太陽の子孫
淡波亮作
『あゝ、もしも私に翼があったなら、この絵はすっかりあなたがたに差し上げてしまっても良いのに!』
/画家 ヒルダ・ヴーハー
この作品はフィクションであり、実在するいかなる団体、個人、商標とも関係はありません。
1
ピンポーン。
静穏な早朝の空気を、不躾なチャイムがかき乱す。陽子がモニターを覗き込むと、郵便局の制服に身を包んだ若い女性の姿が見えた。
「はい」
そう言ってモニターのスイッチを切り玄関に向かう陽子に、うつ伏せに寝そべったままの空が不安げな顔を向けた。
「母さん?」
陽子は空を安心させるように、微笑んで見せた。
「おはようございます、白浪さん。書留が届いてます」
玄関を小さく開けた陽子に、郵便局員が封筒を掲げ、笑みを浮かべた。
「済みません、印鑑を、お願いします」
陽子が扉を開くと、女性は扉が閉まらぬよう玄関に足を踏み入れた。物入れから印鑑を出して足先にサンダルを引っかけた陽子が顔を上げる寸前、女性が声を上げた。
「Go!」
女性は勢いよく扉を開け放つと陽子を突き飛ばし、靴のまま走り込んできた。さらに女性の背後からは、2人のスーツ姿の男が入ってくる。
「え? ちょっと、何ですかあなたたちは、人の家に土足……」
すぐに立ち上がった陽子が女性に追いすがり、リビングを抜ける。女性は、一直線に空のいる寝室に駆け込んだ。呆気にとられる空の目に、不自然な姿勢で宙を舞う陽子の視線が絡みついた。男の一人が、駆け寄る陽子の首に強烈な肘打ちを食らわせたのだ。
そして、空の記憶はそこで途切れた。腹を襲った鈍い痛みとともに。
時間にしてわずか数分の出来事だったのだろう。空は、加速しつつある車の中で目を覚ました。背中がヒリヒリと傷んだ。窓外を見ようと顔を上げた瞬間、甲高いブレーキ音と共に車が急停車し、空の体は前席の背面にしこたま打ちつけられた。隣に座っていた郵便局員姿の女もバランスを崩し、つんのめっていた。
「危ねーじゃねーか!」
運転手が窓を開け、下品な声を上げる。車の前には背のすっかり曲がった老婆が立ち止まり、こちらを見ていた。その目は、老婆のものというより、猛禽が獲物を狙うもののようだった。
その顔が、ニヤリと笑った。どこからともなく二本の腕が伸び、運転手の首を締め上げていた。と同時に、老婆がしゃんと背を伸ばしてドア横に回り込み、ドアを開けると運転手を引きずり出した。助手席側から飛び出したスーツの男が、銃を構えた。狙いを定めるまでもなく、その背後から音もなく迫った女が銃を蹴り落とし、そのまま男の股間に一撃を食らわせた。老婆、いや、老婆の振りをしていた男が、後部座席のドアを開ける。上着の中にリュックを背負っているように、背中が膨らんでいた。すっかり背中が丸まった扮装をするために、何か詰め物をしているのだろう。猛禽の眼差しを持つ男と目を合わせた郵便局員姿の女は怯えきって、抵抗を試みようとはしなかった。
空はまた、別の連中にさらわれた。今度はすっかり目隠しをされて。
「白浪空くん、十二歳。あと五日で十三歳。間違いないかい?」
あんなに乱暴な連中にしては、優しい口調だった。まだ返事もしていなかったが、目隠しがそっと外され、空は眩しさに目をつむった。
「驚かせて悪かったね、私は神谷、神谷昇平だ。あの場合……、仕方がなかったんだ。どうか、許して欲しい」
「家に、母さんのところに帰して!」
空は目をつむったままで言った。
「済まないね、でもそれはできないんだ。君のお母様は亡くなってしまったのだし──」
「母さんが? 嘘だ、嘘つき!」
その言葉に、空は両眼を大きく見開いた。空の眼に、神谷の背中の膨らみが映った。この男もまた、あの時、老婆の振りをしていた男と同様に、背中が膨らんでいた。上着の中にリュックを背負っているかのように。空は言い知れぬ嫌悪感に、眉をしかめた。
