カテゴリー別アーカイブ: イメージと現実

報告:ツイッター広告を打ってみた!

セルパブ夏の100冊の発刊に合わせた最後の無料キャンペーンを行なった『ケプラーズ5213』ですが、その効果を高めるために初のツイッター広告を実施してみました。
ほんと、急な思いつきで。

こんな広告です。@マーク以降はちょっと違いますが。
こんな広告です。@マーク以降はちょっと違いますが。

キャンペーン開始当日の夜から約5日間。
シンプルに、結果を報告します。

スクリーンショット 2016-07-31 17.07.16

これがインプレッション。つまり、どれだけの人の目に触れたか、ですね。
合計で74,704です。これが多いのか少ないのかは分かりませんが、僕の普段のツイートに対するインプレッション数から言えば破格の多さ。
5日間くらいの固定ツイートで、まあ740いくかというと、きっと無理でしょう。
つまり、100倍以上の人の目に触れたわけです。
こんなGIF動画を入れましたので、ツイートが表示されれば自動的に再生されます。

実際には動画が再生される前に流れて行ってしまったり、ツイッタークライアントの仕様で自動再生にならない場合なんかもあるようで、動画の再生数は7,664回でした。

しかも、ツイッター広告というのは自分のフォロワーさんに対しては発信されない仕様。
だから、僕のことを知らない人のタイムラインで、これだけ見られたということです。これはすごいかも!

次、エンゲージメントです。
リンクのクリック数が97、動画のクリック数が30(これは別画面で動画が出るだけだと思うので意味はないですね)、リツイートは2回のみ(ただし、僕のフォロワーさんではない方!)、このツイートによって新規に得られたフォロワーさんは1。

ちなみに、投入額は7,500円でした。

そして、無料キャンペーンへの効果はいかに?
と、いうところで腰砕けになります。

5日間のダウンロード総数は、恐らくこれまでの無料キャンペーンの中でも最も少ない、たったの59冊。
無料なのに、リンクをクリックした人の数よりこんなに少ないとは……。
いやあ、難しいもんですねえ。
「僕のことを元から知っている人の手元には、きっと既に行き渡っているだろうから、このキャンペーンは効果が少ないだろうなぁ」とは思っていましたが、この結果はやはり残念でした。。

広告を見たひとの大半は、それを見た次の瞬間には全く覚えていないという調査もあります。
僕の名前、作品の名前をツイッターで1回見てくれた人が、何かの機会に思い出してくださる確率は、まあゼロ%でしょうねえ……。

みなさんは、どう思われます?

じゃ、またあとで

ヘタウマとウマヘタのあいだに

○○をどうした方がいい。っていうことじゃないんだけど。
ただ、難しいよなあと思った。
誰もが目指しているところに向かって歩いているんだけど、その道筋はいろいろある。

ではまず、表題について自分なりにちょいと定義してみる。

1.技術的にはヘタだけど、センスがあって雰囲気が出ている。なんか良いよな、と思うのが、ヘタウマ。

2.技術的には上手いけど、センスがなくて面白みも雰囲気もない。つまんないなあ、と思うのが、ウマヘタ。

3.技術的に優れ、センスも良い。雰囲気と個性も備えていて、コレは良い! と思わずにいられないのが、ウマウマ。

4.ヘタだし、センスもないよな。どんなに頑張ったってダメなんじゃないの? と思ってしまうのが、ヘタヘタ。

──お伽噺風に、図示してみる。

その旅は、どこへ向かう?
その旅は、どこへ向かう?

 

ヘタウマなひとは、自分にセンスがあることに気がつかないことがままある。

ウマヘタなひとは、自分にセンスがないことに気がつかないことがままある。

ヘタウマなひとは、うまくなりたいと思うことがある。巧くなればもっとずっとうまくいくと、思いたい。
そのままの方が良いかもしれない可能性には、なかなか気づくことができない。

ウマウマなひとは、ただ、好きで続けていたらそうなったのかもしれない。他人の目から見てどんなに努力しているように見えても、
「楽しいからやってるだけだよ」って、
たくまず、力まずに言えるのかもしれない。

ウマヘタなひとは、努力の方向がずれているのかもって、気がつけないのかもしれない。

ヘタヘタなひとは、学ぶことを忘れているのかもしれない。自分を知るには他人を知るのが近道なのかもしれないとは、思わないのかもしれない。

ヘタウマなひとは、罠に落ちやすいのかもしれない。
──巧くなりさえすれば、という罠。


さあ、今のあなたは、今のわたしはどこにいるだろう?
そして、どこへ向かって行こうとしているのだろう?

