鑑賞したよ:折羽ル子さん『画集魔獣ケモノノ村』

《緻密》、というのとはまた違う《過剰な》描き込みと共存する、それとは相反する筈の《力の抜き具合》が同居した画集だ。
これ、個性の塊にして、流行りの《キモカワ》とは次元の異なるなんとも言えない迫力を宿している。
言うなれば、不条理性か。絵の底に流れる諦めと孤独と、攻撃性とユーモア。
勢いなのか、巧妙に構築されたものなのか、ただ、力に任せて描いたというものとは異なる統一感と一貫したストーリー性が漂っている。
──これはもう、世界。

何箇所かに挟まれている線画のスケッチを見ると、達者な技術の持ち主であることがよく分かって、つい頷く。

過剰に線が描き込まれたメカに潜むエロティシズム(いや、潜んでいるというより、マンマか……?)。
明らさまに残虐かと思えば、本当は可愛く描きたかったのか? とも思われるようなピンクのハートがミスリードをも誘う。

もし、自分が編集者だったら、この個性を台無しにしてしまうかも知れないな、と思った。
「この個性を大事にしながら、もっと一般性のある表現ができたら無敵じゃない?」
そんな悪魔の囁きが、ページを閉じた僕の脳裏に去来していた。

一般性と個性は、ある種の創作家にとって完全に正反対のベクトルを持つ価値観だろう。小説家、漫画家でもある折羽ル子さんの場合、画集以外における文字の情報量もハンパじゃない。それが個性でもあり、アクでもあり、波長の合う人を惹きつけるフェロモンなのだ。

そんな作品群中で、最も一般性を持ち得る、いや、一般性を持たなくても鑑賞者を惹きつけることのできるのが、この画集という媒体なのではないか、と感じた。

毒を薄めれば個性が薄まる。しかし、例えばイラストレーターとして商業的に成功するには、広告としてサブ要素(脇役)に甘んじられるくらいの薄さもまた、必要だろう。
でも作家性という武器を武器のままで持ち続けるには、逆に濃さの維持こそが必須だ。だったらそれには、やっぱりアートとしてのあり方なのだろうなぁ。と、とりとめもなく考えた。

いろいろなことを考えさせてくれた画集だった。

百聞は一見に如かず。
プライスマッチで無料になってるからね、一家に一冊、どうでしょう


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