「私たちの仲間が、君の家に行って確かめたんだよ。本当なんだ。ごめんね、お母さんを守ってあげられなくて」
神谷と名乗った男が嘘をついているようにも思えなかったが、言っていることは間違っていた。事実ではない。そうだ、誘拐犯の言うことなど、信じてはいけないのだ。
「嘘つきの言うことは聞けない。たまたま歳は合ってるけど、誕生日は一週間先。おじさん、いい加減なこと言わないで。母さんは死んでなんかいないし、おじさんたちは誰も僕の家になんか行ってもいない。そうでしょ?」
「いいや、あいにくだが、私は嘘をついていないんだ。君は、ここで二日間ずっと寝ていた。今日は、五月二十四日。そしてお母様の命日は、五月二十二日だ」
「嘘だ」
空は神谷を睨みつけた。だが、空は既に、神谷の言葉を信じるしかないことを悟っていた。
「分かったよ。でもとにかく、家に帰して。身代金なんか払える人、誰もいないんだからさ。どうしてオレなんか、誘拐したんだよ──」
「私たちはきみを誘拐したのではないよ、誘拐犯から取り返したんだ。それに、家に戻ればまたあいつらに襲われる。きっと今度は、君をいきなり殺すだろうね」
「殺す、って!?」
想像もしない言葉の強さに、空は両目を見開いた。眩しさで急に思い出したように、背中が疼いた。空は背中に右手を回す。ふと気付くと、手足の自由は奪われてはいなかった。空は立ち上がり、左右を見回した。出口は? 逃げ場所は? 気がつかなかったが、部屋にはもう一人いた。女だ。
「申し訳ないけど、あなたはここから出ることはできないの。ずっと、ここで私たちと暮らすのよ。家族として、ね」
回し蹴りの女だった。あの時は分からなかったが、女優のように美しかった。
2
「ここは、どこ?」
「安全な場所。誰も、知らない場所よ」
「学校に行かなきゃ! ね、帰してよ。安全な場所なんか知らない!」
女は首を横に振った。
「あなたは、学校へは通っていない。そうね?」
「そんなこと、ないよ!」
反発が、大きな声を出させていた。ばれた、と思ったのだ。どんなに母が懸命に教育を施してくれたとしても、やはり学校に通っていないことは一目でばれてしまうのだ。きっと、顔にそう書いてあるに違いない。この子はバカです、と。こいつらには分かっているのだろう、自分が私生児であること、そしてきっと、自分には戸籍もないこと。それが、誘拐しやすかった理由なのだろう。自分をどこかへ売り飛ばしても、誰にも分かりはしないのだから。
「だって!」
「いいのよ、あなたの事情は分かってる。それが、あなたをここに招いた理由だもの」
「招いた? 『誘拐した』だろ!」
空は声を荒げていた。怖ろしかったのだ。女の優しげな表情は見せ掛けだ。興奮すると、背中の瘤が疼く。空はしきりに背中を気にしていた。
「痛むの?」
女の手が伸び、空の背をさすった。
「もうすぐ、だわ──」
「売り飛ばすまで、か? こんな変な病気持ちが売れるとは思えないけど!?」
「落ち着いて、空くん。あなたの背中は、私たちの家族である証し。それが、あなたを招いた《あなただけの事情》なのよ」
「おばさん、何言ってるか分かんない。オレをどうするのさ!」
「おばさんはひどいな。独身だし、レイナって呼んでよ」
「知るかよ」
「わざと毒づかないで。私たちは、あなたの味方。分からなかった? あいつらが誘拐しようとしたあなたを、救い出したのよ」
「ブリッカーズ? 何それ」
「Brick/kers. 煉瓦を積む者たち。──造語だけどね。世界の変革を望まない、保守主義者たちの組織よ。私たちRRRとは正反対の理想を掲げて世界を縛りつけているの」
