カテゴリー別アーカイブ: 書き表し方

外来語って難しいよね……

クリックすると検索結果に飛ぶので、日本語と英語の発音も聴いてみてね!
クリックすると検索結果に飛ぶので、日本語と英語の発音も聴いてみてね!

……っとまあ、こんな画像で始まった本日の記事なんだけど、最近たまたま、仕事でもプライベートでも、この言葉を続いて使う・聞く、機会があったんだ。

Teaseという言葉がもとで、これは「いじめる」「ちょっかい出す」「じらす」というような意味。発音としては、「ティーズ」で、真ん中は長音。アクセントは「ティー」にあるから、雰囲気としては結構伸ばす感じになる。

Teaserという言葉があまり日本で知られていなかった頃から、たまたま僕はこの言葉を知っていて、「ティーザー」とカタカナ化していた。以前は、ティーザーと言っている人も多かったんじゃないかと思う。
ところが、それがだんだん一般化してくると、言いやすいように短く変化していったみたいなのだよね。

今、仕事場で飛び交っている言葉は「ティザー」。
「ティザー・サイト」とか、「ティザー広告」のような熟語にするには、確かに真ん中を伸ばさない方が言いやすそうだ。
だけどもうきっと誰も、Teaseの語感のイメージを持っていたりはしていない。
僕としては、ティーザーという言葉の持つ「もったいぶってチラ見せする」イメージが好きなんだけどなあ……。

もしかしたらそのうち、ティーザーという言い方は「間違い」ということになっちゃうんだろう。
間違いじゃないにしても、
「何気取ってんの、こいつ」
「何? 外人気取り?」
みたいな顔をされるのが目に見えている。
(いや、もちろん、巻き舌はしないよ。しないから!)

今のところまだ、WEBの検索結果では真ん中を伸ばす「ティーザー」が優勢のようにも見えるけどね。

これは、「ティーザー」でなく、「ティザー」で検索した結果。
これは、「ティーザー」でなく、「ティザー」で検索した結果。

あなたはどっち?

そんなこと、どっちでもいい?

じゃ、また明晩!


今日の紹介は、この本かな。
(直接関係ないけど……)

主人公佐山哲夫は、就職内定後にM&Aで世界的な工業食品コングロマリットに買収された陽山食品工業に就職した。
俺は知ってるんだ。本当に旨いものなどもう、──少なくとも外食産業や一般に流通している食材を見る限り──どこを探したって見つからないってことを。
ある小さな事件をきっかけに、佐山は自らの目に見えていた世界が、本当の世界ではなかったことに気付き始める。

ルビ、どうしてる?

本日の記事は昨日の続きです。
昨日の記事はちょっと文字数が増えてしまったので、「自分だったらこのくらいまでしか読まないかも」というあたりで切りましたw。

さて、ルビについて、いま一つどうしようかなあと考えているのが、Furi『振り仮名』サイトを利用するかどうか。
このサイト、日本独立作家同盟の鷹野理事長が教えてくださったもの。テキストファイルをアップロードするか、テキストボックスにペーストすると、自動的にルビ付きのHTMLファイルを生成してくれる優れものなんです。

こんな、超シンプルなページです。
こんな、超シンプルなページです。

シンプルなページながら、機能はちゃんと備わっています。
見ての通り、書き出す形式は「BCCKS」「HTML5」「でんでんマークダウン」の3種。
そして、開くひらがなのレベルも選べるのです。

総ルビなら小学1年生向けですね!
総ルビなら小学1年生向けですね!

