。これ、単純に細字と太字という違いではないのでは……。

家に帰ってから、近所の車のナンバープレートの数字をいくつかパシャッと撮り(不審者ぎりぎり)、画像にして検証。

むむ、どれもこれも違う。5なんか、下のカーブが全然違うでしょ?
これはもう別書体というくらい違う。
かろうじてかなり近いのは0だけど、やっぱり違う。写真には撮ってないけど、1ですら違っていた。小と大で文字の太さが逆転しているっぽい。

うーむ、何でだろう?

こんなことで悩む人は他にいないと見え、ネットで軽く調べたけど答えはなし。ナンバープレートの書体は「小松書体」というもので統一されているそうだ。きっと、小松書体にはいくつかのバリエーションがあるのだろう……。

いろいろな仮定があり得るだろうけど、僕の想像はこんな感じ。

お役所仕事での予算取りの問題:
 業者:「視認性を高くするためには、小さい文字と大きい文字は微妙にデザインを変える必要がありますよ」
 役人:「え、同じ書体の太さ違いじゃだめなんですか?」
 業者:「だめですね。ウチは『読みやすさ』に関する専門の先生と協力して書体をデザインしていますが、同じだと認識時間に差が出ます。事故や事件が起きた時、それぞれの書体を変えた方が認識ですとか記憶される率が上がって、検挙率も上がるんですよ」
 役人:「はあ……」
 業者:「ひいては、自動車の安全性にも関わってきます」
 役人:「それとこれとは関係ないんじゃ……」
 業者:「いいですか、これは私の意見ではなくて、専門家の先生のお話なんです。なんなら研究論文をお持ちしましょうか」
 役人:「論文……いいですいいです。じゃあ、はっきりとした根拠があるということなんですね?」
 業者:「もちろん、そうですよ。ご予算、確保できますよね」
 役人:「えぇ、まあ……」
 業者:「ではこちら、お見積もりです。書体二種類、読みやすさ検証費、先生のコンサルティング費も含まれてます」
役人:「課長、こんなやり取りがあったんですよ、書体のデータをデジタル化しようっていう時に」
 課長:「そうか、それでそんなに金がかかったんだな」
 役人:「はい」
 課長:「で、今回の見積もりは何?」
 役人:「はあ、ナンバープレート作成システムのOSがアップデートしたとかで書体のデータが使えなくなるんだそうで」
 課長:「流用できないのか?」
 役人:「はあ、私もそれを聞いたんですが、専門用語ばかりで何のことやら……」
 課長:「で、押し切られたのか」
 役人:「はい。これ、見積もりです」
 課長:「しょうがないな、分かったよ。じゃあ予算に積んでおくか」

あ、もちろん単なる空想ですよ。妄想。

今回調べられなかった4,6,7,9についても、気になる方は調べてみたらどうでしょうか?

面白いですねえ……。

じゃ、本日はこれまで!

カナブン

「そこの新聞受けにカナブンがいるの。取って」

妻は虫が苦手だ。特に飛ぶ甲虫は、例の黒いやつと同じように怖がる。気味悪がる。
女子は自分を可愛く見せるためにワザと怖がるんだよ、と、虫を怖がらない女子に聞いたことがあるが、そんなレベルではない。本当に冷や汗をかいている。

私がどんなに、
「虫は怖くない、刺しも噛みもしないから」
と言っても無駄だ。
どこに飛んでくるのか分からない、顔に飛んでくるんだから、と、青い顔をしている。
怖いことに理由なんてない、理屈なんか知らない、と、泣きそうになる。

私はちょうど新聞を読んでいて、今まで新聞が入っていたマガジンラックをちらりと見て言った。
「うん、取っとく」
妻は安心してキッチンに消えてゆく。

新聞を読み終わった私は、マガジンラックに新聞を戻さずに中を覗き込む。

──いない。
うちわや校正途中の原稿の束、国語ハンドブックなどをガサゴソと抜き出しながら、それぞれを入念にチェックする。

──いない。
マガジンラックの中を空にして、どかして、下を、裏を、ソファとの隙間を入念に観察する。

──いない。
どこかへ逃げしまったのだ。残念だが、今は諦めてもらうしかない。また、見つけたら捕まえればいいだけの話だろう。

「ね、いなかったよ」
私はさりげなく言う。
「そんなわけないもん!」
妻は泣き出しそうだ。
「だって、全部出して、下も裏も見たんだよ。また見つけたら捕まえるからさ」
「新聞受けだよ」
心もち、妻の口調に毒がこもる。
「うん、そこでしょ」
私はマガジンラックに視線を向ける。
「新聞受けだよ、玄関の」

