フィルター:文フリに行ってとりとめもなく考えたこと

クリエイターものづくりするひとは世界のフィルターだと思う。

世界を、自分という名のフィルターに通して再構築する。それが、クリエイターの役目なのだと思う。その世界が現実の世界であるのか、頭の中で創り上げた世界なのかは無関係に、やはりその世界は現実の世界を再構築したものなのだと思う。

だから、誰も見たことのない、想像も出来ない新しい世界は、誰も楽しむことが出来ないのではないかと思う。
もし、そんなものを構築出来たとしても。
どんなにオリジナルな世界もどこかに必ず、現実とのつながりが必要なのだと思う。

それは、クリエイターの身体と頭脳と心というフィルターを通して、いったん崩した現実世界が再構築されるものだから、クリエイターは常に過去の優れた作品に学ぶ必要があるという考えも、実は少し怪しいのではないかと思っている部分が、心のどこかに居座っている。
自分の中にどんなフィルターを創り上げるかというところまでは、過去の作品を学ばなければならないのだとは思うけれど。
(そのフィルターは常に磨いていなければいけないけれど、その「磨く」という行為は自然で自発的なものでなければフィルターの表面に傷を付けるだけになりかねない)

どちらかといえば、いったん自分というフィルターが形作られた後では、必要なのは現実世界をもっと知ることではないかと思うのだ。
過去の歴史や人々の考え方、広い世界の様々な事象を学ぶことが必要なのは言うまでもないけれど、誰かがそれらを表現した作品を、クリエイターが観賞することにどれだけの意味があるのだろうかと思うことがある。
たまにある。

美的なセンスであるとか、作品の善し悪しを判断する基準とか、それは既に自分の中にある何かとの比較だったり、それを世界と比較する方法だったり、そういうことなのではないかと思う。

先日初めて文学フリーマーケットに行ってみて、そんなことを考えた。

きっと、僕のまったく知らない素晴らしい作品が数え切れないほどあって──それはもう、どう考えても間違いのないことだ──、読者・鑑賞者との出会いを待っている。
でも、僕ときたら……。
(あとは想像にお任せします)


学生の頃、文学の勉強のために文学を読んだ。楽しみのためではなく。
(もっといい詩をかくために、文学的なセンスが必要だと思ったのだ)
それはもう、とてつもなくつまらない読書だった。

いっぽうで、全くためにならないと思われた幻想文学なるものを貪るように読んだ。
とても楽しく、充実した時間だった。
たぶん、今の僕を考えるとこやしになったのだろうと思うけれど、それは「好きだから」というだけで、「吸収したい」とか、「影響されたい」とか考えて読んだわけではなかった。

まあ、誰だって、そうかな……。

若い頃、焦っていた。
もっと、いろいろ吸収しなきゃと思っていた。
好きでもないクラシック音楽を聴いたり、小難しい本を読んだりした。
でもそれはきっと、微塵も僕の何かを構成してはいない。

好きこそものの上手なれ──。
と、いうことなのだろう。

「インプットすること」にあまり興味がないことへの、言い訳に過ぎないとも思ったりする。

今は、好きでないものの中に好きな何かを見出すことも覚えたけれど、
敢えてそれを選びとる必要のないことも覚えた。

いいもの、悪いもの、優れたもの、美しいもの、醜いもの、楽しいもの、悲しいもの、難しいもの、簡単なもの、堅いもの、柔らかいもの、好きなもの、嫌いなもの……。
とりとめのない、結論のない思考を、ただ、だらだらと繰り返す。

まあ、その日の気分で変わっちゃうけどね、とも思ったりする。
それが、自分というもの、か。

誰だって、そうか……。

じゃ、また明晩!

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