僕もちょこっとテストをしてみたのですが、振り間違いもほぼなく、手で振ったものと遜色のないルビが振られました。
僕の場合は総ルビということもあり、文章量が多いとエラーが出てしまいます。いろいろ試したところ、1話分(1,000〜1,200字くらい)なら問題なく変換できます。

今までかなりルビ振りには苦しんできたので、これは本当に福音。
でもね、僕のワークフローにはちょっとはまらなさそうなんですよね。この方法だと。

愛用のエディタHagoromoでは、執筆時にルビや圏点を振りながら、縦中横や行の下揃えなども全部最終形のepubと同じ形で盛り込めます。

Hagoromoからepubを書き出すと、ほぼそのままの形で販売できるepubが出来上がるのですよね。僕の場合はそこにちょこちょこ手を入れるのですが、一度HTMLに書き出してしまったものを再びHagoromo形式に戻すことは出来ませんから、後々のepub編集が逆に辛くなってしまいそうなのですよね……。

『振り仮名』サイトにはルビ機能しかありませんから、縦中横や圏点、他の書式は後から手作業でやらざるを得なくなります。もちろん、cssも自分で手編集し直さないといけないでしょうし。
う〜む。

それでも、ルビが自動で付くのは非常に魅力的ですよね〜。

さて、まだ連載をいつから開始するのかも決めていない状況ですから、もう少し悩もうかと思います。いいやり方が見つかるかもしれないですし。

WEBページに載せるものに振るルビならばっちりですから、ご存知なかった方はお試しになってはどうでしょう?

最後に、『魔女と王様』第一話の前半部分をFuriで変換したものをお見せします。

まずは、ページのキャプチャから。

HTMLのタグを見慣れていないとびっくりするかも。
HTMLのタグを見慣れていないとびっくりするかも。

 

こんな風に、変換結果が直接ページ上に表示されますが、慌てなくて大丈夫。例えばブログ上に掲載するのであれば、この文字すべてをテキストエディタにコピペするだけでオッケーです。

独立したHTML書類にするのであれば、HTML書類であることの宣言や各種のタグが必要になりますが、皆さんの使っているワープロやエディタに、HTMLの書き出し機能はありますよね?
あれば大丈夫。適当な短い文章をHTMLで書き出しておいて、<body>タグから</body>までの中身をそっくり入れ替えてしまえば良いんです。

では、この文字をこのブログのエディタに「そのまま」貼り付けてみますね!


1 (ぎん)(きつね)

「そら()けー、ほれ()けー!」

ほんとうは(ちい)さい(こえ)でしたけれど、ニーダマは愛馬(あいば)パカラの(みみ)(くち)(ちか)づけて()いながら、かかとで(はら)()りました。あの、(うつく)しい(ぎん)(きつね)が、(いま)まさにニーダマの()(まえ)姿(すがた)(あらわ)したのです。これは、興奮(こうふん)しないわけにはいきません。

ニーダマは一瞬(いっしゅん)たりとも()(はな)さないようにしながら、(こし)にゆわいた弓矢(ゆみや)(うし)()にまさぐりました。すると突然(とつぜん)、パカラの(あし)()(しろ)(こおり)(うえ)(すべ)り、キラキラと(ひか)(こおり)(きり)()()げました。そうです、夢中(むちゅう)でパカラを(はし)らせているうちに、いつの()にやらニーダマは(こお)った(みずうみ)(はい)ってしまっていたのです。

ニーダマは、ふと背後(はいご)()(かえ)ります。(しろ)(けむ)視界(しかい)()こうには、(いろ)とりどりの(はる)(はな)()(みだ)れていました。

(ぎん)(きつね)(あし)()め、こちらに(かお)()けました。そして、(くび)をちょっと()ってコーンとひと(こと)()くと、(こおり)(うえ)悠々(ゆうゆう)(ある)()しました。

「おのれ、(きつね)め! おれ(さま)馬鹿(ばか)にするなよ」

ニーダマはパカラの(はら)を、(ちから)いっぱい()()げます。びっくりしたパカラは、ヒヒーンといななくと(はし)()しました。


どうです、ばっちりでしょう?
みなさんも是非、チャレンジしてみてくださいね!

じゃ、また明晩!

同じ助詞の連続って……どうなの!?