まず、それを知ることから始めてみよう──か……。
(結論も、アドバイスも何もないけれど)

じゃ、本日のざれ言はここまで!

アップに耐える、の嘘

「アップに耐える」という言葉があります。
アップで見ても、
「大丈夫」
「魅力を損なわない」
「見ていられる」
「目を背ける必要がない」

そんな意味でしょうか。

高校生の頃、
「アップに耐えられるのって、アイドルで○○くんだけだよね〜」っていう言葉を女の子から聞いたことがありました。
そうか、カッコいいとか言われてるアイドルタレントでも、テレビでアップになると見ちゃいられないということか。
そんな風に思ったものです。

先週の「今週の1枚─015/写真の嘘?」にも通じる話なのですが、《アップ》というのは本当は嘘がつけるものなのですよね。
ただし、うまく嘘がつけるのは《どアップ》(トリミングの妙による嘘ってのもありますが)。全体が見通せないほどアップにすれば、アップに耐えられる限界を超えることが出来るんですよね。
今回は、そんな話。

この話はずっと書こうと思っていてネタ帳に眠っていたのですが、先日Facebookのプロフィール写真にある友人女性が顔写真を載せたことでちょっと仲間内の話題になり、思い出した次第で──。

その時に、自分の実名FBのプロフィール写真の話から、《どアップ》ネタの話をしてみたのです。
自分の写真は見せなかったけれど、今日は思い切って載せてしまおうかな。《どアップの嘘》としては一例に過ぎないですが……。
(すぐに消すかも知れないですよ!)
スクリーンショット 2016-05-21 18.34.06

この写真をプロフィールに載せたとき、こんな反応があったのです。
「睫毛が長い!」
「目がきれい!」

ね、アップの方がごまかせると思いません?
これは、ただのおっさんの目の写真であって、別にきれいでも何でもない。
強いていえば、コントラストを上げてディティールを飛ばして白黒写真風に加工してあるから、肌の汚さなんかがまったく分からないですし、接写レンズで撮っているので一部にしかピントが合っていなかったりします(というか全体ボケボケとも言えますが……)。
でかく写っているので、相対的に睫毛が長く見えるわけです。それだけなのに、長い睫毛という印象になってしまう。

トリミングの妙によって目がどこまで続いているか分からなくして、さらに絵のバランスを整え、目のイメージを強調していたり。
本当は鼻の一部まで写しているけど、今回はそこもカットしてしまいました。

そう。
写真も、絵も、文章も、そんなところがあると思いませんか?

でも、それは《アップの嘘》──

例えば、自分の詳しいことを細かく描写するのは比較的簡単ですし、細かく、詳しく書いてあると説得力もそこそこ出せたりします。でも、それは《どアップ》にすることで本来の姿を見えなくするごまかしのテクニック
そういう描写からは、本当の描写力は分からないんじゃないかと思うのです。

そんな罠にはまらないよう、得意分野や詳しいことを書くときは気を付けなきゃいけないな、と思う、今日この頃。

どうでしょうか、ね?

じゃ、今日はここまで!


(イメージや思い込みの嘘を疑え、と言えばこの本!)

