ラノベをちょっと読んでる

先日から、ひとの勧めで人気のあるラノベをちょっと読んでみている。
まあ、面白い部分もあるし、上手いなあとも思う。でも、良い悪い以前に小説を読んでいる感じがしないのだ。
これは、好みによるところがかなり大きいのだろうけれど。

「お前、きっと天才だよ。ってか、少なくともすげー才能ある」
僕がその作品の作者の友人だったら、そして、僕も作者も高校生くらいだったら、きっとこんなことを僕は言っただろう。
お世辞でなく。
でもそれは、それが小説作品として完成しているという前提ではなく、面白いけど小説じゃねえよな、ちゃんと書けば相当上手く書けるんじゃないの? という前提条件付きなのだ。

きっと、だから《ライト》ノベルと言われるんだろうな、と考えたりする。
小説と言い切るには何か物足りない。物語の進み方が《お約束》を前提にし過ぎている。
【Aと書けば、読者がそれは《あのA》だと分かっているような世界で閉じている感じ。たとえ一般のひとにとってのAが無数に存在しても】。
と言えば良いだろうか?

世界を構築する必要がない?
リアリティなんか必要がない?
別に悪く言いたいわけじゃない。僕のようなタイプは、やっぱりラノベには付いていけない。それだけだ。

それでもきっと、その作品は最後まで読むと思う。
食わず嫌いでなく、その味を知った上でなければ、距離を測ることも出来ないからね。

世の中に溢れている若者向けの本の多くは、こういう世界で描かれた作品なんだろう。
それを理解するだけでも、何か小さなものを得られるんじゃないかと思う。

僕はそういうものを書く気にはこれっぽっちもなれないし、もし書いても、決して売れるものにはならないだろう。言い訳だとか、逃げだとか、才能がないとかあるとか、そういうくだらないことではないんだ。
それは、音楽をやっていた頃、身にしみて分かっている。
楽しんで売れ線を受け入れられない人間が、無理に書いても売れ線のものなんか作れないのだ。
無理して自分の世界を壊すなら、売れ線ではない自分の世界を尖らせ、突き詰め、深め、自分のレベルを売れ線作品と同列になるまで押し上げるんだ。それが、自分の個性を愛するということなんじゃないか?

今日も少しだけ、考えている──。

自己出版の世界には、それを突き詰めることで生活の糧を得られるくらいの読者を得られる可能性が必ず潜んでいるのだと、まだ、信じているのだ。

じゃ、また明晩!

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