例えばこんな文章があるとして。

《広場でみんなで話し合いました。》
「で」が連続しているけど、不自然な感じを受けるひとはどのくらいいるのかな?

僕はこういう《同じ助詞の連続》が好きではないので、出来る限り避けるようにしている。
最近、新聞を読んでいると、こういうことを気にするひとが減っているのかな、と思う。「の」の連続や「で」の連続は記事の中で当たり前のように出てくるし、「読み難いなあ!」と引っ掛ってしまう僕のようなタイプはあまりいないのかな、とも思う。
もちろん、例えば「の」の連続は文法的に何もおかしくないし、自然に読める場合もいっぱいある。必要があれば3回連続だって問題はないのだろうけど、僕としては出来る限り避けたいんだよね。
避けようがない場合もあるけど。

主格に続く「が」「は」、目的格に続く「に」などはさすがに連続使用されていないようだけど、どうなんだろうか。

言葉は生きているので、これは乱れとか日本語力の低下とかっていうものじゃなく、こういった表現を許容する時代になってきている。ということだったりするのかな?

でも、僕はやっぱり気持ち悪いので、解決法を考えてみたりする。
例えば、冒頭の例で見ると、こんな書き方があるかな。

・広場で、みんなで話し合いました。
 ・広場にてみんなで話し合いました。
 ・広場に出てみんなで話し合いました。
 ・みんなの話し合いは、広場で行なわれました。

最初の解決法は読点を挟むだけ。三行目は動詞「出て」を追加。四行目は順番を入れ替えて品詞の変更もしている。
(「話し合いました」=動詞 ⇒ 「話し合い」=名詞)

だから何だっていうことはないんだけど、ちょっと表現の単調さに囚われてしまったり、助詞の連続で読み難くなってしまった時には、案外色んな書き換えが出来るんだなぁ、という小さな感慨。
僕の場合、(心の中で)音読して読み辛い文章があると、こうやっていろいろな案を出してみたりする。前後関係や文脈や文体を鑑みて、一番しっくりするのはどんな表現かなっていうことが、いろいろと書いてみることで見えてきたりする。
勢いだけで書いてしまった時、内容は面白いのにつまらない文章になってしまった時には、こんなやり方があるかなあ、なんて、自分への覚書として──ね。

僕は若い頃、公的な文章(役所に出す分厚い報告書の類い)を毎日毎日書いたり校閲・校正したりしていたことがあるので、きっと細かいことに目が行ってしまいがちなんだろうと思う。それにプラスして商業印刷物の制作にも深い立場で長いこと携わっていたし──。

まあ、気にしない人、気にする人、いろいろでいいんだと思うけど、と思う今日この頃(過去のトラウマが染みついているだけだったりするのか……?)

ははは。

じゃ、また明晩!

甘かった、甘すぎたよ……

とほほ。
あとは出すだけだぜ、と思っていた『ルルルとリリリ』。
ここのところ挿し絵と表紙の絵のことばかり考えていたのだけれど、ほぼほぼ最終版のepubが出来上がって、エラーも出なくなり、最後の見直しのためにiBooksに入れたのが昨日。

内容を読むのは久し振りで、じっくり見直した。もちろん、おかしなところがあるわけはない、と自信満々での見直し。

ところがところが、だ。
出る出る出る出る、五人分……。

てにをはにルビ間違い、主語述語のバランス、ストーリー上のおかしな点まで見つけてしまったのだ。

「人間」のルビが「にんげn」なんてのがあったし、「王」のルビが「おうさま」になっていたり……。
そう、実は、連載の時には間違っていなかった箇所が、仕上げ段階でおかしくなっているのだ。表記の統一とか、一斉ルビ置換などによって、目の届かないところに新たなミスが生まれてしまった。
(すごく大事なところで国の名前を間違えているのは内緒ですよ)

