カナブン

「そこの新聞受けにカナブンがいるの。取って」

妻は虫が苦手だ。特に飛ぶ甲虫は、例の黒いやつと同じように怖がる。気味悪がる。
女子は自分を可愛く見せるためにワザと怖がるんだよ、と、虫を怖がらない女子に聞いたことがあるが、そんなレベルではない。本当に冷や汗をかいている。

私がどんなに、
「虫は怖くない、刺しも噛みもしないから」
と言っても無駄だ。
どこに飛んでくるのか分からない、顔に飛んでくるんだから、と、青い顔をしている。
怖いことに理由なんてない、理屈なんか知らない、と、泣きそうになる。

私はちょうど新聞を読んでいて、今まで新聞が入っていたマガジンラックをちらりと見て言った。
「うん、取っとく」
妻は安心してキッチンに消えてゆく。

新聞を読み終わった私は、マガジンラックに新聞を戻さずに中を覗き込む。

──いない。
うちわや校正途中の原稿の束、国語ハンドブックなどをガサゴソと抜き出しながら、それぞれを入念にチェックする。

──いない。
マガジンラックの中を空にして、どかして、下を、裏を、ソファとの隙間を入念に観察する。

──いない。
どこかへ逃げしまったのだ。残念だが、今は諦めてもらうしかない。また、見つけたら捕まえればいいだけの話だろう。

「ね、いなかったよ」
私はさりげなく言う。
「そんなわけないもん!」
妻は泣き出しそうだ。
「だって、全部出して、下も裏も見たんだよ。また見つけたら捕まえるからさ」
「新聞受けだよ」
心もち、妻の口調に毒がこもる。
「うん、そこでしょ」
私はマガジンラックに視線を向ける。
「新聞受けだよ、玄関の」

私が玄関に走り、一瞬でアオカナブンをつまみ出したのは言うまでもない。

意思疎通って、難しい────。

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