それは美容師さんの好みで選ばれたものなのだろう。文句を言う筋合いのものでは全くない。でも、僕はあれが嫌いだ。我慢ならん、と、つい思ってしまう。
「明日」「道の途中」「信じて」「いつか」……
ああ、もうあとは忘れたよ。多分、「つばさを」もあったろう。
聴き飽きた王道ドラムフィル。感動進行。気持ち悪い裏声(あ、これは好みか……)。
《売れるため》に作られた使い捨ての甘いバラード音楽が、コンピレーション・アルバムなのか、有線なのか、延々と流れている。適当に歌詞を入れ替えても、誰もその違いが分からない。全体でなく、部分部分の言葉、耳障りの心地よさで作られた音楽だ。
ミュージシャンを入れ替えても分からないだろうし、たとえ歌い手を差し替えたとしても、ファン以外にはきっと違いが分からない。でもそう言い切ってしまうのは乱暴だし、失礼なことだ。彼ら、彼女らだって、仕事でやっているのだ。し、ご、と、で。
存在自体を否定するつもりはないし、それが好きなひとに文句を言うつもりもない。
それが成立してしまう世界があってもいい。
でもさ、1時間弱座りっぱなしで、逃げられない場所で、その音楽をかけないでくれよ。(「店員に換えるように頼めよ」って言わないで! これは僕だけの個人的な感想なのだから)
そう思いながら、これは小説にも言えることではないかと、ぼんやり考えていたのだった。小説を書いて発表している以上、値段を付けて販売している以上、誰だって読まれたい。売れたい。そう思っているはず。
だから、売れているものを全否定するのは虚しいだけだ。そこにも学ぶべきことは必ずあるのだし。
多分、小説の世界にも売れるためのセオリーってのがかっちりとあって、そうやって売り続けている売れっ子もいる。もちろん、そうやってセオリー通りに書いたってつまらなければダメだろうし、ただ面白いだけでもダメだろう。
宣伝費をドカンと投入して売れても、それはずっと続けられるものじゃない。二作続けてつまらなければ、どんなに面白いって言われてもそうそう読みたくなるものじゃないし。
僕はどうも天の邪鬼で、《王道の設定らしきものを使って正反対に突っ走る》とか、《売れすじっぽいプロットでめちゃくちゃに読者を裏切ったり》とか、そんな調子で書いてきた。
よく言われる、《どんな形であっても、主人公が成長しない物語は人の心に響かない》みたいな話には、つい反発して逆行してしまう。まあ、単にそういうものが上手く書けないってだけなのだろうけど、ね。
まあ何というか、この美容院の話だって、僕の天の邪鬼体質のせいで感じることなのだろう。
だから僕の作品は、「面白いけど、商業ベースにはのらないよね、だからこそセルフ・パブリッシングは面白いんだ」そんなふうに言われたりもする。面白いと言われるだけでも非常に嬉しいことだし、その言葉を糧に頑張れる。でも、やっぱり物足りなさも感じてしまう。
それでもね、僕はやっぱりああいった《お約束系》のパッケージを作りたいとは思わない。そんなの自分らしくないじゃないかと思う。自分らしくない作品を作ったって、自分が作る意味がないじゃないかと思う。
とても面白い作品を、作りたいと思う。読者に喜んでもらいたいと思う。そしてあわよくば、感動を生みたいと思う。いつまでも心に残るものを生み出したいと思う。
それでも、そのための方法論には飛びつきたくない。七転八倒して生み出すことを、苦しいだなんて思わない。
こうやって相変わらず青臭いことをのたまいながら、それでも《自分にしか書けない、とてつもなく面白い作品》を書けないものかともがき、思案し、小さな物語や大きな物語を、飽きもせずに書き続けているのだ。
今日は、そんなことを考えた半日だった。