ああ、なんともみっともないことじゃありませんか……。

本当はね、今日の記事は「書き終わったらすぐ出しちゃおう!」みたいな内容になるはずだったのが、正反対の内容になったわけで。まだ上巻の見直しも終わっていないのに、既に40箇所もの赤字が入っているという体たらく。

せっかくだから、ちゃんとちゃんとやりますよ。お金を取って出す以上、半端なモノはいかんよね。

電子書籍だからすぐ直せるってのは確かにそうなんだけど、お金を出して買ってくださった人の手元にあるデータを簡単に差し替えることは出来ないのだから、やっぱり最初からきちんとしたい。

もう一踏ん張り、がんばらなくっちゃね。
一度epubの編集が終わったものに修正を入れるのは本当に頭が痛いよなあ……。

と、いうことで、『ルルルとリリリ』は発売日未定!!!!!

じゃ、また明晩!

文体と作風

《文体》っていう言葉をよく聞くけど、これは他の芸術における《作風》とはちょっと違うのかな、と思っている。
そうそう、文体と作風ってのは似ているようで別物なのだろうかな?

例えば、「美味しそうなりんご」。
これを、「美味しそうなりんご」という言葉を使わずに文章で表現しろと言われれば、きっと、人によって千差万別の書き方が生まれるだろう。
だけど、「りんご」自体の書き方は、漢字・カタカナ・ひらがな・英語、せいぜいフランス語止まりで数種類しかないだろう。日本語の文章の中で、日本人が共通認識として理解できる表現としては、ね。

そこが、きっと文学という芸術の特殊性なのではないかな、と思う。

しかも、だ、電子書籍に限って言えば、書体も色もそのサイズも、何も決めることができない。読者の環境によってさまざまだから、青くて硬い書体で「りんご」と書こうが、赤くて優しい書体で「りんご」と書こうが、読む人には関係ない。まあ、ある場合もあるけどさ。
だから、文章で個性を出そうと思ったら、内容で差をつけなければならないわけだ。

美術で考えてみる。
「どんな」と言わなくたって、「りんご」は多種多様なものになるだろう。それこそ、技術の巧拙も含めて、全く同じりんごの絵にはなかなか、いや、決してお目にかかれないだろう。
ある程度上手い人に対して画材を指定し、どんな風に見えるかを指定し、描き方すら指定しても、同じりんごには決してならない。
“ある程度”上手い人の絵は“ある程度”似てくることがあるけど、それを超えた人たちの絵はまた異なってくる。それが、自分の画風を獲得するということでもある。

音楽もそう。
もちろん、同じ楽器を使えば(特にデジタル楽器)、ある程度似た表現にはなるだろう。が、まあそもそも音楽でりんごを表現することはできないから、比較するとすれば歌になるのかな?
(インストの音楽で「りんご」を感じさせるように表現するのは至難の業だろう)
歌は、それこそ人それぞれだよね。声が全く同じ人は一人としていないし、元の声が似ていたって、歌い方、声の出し方、音程……、もう、全然違うものになるための要素が山ほどある。

そして、文学だ。
文学では、りんごを書かなくてもりんごを感じさせることができる。りんごについて書くことができる。
でも、直接「りんご」と書いてしまうと、そこには個性も何もない、誰でも同じになってしまう。
そこが一つの、文体作りのヒントなのかもしれないね。

作品によって、それを表現するための作風によって、それを書く文体をコロコロ変えられる天才みたいな作家がいる。作風と文体は密接にリンクしているけど、イコールではなさそうだ。
(ああ、文学を学んだ人に笑われそうだな──)

僕の文体は、どんな話を書いてもそうそう変わらないような気がする。そんなに器用じゃないしね。でも、作風は、書くジャンルによっていろいろ変えられるような気もする。
(まあ、ハード風のSFと童話を同じ作風では書けないよね)

素人作家が自分の個性を確立していくために、文体を作っていくことはとても重要なのだろうなと思う。でも、それをどうすればいいのかは分からない。
(ああ、文学を学んだ人にとっては「基本のき」だったりするのかな? いや、それはきっと、永遠のテーマなんだろう。美術や音楽だってそうだもの)

書き続けて、読み続けて、書き続けて、直し続けて、また読んで、書いて、書き続けて……。そうやって少しずつ、自分のスタイル(=文体)を獲得していくのだろうか、な?