主人公佐山哲夫は、就職内定後にM&Aで世界的な工業食品コングロマリットに買収された陽山食品工業に就職した。
俺は知ってるんだ。本当に旨いものなどもう、──少なくとも外食産業や一般に流通している食材を見る限り──どこを探したって見つからないってことを。
ある小さな事件をきっかけに、佐山は自らの目に見えていた世界が、本当の世界ではなかったことに気付き始める。

写真を見れば、撮った人の「世界の見方」が見える。

写真を見ると、上手い下手やセンスの良い悪いではなく、どうやって世界を切り取ろうとしているのかが透けて見える気がする。

どういうことかと言うと、僕が思うのはこんなことだ。

・カメラで世界を覗くと、自分の視界のうちのほんの僅かしか写らない(普通のレンズの話)
・それなのに遠くのものを撮ろうとすると、自分の目に見えているものより遥かに小さくしか写らず、そのぶん周囲の余計なものが写ってしまう
・何故写真を撮るのか?
 ⇒多くのひとが思い浮かべる理由は、「見たものの美しさを固定したい、残したい、伝えたい」からだろう
・写真は、「自分が見ている、感じている」ように残したい
・そのためには、世界をファインダーで「切り取る」必要がある
・切り取りたくなくても切り取らざるを得ないから、そこにはおのずと、「自分の切り取りたい領域」を盛り込むことになる
(もちろん、何も考えずに撮るスナップは置いておくとして、だよ)

SNSには数え切れないくらいの写真がアップされていて、自分の友人や知りあいだけでもチェックし切れないくらいの数を日々アップしている(実際、仲のいい友達の写真だって数パーセントしか見てなかったりするし)。
その中で、明らかに作品を撮ろうとして撮って投稿している人は少数派だ。
でも、みんな、何かを伝えたくてシャッターを切っている。
だから、写真はいろいろあって面白い。

同じ風景や情景を撮影しても、みんなの「世界の見方」はそれぞれ異なっている。だから、上がってきた画像は、それぞれ何かが違う。

だけど、「そりゃ違うだろ」って思わされる写真が、ここ何年かとても多い。
インスタグラムなんかで、自分の美的センスを動員しなくても「それっぽい写真」になるフィルタ機能がたくさんある。それはそれで、きれいな写真になるからいいのだけど、いったん「それっぽい写真になるフィルタ(特に、○○風とかってタイトルのついているフィルタ)」を通してしまった写真は、撮った人の個性よりもそのフィルタの個性が強まってしまうことが多い。
だから、ぼくはそういったものを好きになれないな。

写真にフィルタをかけるのは、「記憶色を再現するため」であったり、「見たときの感覚を残すため」であったりして欲しい。
適当にパシャっと写真を撮っても、○○風フィルタをかければ作品ぽくなるけどさ、それは、あなたの撮った写真じゃないんじゃないの?
そう思ってしまう写真が世の中に溢れすぎていると、思いませんか──?

挿し絵を描いたクロッキー帳と、原稿をその辺に置いて適当に撮った写真
挿し絵を描いたクロッキー帳と、原稿をその辺に置いて適当に撮った写真
アプリSnapseedのグランジフィルタNo.218を「何も考えずに」掛けた写真。いきなり、昔の想い出っぽくなる。でも、これは僕の個性が出た写真じゃない。
アプリSnapseedのグランジフィルタNo.218を「何も考えずに」掛けた写真。いきなり、昔の想い出っぽくなる。ここに気の利いたコピーの一文でも加えれば、広告にすら使えそうだ。でも、これは僕の個性が出た写真じゃない。

みなさんは、どう思います?

じゃ、また明晩!

今週の一枚─013/ナガミヒナゲシ

2016-04-26 07.58.08

初めて見たのは十数年前だったと思う。この十年くらい、こいつのはびこり方は異常と言ってもいいくらいではないか。
心配したほど「際限なく増える」ということもなかったけど、何しろもう、この季節にこの花を見ない場所はないのではないかと思われるほどだ。植栽がきちんと手入れされた土地以外では。

それで何が言いたいのかというと、別に「ナガミヒナゲシを追放せよ!」と言いたいわけではない。もちろん、あんまり増え過ぎるといやだし、決して好きではないけど。

最初に日本で確認されたのは1960年代だというけれど、僕が子供のころはもちろん見たこともなかったし、こんなに増えてしまったのはここ15〜20年くらいなのではないかと思う。
だからなのか、【近年はびこった厄介な外来雑草】というイメージがかなり強い。在来種を脅かし、枯らしてしまう悪者のイメージだ。
でもきっと、生まれた頃からこの花に親しんでいる子供たちのイメージは、きっと違うのだろうなと思う。

