Works of 淡波亮作

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飛ぶ夢なんて、飛ぶ夢でしかないのに

この私小説、微毒につき

これはきっと、文字で描かれた六枚の抽象画。

夢、逃げられない罠、後悔と諦め、欺瞞、捨てたくない希望、忘れられない情景──

夢に追われて、妄想は加速する。
収録作品(各冒頭の試し読みを兼ねています)
『飛ぶ夢なんて、飛ぶ夢でしかないのに』

 ほら、やっぱりそうだった。間違いでも記憶違いでもなかった。ほんの少し、空を搔く手に力を入れれば良かったのだ。少しだけそのまま我慢して動作を続け、手のひらに抵抗が生まれるまで待てば良かったのだ。ああ、待ってみて良かった。私は間違っていなかった。見上げる先にそびえる楠の巨木が、優しげに微笑んで私を見下ろしている。さわさわと葉が揺れて、私を誘っている。

平泳ぎは、空を飛ぶためにある。水泳における平泳ぎとは、その練習のために存在している。私の記憶は、全くもって正しかったのだとたった今、証明された。

私はぐいと力を込めて、斜め上四十五度方向へと突き出した手のひらをくるりと返して空を左右に搔き広げる。わずかに開いた指の隙間から、濃い気流がすり抜けて流れ、空に透明なマーブル模様を作る。その模様はウスバカゲロウの羽“羽のように弱々しく光りながら縒れながら、私の周囲に冷たい膜を形作る。両手を思い切り腰の前に引き寄せながら閉じると、私は強く地面を蹴った。

ふわり、とではなく、縛られた重力からするりと抜け出すように、私の身体は宙へと泳ぎだす。



『鱗の断片』

思い出せる限り、その場所はきっと船橋だった。

曖昧で、しかも船橋らしからぬ風景なのだが、眼下に南国のようなエメラルドグリーンの海が広がっていたこともはっきりと記憶にある。私は、国道から海岸へと下る未舗装の歩道を走る木の手すりに、手のひらを滑らせる。風雨にさらされて乾ききった、でも表面のきわめて滑らかな丸太だ。坂道を下っていると、潮の香りが強まってくる。防砂林を抜けると視界が一気に開けるが、目の前に広がる風景は記憶にあった砂浜とは異なった様相を呈していた。

現れたのは、小ぢんまりとした湾の中で静かに波を運ぶ灰色の海だった。大きく黒々とした岩をそっと洗う波はとても静かで、岩がちなのに荒々しさはなかった。だがここが南国のようだったという記憶はどこから来たのだろうと訝しむ。視界に入る範囲には砂浜らしきものはなく、水辺まで下りて行けそうな場所もない。積極的に泳ぐつもりで来たわけでもないが、海には浸かりたかった。ひと気も少ないが、乾いた岩の上に男が座っている。私はそこへ向かって岩場に足を掛ける。


『影の声』

暗闇のただ中で、振り返ることが恐ろしくて際限なく想像してしまい、悪寒が走る。

寒さのせいではない、もし今が夏でも、震えずにはいられないだろう。国道の下を横断するためにくり抜かれたごく短いトンネルの出口付近で私は立ち止まり、振り向けず、かといって走り出すこともできないで震えていた。

後ろに、トンネルの外に、あいつがいる。陽だまりの中でじっと立ち止まり、沸騰も窒息も溶解もせず真っ直ぐに立ち、私を見つめている。黒いマントを肩から垂らしたあいつの、真っ白い顔の中で真っ赤な血を滴らせる牙が、私の匂いを嗅ぎつけてカチリと鳴る。私は必死に想像を追い出し、空想だと自分を戒め、靴底を引きずって前へ進もうとする。

同級生が、何事もないように私を後ろから抜く。ちらりとも私を見ずに通り過ぎる。まるで何事もないように、私とあいつ以外の時計は動いている。


『翼がなければもっと羽ばたけばいい』

黒い鉄箱の上に、私は座っていた。

尻の横についた手のひらに、薄灰色の埃が乾いた膜を作る。眼下の眩しさに比べて、この場所は薄暗くて物哀しい色をしている。

天井を見上げると、黒い箱を吊ったワイヤーが私の動きに連られて揺れる。箱がわずかに傾き、隣に座った少年の前髪がふわりと揺れる。少年はキッと私を睨む。尻の脇の黒い鉄板には小さな穴がぽつぽつと空いており、申し訳程度に光が漏れている。

じっと光を見つめていると揺れは収まり、少年は私の存在を気にするのをやめたようだった。熱を発しているはずなのに照明器具の上は思いのほか冷たく、隣に座る少年は苦々しい顔つきをしていた。少年は尻を少し上げ、埃でまだらに汚れてしまったのをしきりに気にしている。

黒い箱が揺れる。頭上のワイヤーがたわむ。今度は私が少年を睨む番だという気もしたが、私は視線を動かさずにじっと固まっていた。


『殺したのか、隠したのか』

またも私は逃げる。脇腹がひやりとするのを感じながら、もしもこれがバレてしまったらと思うと冷や汗をかかずにはいられない。目に見えぬ冷や汗だが、きっと妻の目には映っているに違いあるまい。真っ暗闇の中で、おかしな呻き声となって私の怯えを晒しているに違いない。

それがいつのことだったかは、記憶にない。それが誰だったのかすら、おぼろげな記憶ですらない。顔を思い浮かべることも、いかなる特徴を思い出すこともできない。灰色の影だけが、記憶の奥底にめり込んでいる。しかし、この畳の下に腐った死体が埋まっていることだけは、間違えようのない事実だ。それを私は真夜中に突如として──


『天の外側で私をたたく』

まず目に映ったのは猫脚だった。イタリア風の古びた家具の足下によくあるあれだ。

腹ばいになったまま、私は視線を上げる。その部屋には、所狭しと焦げ茶色の家具や古道具のようなものが並べられていた。家具屋かと思えばそうではなく、古道具屋かと思えばそうでもない。店、というより、そこは薄暗い玄関ホールのようなガレージのような、半ば開けて半ば閉じた曖昧な空間だった。屋内のようだが、頭上にはどんよりと重々しい雲が垂れ込めているようにも見えた。それとも、古ぼけて汚れた天井がそう思わせるのかもしれない。

寝そべっていたコンクリートの床が胸に冷たく、両手を突いて上半身を持ち上げる。だがいきなり立ち上がるのも不安だった。誰がどこで見ているかわからない。そっと周囲を見回すと、鉄製の螺旋階段が、ここより更に暗い上階へと続いているのが見えた。より暗い場所からならば、こちらは明るく見えるだろう。私はひときわ慎重に身体を動かさぬようにして、しばし目を凝らす。待つ。視線の先からは物音ひとつ聴こえず、ほんの僅かでも明かりの痕跡はない。上階には誰もいないと結論しても問題ないだろう。
 



文字中毒の方の、ティータイムのお供に。一回につき、一話ずつお楽しみください。
きっと、良いお茶うけになります。
後悔しても、知りませんが、ね──

ご注意:
各話にはこれといったストーリーやオチはありませんが、純文学でもありません。
起承転結もどんでん返しもありませんので、文字中毒の方以外にはお勧めできません。
著者としてはなかなかお気に入りの作品集なのですが、ね。
──悪しからず!






©Ryousaku Awanami 2017.