そうだ、美術における画風とか、音楽における作風なら、僕にも少しだけ分かることがある。
とても若い頃、それは作るものではないと思っていた。
「そういう風にしかできないから、それがその人の作風になる」
そう思っていた。

だけど、それはそうじゃない。
上手い絵を描けば描けるけど、一見下手な絵を描く人がいる。それはなぜだろう?
目立ちたい?
人と違うものを描きたい?
────いや、それはちょっと違う。

自分の表現したいものは何か?
どうやって描いたら、自分の表現したいものに近づけるか?
それは、そのスタイルは、《今まで自分が好きになったもの》、《触れてきたもの》、《考えたこと》、そういったことの全てが、自分の心の奥底に働き掛けて、生まれてくるものなんだと思う。
いや、自分で生み出していくものだと思うんだ。

待っていても勝手に自分のスタイルは出来上がらない。
だからと言って、闇雲に「こうしよう」と思っても自分らしさが欠けてしまう。
そういうものだ。
それは、自分の心とずっと対話し続けて、《目指すもの》と《できること》が一致した時にこそ生み出せるものなのかもしれない。

誰の役にも立たない、困らせるだけの記事──。
だったかな?

じゃあまた明晩!

《様々なかっこ》

(括弧)全角半角、「カギ括弧」『二重カギ括弧』〈アングル括弧〉《二重アングル括弧》<これは括弧ではないけど強いて言えば括弧>【黒レンチキュラー括弧】〔甲羅括弧〕[四角括弧]{カーリー括弧}などなど……。

括弧にはいろいろあるよね。

あ、名称は適当だ。変換の時に出た英字の説明を、勝手に訳しただけだから、さ。
で、さて、それぞれの用途はどんなだろう?
(もちろん、ちゃんと調べてはいない。正解が分かっていたらいろいろ考えるのがつまらなくなっちゃうから!)

普通の括弧とカギ括弧は説明不要だよね。
『二重カギ括弧』も、用途はだいたい決まっている。
1.『特別な固有名詞・本や歌のタイトル』など、タイトルっぽいもの
2.『引用したセリフ』

最近僕が多用しているのが、これ。
《二重アングル括弧》
基本的には、目を留めてもらいたい固有名詞、地の文とは区別したい固有名詞に使っている。こういった言葉に『二重カギ括弧』を使う人もいるけど、どうもしっくり来ないんだな。
で、《これ》。言葉の浮き上がり方とか、括弧のフォルム自体も好きだな。

<これは括弧ではないけど強いて言えば括弧>【黒レンチキュラー括弧】
この二つに関しては、項目立てとか記事タイトルが多いのかな?
前者の<>は《大なり小なり記号》であって括弧ではないから、縦書きには対応できない。これは注意点。
半角の<>とも言える<>は縦書きでも出るけど、これは電子書籍を作る人はあまり使わない方が良い。

だってこれはHTMLやXMLなどのマークアップ言語で使うタグを囲む記号だからね。
もちろん、<>を本文中に使うためのテクニックもあるけど、間違いやすいから詳しいひとや特別な場合以外は避けるべきかな。なにしろ、文章をEPUB化するときにエラーの温床になってしまう可能性が大きいから。

〔甲羅括弧〕[四角括弧]{カーリー括弧}
これらは小説ではあまり使わないかな?
英文で使われることが多いこれらの括弧には、どちらかというと理系のイメージがある。だから、生物の分類だとか学術的な表記に使うとイメージが合うよね。
あとは用語の解説とか、注意書きとか、かな。

最後に、半角と全角の注意を書いておこうかな。
(別に改めて書くようなことでもないけど)