例えば、「侵略的外来種ワースト100」に入っている植物の中で、きっと今の大人世代にとって子供のころからどこにでもあった普通の雑草にはこんなものがある。
・セイヨウタンポポ(既に在来種は片隅に追いやられてしまったというのは有名な話)
・ヒメジョオン、ハルジオン(いわゆる貧乏草ってやつだ)
・オオオナモミ(とげとげの実を服に投げつけ合うやつ)
・セイタカアワダチソウ(空き地に高々と伸びる黄色い花の)

これらは駆除しようとしたってもう完全に無駄な努力にしかならないくらい、どこにでもあるし、もう「日本の雑草(雑草という言い方の善し悪しはさておき)」になってしまっている。
ナガミヒナゲシは、このリストには入っていない。ロゼットで冬を越すので、ちゃんと駆除しようとすれば出来るからなのかもしれないし、根が強力なわけでもないので抜くのは簡単だ。実を付ける前に抜けば、その場所からは駆除できるかもしれない。もちろん、一つの花に1000以上のタネが出来るから、どこからでもまたタネはやって来るけど。
(wikiで見ると、在来種に対しては相当な悪さをするらしい。まだリストに入っていないだけで、ワーストの植物に匹敵するかそれ以上の悪者のようだ)

きっと、今の大人はこのナガミヒナゲシに嫌な顔を向けるけど、今の子供たちが大人になった頃、きっと普通の雑草として受け入れられているのだろうなと思うのだ。陽当たりの良い場所で咲いていると、花の色が鮮やかになって、それなりにきれいだったりする。そもそも、園芸種のヒナゲシとも大きな違いは感じられないし(素人目では)。

僕らは今、セイヨウタンポポに嫌な顔を向けない。
あの黄色い花を見ると、あ、春だな。と思う。花が終わると、綿毛をふうっと吹きたくなる。

ナガミヒナゲシの花が終わってタネが熟れると、中に入っている無数の黒いタネが案外美しい。指でつまんでみると、そのシャリシャリとした手触りも心地いいものだ。あんパンなんかについているケシの実と似た感じだ。これもケシの実だから。
あれ? ひょっとして食べられるのかな?
(もう一度検索。どこにも食べられるとは書いていないので、食べられないのだろう……)

この、無数に入っていていくらでも出てくる感じが、子供のおもちゃとしては面白いんじゃないか、と思ったりする。
(タネをばらまいちゃダメだけどね)

時代は変わり、植物は生きている。
──世界は、徐々に混じり合う。

まあ、そんなことを考える、春。

じゃ、また明晩!

シャッターチャンス、アイデア、記録と記憶。

ああ、写真を撮りたいな、と思った瞬間は、それが叶わないことが多い。外出しているときの大半は、何かしら先を急いでいるときだ。
水たまりの底に沈むタンポポのロゼット。心なしか、普段より葉を伸び伸びと広げているように見える。
地面を覆う濡れ落ち葉、艶々と光り、雨のどんよりした世界に気づきと喜びを運んでくれる。

本当は一眼レフを持ち歩けたらいいのにと思う。でも、出勤時に肩からそんなものをぶら下げているわけにもいかないし、撮っている間に電車は行ってしまう。iPod touchでパシャリとやるのがせいぜいだし、それもろくに見ないで撮るからピントすらあっていないことも多い。
接写したいときなどは、ピントの合う距離を考え出来上がりを想像しながら、とにかくどんどんシャッターを切る。10枚撮ってもピンぼけだらけで、使えるのは1枚か2枚だ(デジタル写真は「枚」と数えるのか?)