「トリプラ? 何だかアニメみたいな話だな。そんなのどうでもいいけどさ……。要するに奴隷商人でしょ。オレを、取りあって誘拐したんだ……いったいなんでオレなんかを」
「あくまでも悪者にしたいのね。じゃ、行こうか」
レイナは空の手を取り強引に引っ張ると、歩き出した。
「何度も言わないから、これだけは覚えておいて。私たちは、あなたを助けるためにブリッカーズから奪った。私たちは決してあなたを傷つけない。もしやつらが来なければ、もっとちゃんと、あなたを迎えに行く準備だってしていたの」
白い廊下を、レイナは話しながら歩く。温かく柔らかな手でしっかりと、空の手を握りしめて。
「ごめんね、私たちがもっと早く行動を起こしていれば、お母様だって……」
その言葉は、誘拐犯のそれではなかった。レイナは空の手を握る右手にぐっと力を込めた。その温かさは、かたくなな気持ちでいた空にレイナの優しさを垣間見せた。
「背部瘤状突起症候群、それが私たちの病名よ。もし、無理やり病名をつけるのならね」
「私たち……レイナも、そうなの?」
「名前、呼んでくれたのね」
レイナがその美しい顔をほころばせた。
「私はね、完治してしまったの。その意味を知る前にね」
「完治して、しまった?」
「あなたは、治したい?」
「うん。痛むから、治るものなら──」
空は背中の乾いた瘤に手をやり、顔を歪めた。
「そう……あなたの瘤は、いつから?」
「生まれた時からあったって、もっと小さかったけど。母さんが……」
「そう……、ずっと辛かったのね」
「うちは貧乏で、病院にかかるお金もないって」
「そう……貧乏で……」
レイナは同情ではなく、不可思議な表情で空を見ていた。
「それから……、そう、本当は、レイナの言うとおり学校にも行ったことがないんだ。昼間はずっと家にいて、外に出ることもないし──こんな背中だから。でも、母さんはちゃんと僕に勉強とか、学校のこととか、教えてくれたんだ。だから僕……学校に行ってる子みたいには……」
ちゃんとしていない、という言葉を、空は飲みこんでいた。母を、たった一人で自分をここまで育て上げてくれた母を、悪く言うように思ったからだ。
「分かるわ……。ずっと、お母様と二人きりだったのね。でもね、あなたは小学校六年生にしてはむしろ大人びてるくらいだわ。知性的だし、とても学校に通ったことがないようは見えないな」
「あ、ありがとう、レイナ。じゃあ、母さんのやり方は間違ってなかったんだ……」
「そうね」
レイナが微笑んだ。
「ここで、この病気が治せるの……?」
見上げる空の両肩に、レイナが優しく手を置いた。
「いいえ。もうあなたの瘤を取ることはできない。皮膚を破る前であれば取れたかもしれないけど、今、取ったら命に関わるの」
「じゃあ、治せないの? これがどんどん膨らんで、終いには……死んじゃう、の?」
「大丈夫。空くん、あなたは病気なんかじゃない。治す必要なんてないの」
レイナは歩く速度を上げると、前方に目をやり、晴れやかに言った。
「ああ、それにしても、間にあって良かった!」
「間にあって、って?」
「着いたよ! 驚くと思うけど、恐れることはないの。さあ!」
空の言葉には答えずにそう言うと、レイナは高さが3メートルほどもある白い開き扉をぐいと押して開け放った。
「わあ!」
口を開けて仰ぎ見るその空間は、美しい森であった。屋外なのか、そうでないのか、どのくらいの広さがあるのかも空の目には分からない。直前の疑問も、空の心の中から消し飛んでいた。
最も空の目を奪ったのは、空だった。いや、空ではない、それはきっと──天井だ。高さ数十メートルはあろう樹冠の上には、格子状の構造物が走っていた。それが、天を覆っていた。そしてその格子に囲まれた四角い空は、青い、水であった。白い波紋がゆらゆらと煌めき、気持ちの良い柔らかな陽光を森に降り注いでいたのだ。