日本語と英語ではベースライン(=文字の下端と考える位置)が異なるから、日本語の文章に半角の括弧を使うと美しくない。アルファベットは日本語で考えたときの文字の下端を突き出た文字があるのだから。

(alphabet):文字と括弧、いずれも半角。pはベースラインを突き出している。文字と括弧のバランスが良い。
(アルファベット):半角括弧に全角日本語。括弧が下がって見える。
(アルファベット):いずれも全角。文字と括弧のバランスが良い。
※もちろん、書体によってもバランスは変わる。この例だと、え? 変じゃないよ、って思う人がいるかもしれないけど……。

これはあくまでも私見だけど、皆さんはどうやって使ってる?

では、この記事がいつか誰かの役に立ちますように!

エンドマークは何が好き?

僕がこれまでに使ったものを思い出してみた。

(完):これが一番多い。
(了):群雛はこれが推奨だった。『光を纏う女』で初めて使った。
(おしまい):エビネルさんはこれだった
〈完〉:『さよなら、ロボット』と『孤独の王』はこれ。括弧の形が他とは違っていた。これもいろいろバリエーションがあっていいのかな。《完》とか、とても終りっぽい。【完】もいいね。

そのほかに、こんなものがあるよね。
(終)、(終り)、(終わり)、(おわり)、(〆)←ないか?
(大団円)ってのを、どこかで見たことがあるような気がする。
(これにて)とか、(ジ・エンド)はさすがにないかな。

終りを示す以外にも、文末に使われるものとしては、
(つづく):連載はいつもこれでした
(電子書籍版の発売をお楽しみに!):予告版試し読みに
(本編に続く):試し読みに
このあたりはありがち。

エンドマークなしっていうのはどうなんだろう?
あまり意識しないで読んでいるけど、きっと、なしの人もいるよね?
これを読んでいるあなたはどう?

特に電子書籍の場合は、落丁なのか本当にそこで終りなのか、読者が判断できない場合もあるかもしれない。それを考えると、何らかのおしまいメッセージは必要なんじゃないかと思っている。エンドマークがなくて、次のページが奥付になっている場合、ほとんどの読者はそれで終わったんだと納得すると思うけど、僕は淋しいな。
特に長い小説を読んだときなど、エンドマークを読んだ瞬間に感動がどっと押し寄せてきたりする。読み終わったことの感慨と物語が終わってしまったことの淋しさと、主人公たちのその後の運命を瞬時に想像したりすることと、そんなあれこれが胸に溢れ出すのが、エンドマークを目にしたときなんだと思う。

エンドマークなしで、“いかにもおしまい”という形が見せられればそれも面白いだろうと思う。参考文献を並べたり、映画のようにエンドロールを書いたりするのもアリかな。

何か変わった、面白い終りの形を使ってる方がいたら、そっと教えて欲しいな。

では、今晩はこれにて!

ちなみに、全然関係ない話だけど、今日は誕生日だったんだ。何歳になったかは想像にお任せするけど、ね。

(了)

( )と。の位置。

正解があるのかというと、きっと正解はある。でもそれを調べてしまうとつまらないので、相変わらず私見だけで書くことにしてしまう。
(書いたあと、こっそりいろいろググってみようと思っている)

本日のテーマは、括弧と句点の位置。だ。

Aさんがこう言いました(それはこういうことだって)。

恐らくはこの書き方が正解だ。

本文、括弧、句点、だ。

ただ、どうしてもこの書き方ではしっくり来ないことがある。

Aさんがこう言いました。(捕捉するとすれば、こういうことでもある)

こんな場合だ。つまり、最初の文章に意味合いとして含まれる直接的な捕捉というより、第三者的な立場で指摘するように括弧内を書く場合だ。
やっぱりここでは、“言いました”の直後に句点を置きたい。どうしても置きたくなる。そして、別の文章として括弧以下を書きたいのだ。
本文と括弧内の文章量にもよると思うけど。