私が玄関に走り、一瞬でアオカナブンをつまみ出したのは言うまでもない。

意思疎通って、難しい────。

『ティプトン』連載第10回

“農民として食料生産に携わるアフタースリープ世代は、この宇宙での放浪生活が永遠に続くと思い込むことで、逃げ場のないこの空間を自分の故郷と考えることもできたのだ。”

『ケプラーズ5213』より


── 10 ──


星などない

窓の外にあるのは
漆黒の虚空だ

星は微塵も動きはしない

わたしは見たのだ

わたしたちの船は
どこにも向かってなどいない

飛んでいるのかすら
怪しいものだ

ジャンプだって?
時空を超えるだって?

知ったものか

あれはきっと
彗星か何かが
近くを通った時の
言い訳なのだ

わたしたちは永遠に
何もない漆黒の虚空で
ただじっと浮かんでいるのだ

目的地などない
星などない

そうでなければこの人生が
このままひっそりと終わってしまうことに
耐えられるわけがないではないか

選ばれたものだけが眠り
《希望の星》との出会いを待っている?

まさか!

わたしの寂しい人生とともに
この世界は終わるのだから!


本連載は、原則として毎週木曜日に掲載します。

晩年の詩人ティプトンは、SF作品『ケプラーズ5213』にちょっとした脇役として登場しています。本当にちょっとした脇役ですが、案外存在感があって、作者のお気に入りキャラクターなのです……

地球を旅立って三千年後、人類は尊い犠牲を払いながらも、計画通りに492光年彼方の惑星ケプラー186fに到着した。
人類は惑星の各地に入植キャビンを送り込み、水と緑に溢れた美しい新天地に入植地を築きつつあった。
だが、人類の生息環境として申し分ないその惑星に、先住生物が存在しないはずはなかった。


今週の一枚─その境界

─いつものように、iPod touchで撮影─
─いつものように、iPod touchで撮影─

 

こんな情景を見ると、ちょっと不思議な気持ちになる。
そして、ちょっと嬉しくなったりもする。

コンクリートから生える鉄柱。
コンクリートの中にはごろごろと小石が埋まっている。
鉄柱は赤く錆び、雨に流され落ちた錆がコンクリートの表面を覆っている。

鉄柱とコンクリートの境界は、どこだろう?
視覚的にはもう、ほとんど判別がつかない。
両者の境目に線引きをすることは、なかなかに困難だ。

想像による創造と、事実による描写。
心の中と外。
愛と憎しみと、苦しみと優しさと、冷たさとあたたかさと。
尊敬と蔑み。
慈愛とネグレクト。
美と醜。
拒むこと、過ぎたるがこと。
肉と野菜。
鉄と岩。
光と闇。
善と悪。
男と女。
生と死。
白と黒。
赤と緑。
毒と薬。
右と左。
夢と現実。
原始と科学。
教師と生徒。
老いと幼さ。
人工物と自然物。
アナログとデジタル。
日本語と英語。
自然食品と人工食品。
川と海。
土と砂。
理想の未来と唾棄すべき未来。
過去の想い出と本当の記録。

あなたと私。

あの国とこの国。
あの宗教とこの宗教。

境界は、どこ──?


じゃ、また明晩!


《境界》
 と言えば……

書き下ろし短編、著者初の恋愛小説にして不思議な香りのするSF短編小説です。 《メタモルフォーゼと永遠の命》とは──?

観てきた:映画『フィレンツェ,メディチ家の至宝 ウフィツィ美術館』

ああ、またハズレを引いてしまったよ。楽しみにしてたのになあ。残念。ここまでひどいとは……。

まず3Dが意味不明すぎる。彫刻、建築はいい。ちゃんと効果が出てる。だからどうだという程の効果は感じないけど、まあ、立体だから、多少はその場で見るような迫力があった。特に建築は。

彫刻は微妙。カメラワークが悪くて、まだるっこしい。じっくり見せたいからじっくりカメラを動かしてるんだけど、見たいところは人それぞれだからね。うーむ、もっと工夫のしようがあるでしょ、と思わずにいられない。
(例えば、2画面に分割して、片側は全体像を常に見せ、もう片側で特徴のあるところのズームアップを順に見せるとか?)