ふと、メロディを思いつく。あるいは、降りてくる。ああ、降りてきた、と思う。メモ録音しなきゃ、と思う。
できない時は、頭の中でそれをぐるぐる繰り返す。そうすると、メロディが徐々に単純化される。整理されて良くなる場合と、逆につまらないものに成り下がってしまう場合がある。
紙とペンと時間があれば、譜面に落とす。でも、これは後で振り返らずそのままになってしまうことも多い。
iデバイスとイヤフォンがあれば、DAWに入力してしまう。最近はこれも多いけど、こういったスケッチも断片がどんどん溜まってカオス化してしまうことが多い。ファイルを開いて再生し、聴き込まなければどんな曲だったかわからないし、インストはファイル名だけで作りかけメモの内容を思い出すことも難しい。

振り返って、小説のアイデアはいいね。思い付いたら、メモする。書けない時は、頭の中でそのアイデアをどんどん育てて膨らませ、掘り下げることができる。実際に書くときには考えたことと違ってしまうこともあるけど、それはそれで面白い。ただ、完全にどこかへ消えてしまうということはない。
そして、書いたものはデバイスが変わっても、時間が経っても、そうそう消えることはない。
(完全に文字化けして読めなくなってしまった詩もあったけど)
テキストはさっと確認できて、内容を後から確認しやすい。追加や修正も簡単だ。タイトルだけ見れば、割とすぐに内容を思い出せる。
こうやって、小説のアイデアはどんどん溜まっていく。書くスピードが、全然追いつかない。
せっかく書くなら、また新しく考えて書きたい、なんて思ったりもする。

まあ、何にせよ、アイデアを生む行為ってのは楽しい。それを頭の中でああだこうだこねくり回すのもね。

こうして僕は、《創作という呪縛》から一生逃れられないのだろうな、と思う。

じゃ!

木陰の中の光を見る(イメージと現実−2)

今回は純粋に視覚的な話をしよう。CGの人にしか参考にならない話とも言えるけど、もっと雑学的な位置付けで気軽に読んでくれたら嬉しい。夏らしい話題だし。

この夏、天気の良い日が多いようだ。毎日強烈な日差しが照りつけて、これでもかと光を反射する地面には、樹々の、つまり葉の影がくっきりと映えている。

葉の形は概ね紡錘形とか雫型なわけだけど、その影が多数重なり合った時、隙間に形作られる光はどんな形をしているだろうか?

下から見上げると、こんなような見え方なのだから、地面に落ちる影もまあ概ねこんな感じだと思う人が多いことだろうと思う。
丸っこい葉っぱの連なりに削り取られた光なのだから、凹んだ感じのカーブで囲まれた形になりそうだよね。

見上げたときに見える葉っぱの連なり
見上げたときに見える葉っぱの連なり

 

でもね、ちょっと違うんだ。
はい、ここで身を乗り出して。

葉と葉の隙間が大きい場所であれば、まあこんな感じにも見えるだろう。でもね、樹は立体。葉っぱは幾重にも重層的に重なっているのだ。平面的に見れば凹んだ形に見える隙間でも、太陽の光から見れば、その形はもっとずっと複雑なもの。
そして、そこを光がすり抜けられる隙間は、実は結構狭い。ぱっと見で光が抜けていないように見える隙間を、太陽の光は順々に反射し、屈折しながらくぐり抜けるのだ。そして、地面に像を結ぶ光の形は、こんな風になる。

葉と葉の隙間にある光は、真ん丸いものが多い!
葉と葉の隙間にある光は、真ん丸いものが多い!

 

ね、真ん丸い光が幾つもあるのが、分かるかな?
光って不思議でしょ?

何かの形に似ていることに気が付いたひと?

そうそう、海とか、太陽の光で遠くにキラキラ輝くものを撮影した写真に、こんな感じの丸い光がたくさん写っているよね。あれも光の反射と屈折が生みだしたもの。

ちょっと、面白いでしょ?

イメージと現実は、時に異なった顔を見せるのだ── 淡波亮作w

植物ネタだから、本日の自著紹介はこれにしておこう。

『奇想短編集 そののちの世界4 フローラ』

フローラ
フローラ:一番強いのは、やっぱり植物なのだ!

 

では、この記事がいつか誰かの役に立ちますように!