もう一つ。

Aさんがこう言いました。(捕捉するとすれば、こういうことでもある。しかしこれはある意味で、こういうことなのかもしれない)

こうやって括弧の中に長文が入ってくると、やはりその中には句点も含まれるようになる。括弧閉じの前にも句点を打ちたくなるけど、まあそれは我慢。小学校の教科書的には、打っても良いんだよね。公用文としては、《明らかにここで文章が終わっていると分かるので、句点は不要》となるから入れないんだけど。

でもね、

Aさんがこう言いました。(捕捉するとすれば、こういうことでもある。しかしこれはある意味で、こういうことなのかもしれない)。

こうやって、更に句点を打ったりすると、何となく落ち着いた感じがすることもある。括弧内の文章が長くなればなるほど、最後に句点を打ちたくなる。

まあ、本筋を言えば、《括弧で説明しなきゃならないような文を書くなよ》ということになるんだけど、ね。
いろんな書き方があってもいいんじゃないか、という気持ちも、あったりするのだ。

小説はルールじゃない。
表現なんだから、《自分の表現したいものを文字に、文章に落とすためにはどうすれば一番良いのか》、それを考え続けることも大事なんじゃないかな、なんて。
(新人賞に応募するときなんかは、やっぱり公用文のルール通りに書くのが定石なんだろうけど)

今日は、そんなお話でした。
(あ、正解はご自分でググってね!)

この記事が、いつか誰かの役に立ちますように!

“ぅ”って面白い!

何て唐突なタイトルなんでしょうね。今日は文学の書き表し方の自由と商業作品における表記の不自由さについて、考察してみましょう。
あ、いや、そんな立派な堅苦しいもんじゃなく、雑談程度なかるーい温度感で……。

まず、タイトルに持ってきた“ぅ”から。
ア行の音は、全て小さく打てますよね。
《ぁぃぅぇぉ》って。

例えばこんな表現。
“ギュイーン!” こう書くとまあ、普通ですよね。一つの標準的な表記かな。
何かの(小振りなタイプの)エンジンが唸る音とか、モーター音とか、追い抜く音とか、機械の電源が入ってフル回転する音とか……。いろいろな場面が思い浮かびます。

でもこれを、
“ギゥイィィンッ” と書いても良いわけです。
“ギュゥイィーン!” なんて書き方でもオッケーだし、
“ギュウイィンッ” でもイメージは伝わる。

似てるし、同じ音の表現としても使えるのだけれど、それぞれちょっとずつニュアンスが変わりますよね。
僕は結構このあたりに拘りがあって、その場面その場面で最も自分の頭に響いた音を、出来るだけそのまんまのイメージ書き留めたいなあと思っています。だから、上記の書き方だけではなく、CSSを駆使して1文字ずつ大きさを変化させたりもします。まあ、やり過ぎるとうるさいだけですが、あくまでも《イメージを伝えるため》です。

次。
“シャキーン” はどうでしょう?
“シァキイン” なんか、シャープな感じがしませんか?

次。
“でーん!”
“でぇーん!” 間抜け度倍増?
“でぇえん!” ちょっと対象年齢低そう?

どうでしょう?
漢字の書き表し方などにはルールがかなりありますが、こういった擬音表現には相当な自由があるんじゃないか。と、勝手に考えているだけなのですがね。
まあそもそも、商業出版における正しい日本語だって時代に伴って変化するのだし、カギ括弧閉じの前に句点を打たないという常識にしたって、当初僕には単なる経費節約にしか思えなかった。まあ、常識を守らないと常識を知らない人だと思われて損するだけなので、無名の僕はこうべを垂れるのみですがね。
(そうやって常識を守っている間に、すっかり自分でも自然な書き表し方に思えてきちゃいましたが!)

さて、お楽しみ頂けたでしょうか?

本日はこれまで!

この記事がいつか、誰かの役に立ちますように!