圧倒的にダメなのが絵画作品。
全く意味のない3D化。
おいおい、そこをわざわざ立体にしてどうするの?
元の作品と全然違うじゃん。のオンパレード。

当然、《絵のすべての部分を完全に立体化してからそれに絵画をマッピングして、世界を再構築するような手間》は取られていない
何となく程度のレベルでZデプス(=奥行き情報)ぽいグレースケール画像を起こして、疑似的に立体にしている。曖昧なところや前後の逆転、切り抜くべきところで曖昧に誤魔化されていたりして、もう、手抜きの極致。

デッサン、ステンドグラス、果ては作者の肖像画まで擬似立体で見せられた日にゃあ、もう冗談としか思えない。
本当にまじめに作ってんのか?
単に「3Dにすると客が喜ぶだろう」くらいに思ってやってないか?

そこに追い討ちをかけるのが、無駄にうるさい音楽。全体的にはクラシカルな構成なんだけど、盛り上げるためなのか低音部には変なシンベが加えられて、もう安っぽいミステリーのよう。何しろうるさい。
美術館を再現するような映像なら、音楽なんかいらないんじゃないか?

さらにさらに、ダメダメポイントはまだまだ続く。

メディチ家の当主が案内役をしてるんだけど、無駄な芝居や裏話が多く、目を塞ぎたくなった。
(実際、3Dで見ていると目が疲れるので、この人のパートは半分くらい目をつむっていた。吹き替えだから、内容は分かるし)
おいおい、もっと作品を観賞させてくれよ〜。

それから、ウフィツィ美術館の元館長による解説がもう、押しつけがましすぎてあんまりだ。
いわく、美術を鑑賞するだけじゃだめだ。ちゃんと学んで、そこに込められた深い意味を理解しなければ、観たことにならないとかなんとか。
大きなお世話でしょ!

美術作品を生み出した人が、鑑賞者にそんなことを望んでいるとでも言うのかい?
作家は美しいものを生み出したくて作品を生み出しているんじゃないのか?
これは○○の象徴で、裏の意味はこう。それを知ることが一番大事で、それを知らなければ作品を見たことにならないなんてこと、作家が僕らに望んでいたとでも?
裏の意味って、「そういう理解もあるよね」、「そういう楽しみ方もあるよね」っていう程度なんじゃないのかな。
そもそも、後世の研究者なりが勝手に言ってることに過ぎないんだから……。

ああ……無駄無駄無駄。

美しい作品の数々を、その場にいるように鑑賞させてくれる映画だと期待して観に行った自分が馬鹿だった。
反省しますよ。
内容を事前に調べていたら、絶対観に行ってない。

それからね、駄目押しで編集がまずい。
意味のない(いや、深い意味を込めてるんでしょ、きっと)ロングショットの挟み込み。頻繁に行われるフェードアウトでは色相が破綻してるし、これじゃ素人じゃん……。
(あ、もちろん、これはお金を払った観客としての感想。別に、自分ならもっと上手いとか、そんなことは言ってないので念のため)

余計な部分なしで作品をきっちり丁寧に見せてくれる映画だったらどんなに良かったか……作品数もきっと倍は入れ込めただろうな。こんな無駄な演出を観客が喜ぶと思ってやってるんなら、客を馬鹿にしているにも程がある。

エンドロールの後でおまけについていた、登場作品の目録のような映像。あそこが一番良かった、と、妻も言ってました。

あ、一つだけ良かったこと。
前半の建築の見せ方や紹介の仕方はとても良かったかな。
アップにロングに空撮にCGに図面に、このあたりはかなり効果的だったし、これは現地で見るよりいろいろな側面を見る・感じることが出来た。

はあ……。

済みません……毒を吐きすぎたかな。
あんまりがっかりしたんで。
(一緒に行った家族も同じ感想だったので、念のため)

じゃ、お休み!