イメージと現実

道路工事の現場を通りかかった。
パワーショベルがアスファルトの道路を《バリバリと》剥がしていた。
さて、こういった場合、アニメや映画ではどんな効果音が当てられるだろう。
漫画ではさしずめ、
「ガガガガッ」「ゴゴゴゴッ」「ドン」「ズシン」あたりだろうか。映画ではきっと、重量感があって腹に響くような音が鳴るだろうと、想像できるのではないだろうか。

だが、僕が実際耳にした音は、まるで違うものだった。イメージとは異なる軽い音だったのだ。
「ビリビリ」「パリパリ」と、堅焼きせんべいをかじる音のような、もしくは、くたびれた薄い木綿(例えば着古して薄くなったシャツ)を引き裂く音のようなものだった。
え? と思った僕は、立ち止まってそれをしばらく見ていたんだ。こんな光景、生まれて初めて目にしたわけじゃあない。でも、頭の中にあった音のイメージは、実際のそれとは大きく違っていた。

あなたは、こういう話を聞いたことがあるだろうか。

スポーツ中継のバックで流れるサウンドは、その場で録音されたものではない。正確に言えば、その場で録音されたもの《だけ》ではない。優秀なサウンドエンジニアがミキサーブースに付きっきりで、膨大な数のサンプリング音源ライブラリとともにスタンバッているのだ。もちろん、予めピックアップした《それっぽい音素材》満載で。
例えばスタジアムの歓声、スキー選手が雪をバサッとかく音、ダンクシュートのリングがぐわわんと揺れる音……様々な音が、テレビ視聴者を盛り上げるために追加されるのだ。

これは、ゲームの表現力が高まり過ぎてしまったことが発端だという。作り込まれたシーンにおけるサウンドエフェクトの臨場感が、現実を大きく超えてしまったのだ。そりゃあそうだろう、いくら録音技術が優れていても、その場にいる観客よりずっとはっきりと、スポーツのサウンドを《一つ一つクッキリと》聴き取れるなんて、とても不自然なことだ。
そこからスポーツ映画に波及し、スポーツドキュメンタリーに広がった。
視聴者の感性は、フェイクのサウンドをプラスオンされたものでないと、臨場感を味わうことが出来ないほど鈍くなってしまったらしい。
だから生録の音では満足出来ない視聴者には、フェイクのサウンド効果をプラスする必要があるのだと《番組の製作者たちは思い込んで》いる。

これ、英国のラジオ番組で三年ほど前に特集が組まれて、一般に知れ渡ったことだそうで、その番組はかなりの聴取率だったらしい。僕はそれをPodcast配信で聴いたのだけれど、とても面白い番組だった。

こうやって、人は自分自身が心の中に描いたイメージに、簡単に騙されてしまうのだろう。

さて、この感じ、何かに似てはいないだろうか?

例えば《食》。
明らかに不自然な色調、工業製品のように画一化された形状の野菜や果物、肉製品たち。そうしないと売れないからと生産者は言う。
そういう食品を眼にして、美味しそうだと思ってしまうイメージの貧困と、そこに乗る販売者と生産者。消費者の側にも責任の一端はある。
そして、それが当たり前のものになり、
《魚が切り身のまま海を泳いでいる》と思い込む子供たちを生む。
《牛も豚も鶏も、味だけでは区別できない》子供たちを生む。
《野菜の味の個性、クセは失われ、気の利いた“やり過ぎの”調味料に演出された味》イコール美味しい味だと思い込む子供たちを生む……。

僕は表現者として、人間のナマの感覚に鋭敏でいたい。
世の中のフェイクを全て否定する気はないし、全て見破れる自身も毛頭ない。でもね、感覚を研ぎ澄ましていたいものだなぁと、いつも思っているのだ。

そんな感覚の変化と、それによる人間自身の変化を描いたサイファイ作品が、『奇想短編集 そののちの世界8 五感の嘘』だ。

 

あなたの五感は本物なのか!?
あなたの五感は本物なのか!?

 

気になったら、ぜひAmazonでチェックしてみてほしいな。
五つ星レビューもついた『五感の嘘』はこちらから!

 

では、いつかこの記事が、誰かの役に立ちますように!